超越と内在2

 争いたくなかった。抗えないほどの能力があれば不毛な争いもなくなるはずであると信じていた。

 近くに有名な進学塾ができたらしい。トップ校に入りたければそこで上位クラスにいれば安泰という名目で親たちがせっせと入れていたようだが、子供の考えることはもう少し安直である。
 Bクラスにいるか、Aクラスにいるか、Sクラスにいるか。そこで中学校とは別のカーストを形成して、上位にいれば安泰だと思っているようであった。

 学校のカースト制度は残酷で、容姿に恵まれたもの、腕力を振るうのに躊躇のないもの、男女交際に長けたもの、中学生の時点で持っているものからすれば生まれの差に近しい断絶があり、そのなかで安泰を得るのは困難であった。
 テストの点数であれば努力介入要素がふんだんに盛り込まれており、授業中の発言力も得られる。多少の知識があれば十分な抗弁もでき、腕力と違って未来志向的である。学校とは外のカーストに身を置くだけで「何も持っていない」状態からは逃れることが出来た。

 その塾に、私は行かなかった。正確に言えば行かせてもらえなかった。お金がかかるということである。なにより「勉強は自分でするものだ」という両親の一致した見解があり、なんなら私もそれには同意していた。
 周囲の同級生は学校の宿題とは別に塾の宿題に追われていて、学校のテストよりも塾の進級試験に腐心している様子であった。学校のカリキュラムに縛られないことを良しとする学習塾においては、学校で習っていないことを教わる優越感も同時に得られたのであろう。
 時折、試すように私に質問してくる同級生もいた。ある日は天体の運行に関するものであった。金星はなぜ明け方と宵のうちにしか見られないのか。問いそのものはとても興味をそそるが、なにぶん知らないものは知らないのである。
 塾で習ったけどわからなかった、と嘯きつつ私に講釈する同級生の話をきいた。私は金星の運行と月の満ち欠けについて知り、同級生は私にそのことを教えたという優越感を得る。この取引はある時期まではとてもうまく行っていた。
「学校では教えてくれない」ものに興味がむく時期である。(いや、これは学校の成績が悪かったものについてはいくつになっても同じなのかもしれない。)塾で教わる細かい知識や高度な内容を詰め込まれた塾生たちは、時折私の識らないことを塾で聞いてきて私に教えてくれる。時岡でも知らないことあるんだな! と塾生ならみんな識っているようなことで盛り上がって、私と彼らの間に線を引きつつ「識らないこと」を識っているという優越感を与える。こういう些細な取引をして適当にやり過ごしていた。

 学校の実力考査は学習済のすべての内容を試験範囲とする。
 中学3年生の夏休みを前にして、同級生たちはあたふたと一年生の頃に習ったことを思い出す。地理歴史、草花の見分けや元素記号と化学反応式。もうそんなこと覚えてないよとお互いに確認し合って、内々には帰ってから必死に勉強しているのだろう。Sクラスの同級生が軽々と入試問題を解いて喝采を浴び、さすがはSクラスだなと頷きあってその地位を確認するのも見慣れた風景であった。
 あいつはSクラス、あの子はAクラス、最近昇格した、降格した、Sクラスではいまこのあたりをやってて……休み時間にわざわざ私を交える理由もない塾の内部の話を聞かされる。Aクラスの男子が饒舌に塾の出来事を語り、Sクラスの女の子が控えめに微笑んで謙遜する。何人かで彼女を囲んで持ち上げつつ代わり映えのない話が続いていく。

 時岡は? 塾行かないの?

 そこそこの頻度で訊かれる質問である。行かせてもらえないんだ、と一応答えておくしかない。ピラミッドの中に入れようとする試みは何となくわかる。その埒外にある私の存在を捉える語彙がないのはおそらく不安なのだろう。
 塾行かなくてそんだけ成績いいのすげーな。と、言ってもらえるうちはよかった。まあ家で勉強しているから。毎回そう答えたが、本当にそうとしか言いようがなかった。やればできるのだからやるだけである。塾で勉強しようと、家で勉強しようと、やることは一緒のはずだった。強いて言えば細かい教科知識を得られる秘封感くらいのものだろう。大した差などつくことはなく、ただ塾に行かないだけの変わった同級生として曖昧なままで過ごしていた。
 
 そのことがはっきりしないほうがむしろ良かったかもしれない。

 実力考査は結構骨があった。数学は多少ひねったものが出たし、英語の長文もいつもより長く、理科も社会も細かい知識や多少の見解を述べるものがあった。
 とはいえ、受けてみた感触は中間考査と対して変わらないものであった。アフリカの国境線が直線的なのはなぜか。加熱している試験管を下げておくのはなぜか。金星はなぜ明け方と宵のうちにしか見られないのか。記述式といいつつ一問一答に近い。まあ大したことはなかろうと高をくくっていた。

 大したことはあった。蓋を開けてみれば学年一位だった。そのことは本来分かってはいけないことであった。

 私の中学校は順位の張り出しをしない。但し試験結果の得点分布が50点刻みで開示される。答案用紙が返却されたときに何となく察していたのではあるが、周囲は普段の出来栄えより各科目10点ずつ落ちていたらしい。私に対して点数を見せろという人が異様に増えたような気もした。特に拒む理由もなくほいほい見せている間に、気がつくと学年中に点数が知られていた。

 その上で得点分布の開示があった。そして500点満点のうち450点を超えていたのは学年でひとりだけであることが明らかにされた。確か私は470点くらいあったような記憶がある。思わず「えっ」と声が出て、それに眉をひそめる同級生の顔が目端に映った。

 壊してしまった。

 翌朝いつも一緒に登下校をする親友の口ぶりが重い。あまり話したくないが、付き合いで一緒にいるのだという雰囲気をまとっている。どうにかして気づかないふりをして、適当に戦国大名の話をしたり部活の話をしてみたり、何をしても溝を感じる。

 そのまま学校に着くと下履きの中に画鋲が入っていた。なんとも安直なやり口である。
 画鋲は取り除けば履ける。教室に向かうと何となく視線が違う。明らかに扱いに困った珍獣を見る目である。
 Sクラスであることを密かな自慢にしていた女の子が目をそらしているのがわかる。思いの外、女子からの目線が鋭い。廊下を歩いているとなおのこと避けられている気がする。
 
 明らかに壊してしまった。

 これだけ頑張ったのに。という怨嗟の声が聞こえてくるような気がした。傍から見ても大量に出された塾の課題、内部ランクを保つための定期的な試験、体罰に近い部活動の練習、加えて試験対策。大変な努力をされたのだろう。

「このガリ勉」

 という決まりきった捨て台詞に重みが増した。
 勉強しかできない、人間の感情がないロボットのような奴だ。と、ひそひそと伝えられる。時岡にはヒトのココロがない。勉強だけで人間性がない、血も涙もないロボット。人間じゃない、人間じゃない、ニンゲンじゃない。親し気に付き合っていたものたちが面と向かってそう評するようになった。

 知識があることを共通の価値観とする宗派に身を寄せていたつもりだった。その根底にある理性に甘えて、いつまでも話は通じるものと思っていた。
 いままでカルテルでも結ばれたかのように上位層でも似たような点数が揃っていて、まるで手を繋いでゴールテープを切ったかのような曖昧な実力差だった。
 明らかにしてはいけないものが見えてしまった。
 わたしはいとも簡単に破門され、次の実力考査で一位が有耶無耶になるまでのあいだ一方的な断交の憂き目に遭った。
 あるいは私はそれを誇れればよかったのかもしれない。ただ周囲の反応はどう考えてもその事実を認めないようであり、その態度からは抱えきれないあからさまな妬みしか見いだせなかった。

 なんでお前だけ。
 なんで私じゃなくて。

 わたしからはなんとも言えない。どう説明すれば理解してくれるのか。
 そもそもどうすれば理解したと言えるのかすらもわからなかった。もはや対話を拒む相手には説明のしようもなく、中学生女子特有の連帯感を以て徐々に態度が硬化し、同調する男子生徒からも冷たい目線を得た。
 手元には画鋲が一つずつ増えていった。
 
 勝てば良かろうの世界は試験とゲームの中、ではなかった。もはやこの世に勝っていい争いなどひとつもないのかもしれないとすら思えた。

 圧倒的な力の差があれば納得されるなどというものではなかった。
 否、まだ足りない。まだ圧倒的な力の差があると言えないのではないか。
 確実に黙らせるには足りないのである。もっと上に、上に、上に……。 
 


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