もしも砂糖が甘ければ〜佐々木恵美の実験ノート 第2話「禁断の果実に誘われて」

もしも砂糖が甘ければ〜佐々木恵美の実験ノート
第2話「禁断の果実に誘われて」
作:時岡結絃(ときおか ゆづる)
mail: yudzuru.tokioka.0824@gmail.com
twitter:@kagakuma

 高校生活二週目の月曜日。思った以上にレベルが高い授業に恵美は顔をしかめていた。中学生の時には予習というものを全くせず、授業中にやったことをそのまま覚えていれば受験までなんの問題もなかった。しかしそれが通用する世界ではない。特に英語だ。
 最初の英語の授業で「しっかり予習をしてきてください」と一コマつかって予習の仕方を習った後にもかかわらず、単語の意味だけ調べて寝てしまった。しかもそんなときに限って、次の授業のはじめから当てられてしまい「単語の意味なんか当然知っているでしょう?」 という態度でいきなり文法を問われたので面食らってしまった。数学と違って知らないものはいくら考えてもわからない。もう恥をかきたくない、そう思って恵美は、次からきちんと勉強しようと決意を新たにした。先生の言う通り、和訳と文法まで調べて臨む必要があるらしいのはわかった。やるしかない、できないことは先生も言わないだろうと、恵美は授業のあったその夜から準備を始めた。土日まで使っているのだ、さすがに大丈夫なはずだろうとぼんやりと考えていた。しかしその見積もりすら甘く、きちんとやろうとするといつまでも予習が終わらない。結局二晩使い切ってしまい、途中までしか理解していないのに寝てしまった。果たして、今日はその予習を諦めたところを見事当てられてしまったのだった。
 最近英語の勉強しかしていない。放課になったら今日こそ化学教室に行って片岡先輩から楽しいことを教えてもらおう。恵美はそのことだけを胸に、残りの授業を過ごしていた。ところがさらに運の悪いことに、クラスの掃除当番に見事当選してしまった。英語でも恥をかいて、掃除までさせられて。恵美はため息を隠さずに箒を取り出した。
 入学当初はみんな距離感を測りつつ話をしていたが、そろそろ新しい三人組や大きめの緩やかな連合体が形成されてくる。掃除中も女子のグループが固まっていて、箒を片手に「部活どこに入る?」と言う話でもちきりだった。恵美自身は理学部以外に興味はなかったが、とりあえず話を合わせて「まだ迷ってるー」と言っておいた。理学部に頻繁に出入りしていることはそのうち知れるだろうが、このグループに対しては差し当たり中立でいたい。
 掃除が終わると、見学に行きたいもの同士がつるんでテニス部に向かったようだった。恵美も義理で誘われはしたが「文化部を見ていきたいから」というあながち嘘ではない表現で丸めておいた。

 教室を最後に出ると、別のクラスにいる中学時代からの友人が、壁を背にしてスマートフォンを眺めていた。
「あ、やっと来た。もう、遅いよ」
 彼女は恵美に気づくと、壁から身を離して頬を膨らませてみせた。怒ったふりをする必要はあるのだろうかと恵美は思った。
「こーこちゃん何してるの。待っててなんて言ってないけど」
「最近会えなかったからさ。えみちゃん部活もう決めたんでしょ?」
 廊下を歩きながら話す。本当の読み方は「めぐみ」なのだが、浩子は恵美のことをわざと「えみ」と呼ぶ。この名前はよく間違えられる。出席簿にふりがなを振っていないのか、授業初日は5コマ中2コマで間違えられた。学校に入ってからずっとどうなのでもう慣れ切ったものだ。一度間違えるとみんな気を遣って「めぐみ」と呼んでくれる。親しみを込めてその名で呼び続けるのは浩子くらいだ。恵美は仕返しに「こーこ」と呼んでやっている。
「うん、というかもう入学式の日に見学してきた」
「はや! 帰りいなかったのはそういうことだったのね。で、あの変な先輩はいたの?」
「変な先輩いうな」
 恵美は浩子の脇腹を肘で小突いた。
「まあ昔変だったのは確かだけど」
「だったって、たぶん今もでしょ。中学の頃からずっと言ってるけど、私には何がいいのかさっぱりわかんないんだよね」
 浩子は両手を頭の後ろに組んで宙を眺めていた。
「ほっといてよ。あんな知的な人になりたいな、っていうただの憧れ」
「憧れねぇー」
 浩子がちらっと恵美の顔を伺った。わざわざ訊かなくても浩子が言いたいことは恵美にも十分わかっていた。恵美は少し気恥ずかしくなって話題を変えることにした。
「ところでこーこちゃん部活どこにするの?」
「うーん、まだ決めてない! 今日はクラスの友達と水泳部行ってみようって話してた」
 浩子は交友関係が広く、すぐに友達を作ってしまう。きっとクラスでもすぐに仲のいい人を作ってワイワイやっているのだろう。恵美も友達ができないわけではないのだが、昼休みにお弁当を囲むのは三人くらいがいい。その辺は対照的なのだが、不思議とかれこれ三年くらい親交がある。
「中学にはなかったもんね。そういえば泳ぎたいって言ってたっけ」
「そうそう。えみちゃんは入らないの?水泳部」
「いいよ。泳ぎたくなったら自分で温水プール行くし」
「確かに。じゃ、今から行ってくる。今日こそ一緒に帰ろうね」
「うん、じゃあ部活おわったら」
「やった。最後までいると思うし、ちょっと校門で待ってて!」
 そういうと浩子は手を振りながら階段を駆け降りて行った。

 浩子は今も変な人だというけれども、先週の先輩はそこまで変でもなかったなと恵美は思う。長い間眺めていると、先輩の新しい一面がちょこちょこ垣間見える。それを含めても、別に変なところなんてあんまりないのではないか。先週の先輩は、実験準備に不備があるのを見つけて「ん」に濁音がついたような声を出した。その瞬間を切り取って、恵美は心の中でスクリーンショットを保存しておいた。人間なら誰しもある一瞬だ。だけど先輩のそういうところはなんとなく胸に残る。そんな一枚を思い出しつつ、恵美は化学教室に向かった。
 先週は新入生歓迎イベントで、例の色が変わる実験を毎日していた。とはいっても、理学部に訪問したのは無口な二人組の男子だけだった。やめたほうがいいですよときちんと伝えたつもりだったのだが、無念にも口頭試問が行われてしまった。新入生の二人は、緊張しているからかうまく言葉が出てこないようだった。部長が二人の男子生徒から言葉を引き出そうと、あれやこれや質問の仕方を何度も変えていた。しかし二人は苦笑いをしたまま「いやあ」とか「うーん」とかそういう単語を発したまま押し黙っていた。先輩も後頭部を掻く仕草を見せていた。恵美はそこにいて、離れた場所から一部始終をずっと眺めていた。そっと近くの椅子に座って、その状況には介入しない。それが大人でしょう? 私は新入生です。何も知りません。口を開くことなく、片岡先輩の困った顔をちらちらと見ていた。こんなに長い時間合法的に先輩を眺めていられるのは、中学時代では考えられないことだ。恵美は頬が緩むのを必死で堪えていた。
 その日を除いて理学部には訪問客がなかった。正確に言うと、恵美だけが足繁く通っていた。まだ入部しますと明言したわけではないのだが、完全に部員として扱われていた。毎日実験準備だけして、誰も来ないねえなんて言いながら片岡先輩は本を読み始める。恵美はそんな姿をしばらく眺めた後で、中学時代のように今日は何を勉強しているのかと尋ねる。そうすると片岡先輩は、平坦な口調でかみ砕いた説明をしてくれる。きちんと相槌を打って理解を試みると、先輩は徐々にヒートアップしてくる。そのうち図が必要になって、黒板を無断で占有して説明を始めることもある。昔とは違って、恵美も先輩の説明する内容がそこそこわかるようになっていた。この時間が毎日与えられることは、恵美にとって小さな楽しみだった。そんな日が木金と続いた。

 週が明けた今日、化学教室の扉を開けると白衣姿の片岡先輩がいた。また実験器具を用意している。今日は初日のような刺激臭はしない。入った瞬間目が合って、先輩が無表情のまま「お、いらっしゃい」といった。
「まだ新歓続けるんですか?」
 制カバンを机の上に置いてから、先輩のほうに寄って話しかけた。
「新歓はあきらめた。これは僕がやりたいだけだよ」
 実験台の上には、数本の試験管と木製のハサミ、そしていくつかの試薬瓶が揃えられていた。濃硫酸、酢酸と三種類のアルコール。小さいビーカーもたくさん置いてあり、大きいビーカーからはうっすらと湯気が立っていた。
「やっぱり座学だけじゃわかんないことたくさんあるしね。佐々木さんも来ると思って簡単なのをやってみようかなと」
「簡単なんですか」
「簡単だよ。混ぜて振って温めるだけ」
 先輩は空の試験管を取り出して振ってみせた。
 恵美は、ふうん、と一言漏らすと、棚から白衣を取り出した。本来なら入部特典であるはずの新品の白衣を、部長から先週もらったのだ。まだ一週間も通っていないのだが、いずれにしろこの部活に入るつもりなので何ら問題はない。それに袖を通しながら、先輩の許に駆け寄った。
「やる? ってもう準備万端か」
「やりますやります!」
 恵美が張りのある声で答えた。先輩の顔が少し綻んだように見えた。白衣を着ているだけで、なんとなく実験化学者になれた気がした。

「それで先輩、今日は何を作るんでしょうか」
 恵美は先輩の顔を見上げながら気取った口調で言った。料理教室と区別がついていない。
「うん。エステルの合成をしようと思う」
「エステルですか」
 先輩も先輩で「今夜は和食よ」くらいの情報しか渡してくれなかった。
「エステルは知ってるよね?」
「はい。有機酸とアルコールが脱水縮合してできるものですよね」
「そうそう。というか定義そのまんま覚えてるのな。それって結構いい香りがするっていうのは聞いたことあるんだけど、実際に作ったことないなと思って今日やってみようと」
「そうなんですか。具体的には何の香りですか?」
 また匂いがするのか。嫌な匂いでなければいいのだけれど。
「果物の香りがする、と文献にあるものを集めてみた」
「いいですね。メロンとかですか?」
 恵美は期待を込めて言った。
「そういう感じだけど、せっかくだから何の香りかは秘密にしておこう。嗅いでから当てるほうが楽しいよね」
 なるほど。物質名は知っていても、その味や香りというのは文献ではわからない。なんなら「この物質の香りを知っているものはすべて死んでいる」なんて書いてあったりする。先輩のすることだから変なものは合成しないだろう。恵美は先輩の実験をそばで見ていることにした。

 先輩が蒸留水とありったけの駒込ピペットをとってきて実験の準備が調った。
「まずはこれ、アルコールが三種類あるよね。その中から一種類を選んで試験管に入れる。それに酢酸を加えてから、濃硫酸を一滴。試験管を振り混ぜてからお湯で温めると、数分で平衡状態になって香り成分ができる、らしい」
「それだけですか?」
「それだけ」
「本当に簡単そうですね」
 合成というからには難しいことをするのではないかと恵美は身構えていたが、手順を聞くと本当に簡単そうで拍子抜けした。
「そうそう。濃硫酸の扱いだけちょっと注意がいるけど。どう?やってみない?」
「私がですか?失敗しませんか」
 先輩が実験しているところを見ているだけのつもりだったのだけれども。
「大丈夫大丈夫」
 本当に大丈夫だろうか。少し気が引ける。
「でもちょっといきなりは無理なんで、お手本見せてくださいよ」
「そんなに難しくないと思うけどなあ」
 本当に簡単なのにな、と独り言ちて、先輩は一瞬考えてから頷いた。
「まあ先にやってみるか。手順は全く同じだし」
 先輩は早速小さなビーカーと、ひとつの試薬瓶を手前に置いた。「3-メチル-1-ブタノール」、試薬瓶にはそう書いてある。小さいビーカーの 1/4 ほどまで試薬が注ぎとられた。ピペットを使って慣れた手つきで試薬を吸い上げ、少量を試験管に取った。先輩はスムーズな手つきでここまでの操作を終わらせたが、恵美は何となく粗さを覚えた。
「量を計ってないみたいですけどいいんですか?」
「いや、計ってる。ピペットでこれくらいとると大体 2 ml 丁度なんだよ」
 先輩は試験管を凝視したまま、一度試験管に取った試薬をピペットに戻して量を示した。
 細かい目盛りもついていないピペットで正確に量を測り取っていたらしい。恵美は小口を開けて声にならない感嘆を漏らした。中学の頃からずっと一緒に本を読んでいただけだったので、先輩が実験をするところを見るのは初めてだ。知識の豊富さには常に尊敬の念を抱いていたが、その上実験技術まで極めていたなんて。
「あとアルコールが過剰なほうが平衡が偏って反応しやすい。この量で続けるよ」
 先輩がいつも以上に真剣な目つきをしている。次に新しいビーカーを取り出して、そこに濃酢酸を移した。そこから別のピペットを用いてほとんど同じ量を吸い上げ、すでに試薬の入っている試験管に加えた。まるで形のあるものを右から左に置きなおすように試薬を移していく。
 酢酸の純度が高いのか、さっきからこれ自身が悪臭を発している。酢酸というと料理で使うお酢のような香りかと思っていたが、何となく男の子の汗のにおいが凝縮したような……と言ったほうが近い気がする。気になりはしたが、鼻を覆うほどではない。恵美は少し我慢することにした。
 さらに濃硫酸も同じように新しいビーカーに移した。これもまた別のピペットで先ほどの試験管に一滴だけ入れて、残りをビーカーに戻した。役者が揃ったところで、先輩は試験管を軽く振る。数秒振り終えると、試験管の口に木製のハサミを取り付けてから湯気の立ったビーカーに試験管を浸けた。
「お湯で熱を加えて反応を進めたい。5分くらい待っておこうか」
「終わりのタイミングってわかるんですか?」
「いや、まったくわからない。数分待てばまあ反応してるだろうみたいな感じ」
「かなりアバウトなんですね」
 この実験、最初から最後まで雑なものだ。そんなことでいいのだろうか。
「まあでもわかるっちゃわかる。いい香りがして油が浮いてくるはずだからね」
 恵美はまた色が変わってきれいなものができることを期待していたが、混ぜて振ってお湯に浸けるだけというのは地味もいいところだろう。恵美は両手を実験台に乗せて片足をぶらぶらさせ始めた。先輩は一人でじっと試験管を眺めている。恵美も試験管を同じように眺めているふりをしながら、先輩の顔を見ていた。
「やっぱり量が少なかったんじゃないですか?」
 1分ほどの無言に耐えきれず、恵美が口を開いた。
「いや、量はこれで十分」
 そういう先輩の目はずっと同じ方向を向いている。
「さっき少量しかとらなかったけどイソペンタノールはとんでもない臭いがする。酢酸も純度の高いものはツンとした強い臭いがする。それが合わさるとどうなるかなっていう実験なわけ。まあもう少し置いておこう」
 簡単簡単という口振りからして本当は経験があるのかと思ったが、実際には単に実験操作そのものに慣れているだけなのだろう。新しい実験を目の前にして、何か面白い現象が起きないかと瞬きせずに観察しているのだ。
 恵美は足をぶらぶらさせることに飽きて、座り込んで顔を机に載せながら試験管をお湯に入った試験管を眺めた。先輩は小さな変化も見逃すまいと試験管に釘付けだが、恵美の目には何が変化したのかよくわからない。香りもしないし、何かが分離している様子もない。先輩をちらちら見ている方が楽しい。そちらも特に変化はないのだが、まっすぐな目をしている先輩は少しかっこいいと思ってしまう。
「もういいかな。そろそろ5分経つ」
 腕時計を確認してから、先輩はビーカーから試験管を引き上げた。布で水滴を拭きとり、右手でさっと試験管の口を扇いで香りを確かめると、神妙な顔をしていた先輩がパッと明るい表情に変わった。
「できたよ。思った通りだ。わかってると思うけど直接は嗅がないでね」
 恵美は出来上がった試験管を渡された。先輩を真似て、恐る恐る香りを確認する。とてもいい香りだ。この香りはよく知っている。
「……バナナ、ですよね」
「そうそう、バナナだよバナナ。これは酢酸イソアミルとかイソペンチルって名前で、実際に人工のバナナ香料として使われている」
「そうなんですか」
 恵美はもう一度同じようにして香りを楽しんだ。本当にバナナだ。バナナというか、先輩の言う通り人工物のような嘘っぽさがある。イチゴ味だと主張する子供用歯磨きみたいな感覚だ。
香りというのは不思議なものだ。恵美もこの実験の面白さが分かってきた。今度は何の香りがするのだろう。

「次やってみていいですか」
「お、やりますか。じゃあ僕がやったのを真似してやってみて」
 先輩が新しいビーカーを取り出して、n-オクタノールと書かれた試薬瓶から同じように移した。ビーカーを机に置き、新しい試験管とピペットとともに恵美に渡した。
「じゃあやってみて。ゆっくりでいいよ。正確に測ろうとか、うまくやろうとか考えなくていいから」
 応援を受けた恵美は、まずピペットを手にした。赤い風船の部分をつまんで、ビーカーにピペットの先を浸けた。n-オクタノールを少量取ろうとして吸い上げたら、思ったよりも量が取れてしまった。
「いいよそれで。そのまま移して」
 量についてはあまり気にしないことにして、試験管の中で試薬を開放した。
「そうそう。それくらいでいいよ」
 こわばっていた右腕から力が抜けた。次は酢酸のほうだ。恵美はそのまま同じピペットでビーカーから酢酸を取ろうとする。
「ちょっとまって、さすがに酢酸とアルコールがコンタミするのはよくない。これは専用のピペットを使おう」
 先輩は穏やかな口調で窘めながら、さっき酢酸を取るのに使ったピペットを差し出した。恵美は素直にそれを受け取り、ピペットの先をビーカーに浸けた。同じ量を取ろうと意識すると親指が震えた。どうしても眉間にシワが寄ってしまうのがわかる。恐る恐る指を緩めて吸い上げると、今度は先輩の言った 2 ml くらいがとれたような気がした。これを同じ試験管に入れた。
「次は濃硫酸だね。一応気を付けて。今度は一滴しか使わないから」
 今度こそ濃硫酸用のピペットを使ってほんの少しだけ吸い上げた。濃硫酸は粘稠な液体だというのは知っていたが、吸い取るときに少し抵抗を感じたので、本に載っていた知識を指先で実感した。
「濃硫酸を試験管に取るときは、試験管を少し斜めにして液面の少し上の壁から伝わせるようにやるんだよ」
 なかなか難しいことをおっしゃる、恵美はそう思いながら、先輩の言うとおりに試験管を斜めにして恐る恐る風船を緩めた。一滴だけぽとりと試験管の壁面に落とすと、濃硫酸がゆっくりと壁面を下りて試薬に吸い込まれた。先輩の真似をして何度か振り混ぜてから、同じようにお湯に入れてあげた。
「これで大丈夫、ですよね」
「うんうん、上手にできてたと思うよ」
「ほんとですか!」
 恵美は目許を緩めて先輩の方を向いた。腕が勝手にガッツポーズを取ろうとしたけれども、右手にピペットを握りしめていたのでやめた。地味もいいところだなんて感想を持ったが、これらの実験操作を手際よくやるというのは意外と難しいものなのだということがわかった。もっと練習すれば助手として認められて、実験のお手伝いが毎回できるようになるのかもしれない。
「こういう実験は精度感覚が肝心でね」
 先輩が自信たっぷりに語り始めた。
「精度ですか?駒込ピペットで正確に 2 ml を測り取る技術みたいなのですか」
「逆逆、もう比率が大体合っててアルコールのほうが多少過剰くらいでいいやっていう雑さを先に決めてるから、駒込ピペットで適当に実験ができるわけ。これが精密実験で収率測りますとかだったら、もっと精密な器具を使わないといけない」
「そうなんですか。いつでも正確にってわけじゃないんですね」
「目的に応じて、っていうことだね。今回はエステルがそこそこきちんとできたらいいからこの程度の精度。守らなきゃいけないのは比率と、濃硫酸の扱い。あとアルコールは多少過剰量でいいということ。だから気楽にやっていいよ」
 そんな話をしているうちに反応が終わったようで、先輩が試験管を取り出して香りを確認した。
「うん。できてる。今度もいい香りだよ」
 恵美は試験管を渡された。香りを確かめると、すっきりとした爽やかな香りがする。
「なんでしょうねこれ、柑橘系ですね」
「そうだね、柑橘系。いろんな人がオレンジっていってるけど」
 先輩の言葉を聞いてもう一度試験管の口を扇いだ。確かにオレンジと言われたらオレンジかもしれない。アルコールの種類を変えただけで、全く違う香りがする。さっきは甘ったるい香りがしたのに今度は爽やかな柑橘系だ。加えた物質の香りともまるで違う。別のアルコールを入れたらどんな香りがするのだろうか。

「次もやらせてください」
 恵美は前のめりになって先輩を見上げた。今度こそうまくやってやりたい。
「いいよー。じゃあ同じようにやってみて」
 最後はエタノールだ。これは恵美も知っている。お酒とお酢が混ざるとどうなるのだろう。
 エタノールをビーカーにとり、新しいピペットをもらって試験管に少量取る。次に酢酸を同じように吸い上げ、最後に濃硫酸を一滴だけ落とした。壁面を這わせるのを忘れずに。二回目だけど、案外慣れるものだなと恵美は少し得意になった。
 そうして試験管をまたお湯につけて数分待つ。
「今度は何の香りなんでしょうね」
「なんだろうね。きっとフルーツの香りがすると思うんだけど」
 先輩の口許が緩んでいる。恵美はそれを見て、何か隠しているような気がした。フルーツといっても実はドリアンでした、とかいう落ちなのだろうか。
「まあ実際僕もよくわかんないんだよ。合成するのは初めてだからね。でも果物に含まれているということは確かなので」
「そうなんですか。何の香りなのかな……」
 5分ほど二人とも押し黙ったまま、試験管を眺めていた。しばらくして、反応が終わったらしいということが先輩から伝えられた。
「じゃあ確かめてみようか。佐々木さんが一人で合成したんだし。一応気を付けて」
 そう言って先輩が手のひらを差し出した。恵美は勧められるがままに試験管を取り出して、口を扇いで恐る恐る香りを確かめた。これは、嗅いだことがあるな。フルー……
「完全に除光液じゃないですか!」
 恵美は思わず叫んでしまった。だまされた! 先輩は恵美の姿をみて、珍しく声に出して笑い始めた。
「いやどれどれ……おお、確かにこれはシンナーとしか言いようがないな。確実にフルーツではない」
 先輩はそんなことを言いながら香りを確かめて、頬を膨らませた恵美の姿を見て満足げな顔をした。
「いやいや、まさかここまで有機溶剤っぽい香りになるとは思わなくてね。これ酢酸エチルっていうんだけど、実際にリンゴの香り成分の一部ではあって、きちんと合成するとほのかにリンゴを感じるらしい。あと飲み物やお酒に混ぜたりしてた時期もあったんだよ? でもまあこんな雑な実験でそれは無理な話だよね」
 笑いながらネタばらしをはじめる先輩に対して、恵美は目を細めて上目遣いに先輩を見上げた。
「分かっててやったんですね!もうほんとに……」
「ごめん、ごめんって。大丈夫、これくらいの量なら全然危険じゃないから」
 そういう問題ではない。先輩が「計画通り」という顔をしている。最初の二つで期待を持たせておいて、酢酸エチルでガクッとなる。きっとそうなるところが見たくてこの実験を思いついたのだろう。完全に掌の上だった。してやられた。笑いの止まらない先輩を見て、そのうち恵美自身もなんだか可笑しくなってきた。
 二人でひとしきり笑ってから、一緒に片付けをした。

「他にもいい香りのエステルってあるんですか?」
 廃液を処理したあとのビーカーを洗いながら恵美が問いかけた。
「もちろんたくさんあるよ。最初に言ったメロンの香りのやつとか、イチゴ、アンズ、ブドウとかね」
「いいですね。それも作りましょうよ」
「うーん、別にいいんだけど、もともとのカルボン酸に酪酸を使わないといけないのがあったりしてあんまりやりたくない」
 試験管をブラシで磨いている先輩が、少ししかめ面をして言った。
「酪酸ですか。三大悪臭の?」
「そうそう。あれはできるだけ手に触れたくない。酢酸より大きなカルボン酸は、大抵失敗してその香りが残った時に面白くない結果になることが見えてる」
「そうなんですか。難しいですね」
 先輩から渡された試験管を水道水ですすいだ後、蒸留水を通してから試験管立てにおいた。蒸留水の使い方はさっき先輩から丁寧に教えてもらった。先輩が水栓を締めて、ハンカチで手を拭いてから腕時計を確認した。
「まだ一時間くらい遊べるのか。じゃあせっかくだからエステル化反応について話しておこうかな」
「お願いします!」
「といっても簡単なことしか言わないけどね……」
 そういうと実験用の白衣を脱いで講義用のものに着替えた。講義用は制服がチョークで汚れないためのものらしく、赤やら黄色やらいろんな色のチョークがついていた。
 先輩のこの講義を聞くのが最近の楽しみだ。自分でも勉強はするのだが、教科書に載っていないことまできちんと教えてくれる。やっぱり自分の世界を広げてくれる人はこの人しかいないと恵美は思った。恵美も白衣を畳んで、一番前の席に座って「先輩用」と小さく書かれたノートを開いた。
「まずさっきも言ったけど、エステルっていうのはカルボン酸とアルコールの脱水縮合で起きる。例えばさっきの除光液、もとい酢酸エチルで話そうか」
 そういうと先輩は黒板に化学反応式を書き始めた

CH3COOH + CH3CH2OH⇄ CH3CO-O-CH2CH3 + H2O

「さて、ここで問題」
 エステルがもっている右側の酸素原子に下線を引いた後、勿体ぶってゆっくりとした口調で恵美に問いかけた。
「酢酸エチルは酢酸とエタノールがくっついていて、この酸素原子でつながっている。CH3COがもともと酢酸だった部分、CH2CH3がもともとエタノールだった部分なのはわかると思うけど、さて、この酸素原子はもともと酢酸のものだったでしょうか?エタノールのものだったでしょうか?」
 いきなり難しい問題が出された。簡単なことしか話さないって言ったのに。恵美は胸の内で文句を言いつつ目の前の問題を考えてみるも、全く見当がつかない。
「それってわかるんですか?」
「わかる。正確じゃないことを承知の上で、具体的に言うと次のうちどっちの反応が起きたか?という問題になる」
1. CH3CO-O-・H + CH3CH2・OH → CH3CO-O-CH2CH3 + H2O
2. CH3CO・OH + CH3CH2-O-・H → CH3CO-O-CH2CH3 + H2O
「どっちでしょう?」
 先輩が試すような笑顔で訊いてきた。どっちだろう。恵美は少し考えてみた。おそらく結合の弱いものが切れやすくて、そっちの方が正解なのだろう。酢酸は酸なので、水素原子を切り離すのは容易なはずだ。対してアルコールも確かに酸だが、酢酸ほどではない。そうすると、
「多分1だと思います」
「1だね。理由は?」
「酢酸のHのほうが取れやすいと思ったからです」
 先輩はそれを聞いてうんうんと深く頷いた。
「そうだね。酢酸は酸としては中くらいの強さだ。だからHを放出するんじゃないかという予想はいい線をいっている。でも実際に起きるのは2のほうなんだ」
「そうなんですか」
 酢酸のOHがとれてしまうのか。恵美はノートに写しとった2番のマークを何重にも丸で囲んだ。でもよく考えると、1のほうだとアルコールのOHが取れていることになってしまって、まるで塩基だ。その反応にも無理がある気がしてきた
「ちょっとずつレベルを上げて説明するよ。まずカルボキシル基っていうのは-COOHと書かれるけれども、実際にはCOの部分とOHの部分に分かれている」
 そう言うと先輩は何かしらの構造式を黒板に描いた。

「これがカルボン酸の構造式。教科書か何かで見たことはあるよね?」
「あります。ありますけど……」
 恵美は言葉に詰まった。
「わからないことがあったらちゃんと訊いてね」
「そうですね。質問はあるんですけど、今更って言われそうな気がして」
 恵美はノートから顔を上げて片岡先輩の方を向いた。
「そんなの、誰だって最初は何も知らない。今更な質問なんてこの世に一つもないんだよ」
 先輩は平坦な口調でそういった。恵美はそれでも強い恐れを抱いていた。隣で見ていただけとはいえ、一年間も一緒に化学を勉強していた身で何を今更と言われそうだ。
 先輩の話は始まったばかりだが、もう恵美の知識の埒外にあることが出てきてしまった。曖昧に理解した状態で知っている振りをしてでも、先輩から「よく知っているね」と言われたい気持ちが強く恵美の心を支配した。本当は何も知らないのだ。でもよく知っているべき事柄のはずなのは恵美もわかっている。一年間ずっと知らないで過ごしてきたとは思われたくなかった。恥ずかしいし、馬鹿にされそうだ、そういう恐れを抱いた。
 でもそれで質問をしないこと、知ったふりをすることは、本当に先輩の望んでいることなのだろうか。そして、恵美自身が目指す大人像とはそんな人間なのだろうか。一瞬の恥を敢えて取って、一生覚えておく方が良いのではないだろうか。何も知らない恵美に対してずっと語り掛け続けてくれた先輩が、それこそ今更知識のなさを馬鹿にするのだろうか。恵美は自身に強く問いかけた。きっと馬鹿にしたりはしない、恵美はそう信じることにした。恵美の信じているいつもの先輩なら。
実際の時間としてはほんの1分も経っていなかったが、この沈黙は恵美にとって永遠のように感じられた。その永遠に終わりを告げ、恵美は思ったことを全て話すことに決めた。
「それなら……そのRってやつなんですけど、そんな元素見たことなくて」
 先輩は瞬きをして一瞬顔が固まった。恵美にはそのように見えた。だが先輩はすぐに表情を戻し、何も気にしていない様子で話し始めた。
「そうか。これ最初は元素だって思うよね。そうじゃないんだ」
 そう言うと、黒板に2つのカルボン酸を描いた。

「カルボン酸はカルボキシル基、-COOHがついた有機化合物のこと。例えばこれは酢酸、これは酪酸。それを代表して、カルボン酸全体について議論したい。そういうとき、このRはアルキル基、つまりCとHだけでできた炭素鎖ならなんでもいいですよっていう意味で使われる」
 先輩は一息おいてから、続きを話し始めた。
「カルボン酸の話をしたいとき、-COOHの左にはいろんなものが考えられる。CH2の数が2つとか3つとか。だからRっていう文字で『ここから先はいろんなものがついていますよ』ということを示す。数学でいう変数みたいなものかな」
 但し、と言って先輩は恵美の反応を見た。恵美はメモを取る手を止めて顔をあげた。
「但し、いろんなものとはいってもその部分に余計な反応をする官能基がついてたら困る。だから普通はただの炭素が繋がっただけのもの、それも二重結合とかベンゼン環とか面倒なものが入っていないシンプルなものだけを考えたい。そういうときにはRって書く。ここから先はアルキル基、つまりただの炭素鎖だから、今から考える反応にはあんまり関係ありませんよ、ということが言いたいわけ」
 先輩は知らなかったことを馬鹿にするでもなく、逆によく質問したねと褒めるでもなく、ただ丁寧にそう語った。恵美はそのフラットな接し方に救われた気持ちになった。
「この時点で何か他にわからないことはある?」
「今のところは、大丈夫です」
 恵美はノートに書かれたRの文字を見つめた後で言った。何も言われなかった。ただ説明をしてくれた。それだけで恵美にとっては十分だった。
 じゃあ先に進めるねと言って、先輩が話を続けた。
「二重結合でつながっているC=Oのほうはカルボニル基と呼ばれている。このOはCの電子を強く吸引して、Cは弱いプラス電荷になっているわけ」
電気陰性度は知ってる?と言いながら、構造式に記号を付け加えた。

「一応説明しようか。元素それぞれで、電子を引き付ける力は少しずつ異なる。酸素はいろんな元素の中でも電子を引き付ける力がフッ素に次いで二番目に強い。だから、炭素と酸素の間には力関係があって、二重結合を成している電子はちょっとだけ酸素の方に引き寄せられる。これを表すのが、δ-とδ+っていう記号」
 先輩は恵美から質問がないことを無言で確認した。
「そこにアルコールがやってくる。この実験の場合はエタノール、CH3CH2OHだね。一般形はR-OH」

「アルコールの持つ酸素には非共有電子対、つまり他の元素と共有結合をしていない電子のペアがあって、その電子を持った酸素が求核攻撃するからOHがとれて水になるということ」


「こういう寸法だね」
「あの、求核攻撃ってなんですか」
 途中で理解ができなくなったので、恵美は今度こそ遠慮なく議論を止めた。
「ああ、ごめん。まず『攻撃』っていうのは化学の言い回しで、ある分子が積極的に反応を起こそうとすることをそう呼ぶんだ。ここでは電子が足りないプラスのCに対して、電子リッチ……電子をいっぱい持っているOが近づいて、無理やり新しい結合を形成する反応を起こすこと。それが求核攻撃。この時エタノール酸素の持っているRとHだとHのほうが弱い結合だから切れてしまって、カルボニル基についてもOHが切れてしまう。切れたもの同士がつながって水になるわけ」
 ふむふむと言いながら恵美は先ほど描かれた絵に先輩の説明を書き足した。
「求核の核は、原子核の核っていう風に理解してたらいいかな。つまり電子をたくさん持ってマイナスになっている物質が、プラスに帯電している原子核を求めて新しい結合を作ることが、求核攻撃」
 先輩の説明をできるだけ正確にノートに書き写すと、恵美はそれを眺めてから納得した。厳密な定義かどうかはわからないが、感覚としてはつかめた。
「というわけでさっきの答えは2のほう。実はこれを確かめる実験があってね。あ、僕らにはできないよ」
 CH3COOH + CH3CH218OH
「こんな風に酸素の安定同位体18Oをエタノールに仕込んでおくわけ。そうすると、どっちの酸素が残っているのかわかるという実験」
「でも酸素16と酸素18ってそんなに重さ変わらないから、酢酸エチルの重さを測っただけじゃわかりにくいんじゃないですか?」
 恵美が質問すると、先輩が軽く頷いた。
「そう思うよね。でも今はNMRっていう機械があって、これはどんな原子核の種類から誰と結合しているのかまで教えてくれる。それを使えばどっちなのかは完全にわかってしまう」
「そんなに精密なんですか。で、実際にはどうだったんですか?」
「酢酸とエタノールをつないでいる酸素は 100 % エタノール由来ということがわかった」
「100 % ですか」
「そう。この反応は確実に2番で正しい」
恵美はこの事実に不思議さと興味を覚えた。原子同士の組み換えが起きているミクロの世界を、まるで直接覗き込むように何が起きているか「わかる」ということに惹きつけられた。

 恵美はノートを読み返した。一通り納得してから考えてみると、ひとつ大事なことを忘れていることに気がついた。
「そしたら、濃硫酸ってどこで使うんですか?今の説明だけだと、お酢とお酒を混ぜただけで酢酸エチルができそうな気がします」
 先輩がそれを聞いて、目を見開いて恵美を指差した。
「そうそう。この反応はこのままでは起きない。反応を進めるには酸触媒と脱水剤、つまり濃硫酸が必要になる。これはちゃんと反応機構を説明しておかないと」
 そういうと、いっぱいになった黒板の文字を全部消して、左端から化学反応式を描き始めた。

「まずカルボニル酸素が酸触媒から供給されたプロトンと結合する。そうするとカルボカチオンができるから、アルコールの酸素が求核攻撃を仕掛け…」
 先輩は嬉しそうな顔をしながら早口で説明を始めた。先輩のテンションは最高潮だ。恵美は聞いたことをノートに書き写そうとしたが、さすがにわからないことが多すぎた。
「ちょっと待ってください。えーっと、どこから質問したらいいか」
 先輩が反応式を描く手を止めて恵美を振り返ると、正気に戻ったような顔をした。
「ああ、そうだね。一つずつ反応を見ていこうか」
「えっと、その前に……」
 恵美がまず反応式を全て描き写してから、見慣れない記号を一つずつ解決していくことにした。本当の恥を知った大人になるのだ。

「まずこの、三つの物質を囲んでる大きなカッコってどんな意味があるんですか?」
「ああこれ? これは共鳴構造式って言ってね」

 先輩は共鳴構造式を描き終えると、まだ少し興奮気味に説明を始めた。
「これについて語るとそれだけで講義が一コマできてしまうから、簡単に説明しちゃうか。まずここで注目してほしいんだけど、このカッコ内の物質は三つとも違う構造に見えて、実は原子と原子の繋がり方だけを見ると全く同じのはず」
 恵美はそれを聞いて、英文字の並びだけを確認した。確かに、二重結合とか+記号とかは違うけれども、原子の並び方は全く同じだ。
「ということは、この三つは化学的には同じ物質。違うのは、電子の偏り方だけなんだ。その偏り方には三パターン考えられますよ、それはこんな偏り方をしていますよ、ということを示すのが、この共鳴構造式」
 共鳴構造式。差し当たって、電子の偏り方のパターンを列挙したものというふうに恵美は理解した。
「そうすると、このCとかOとかについている+記号はなんなんでしょう。普通に電荷ですか?」
「そうだね。じゃあまず、そもそも電子の偏りに三パターンあるのは何故なのかということから話してみようか」
 そういうと先輩がもう一度カルボン酸の構造式を描いた。

「普通のカルボン酸は、電子の偏り方にパターンはない。強いて言えばCとOの間で綱引きはしているけど、全体で見るとプラスとマイナスの電荷は釣り合っている。だけどそこに濃硫酸が入ってきて、プラスに帯電した水素イオンが近づいてきた」

「水素イオンは電子を持っていない。このカルボン酸と水素イオンが結合する時、全体として電子が一つ足りない状態になる。そこで二つの酸素と一つの炭素の間で、電子の取り合いが始まってしまうわけだ」

「一つ電子が足りないから、全体で考えるとこのカルボン酸は電子一つ分だけプラスに帯電している。このプラスを三人で押し付けあっている様子が、この共鳴構造式というわけ。その時に、電子一つ分のプラスを押し付けられていますよ、ということを表すのが、さっき佐々木さんが言ったプラスの記号」
 説明を聞いて、恵美がノートを見直した。確かに、上の酸素と真ん中の炭素、右下の酸素がそれぞれプラスに帯電している。
「この共鳴構造式そのものの正しい解釈はかなり難しいので、まずはこういう電荷の押し付け合いがあるっていうことだけ理解してもらっていいかな」
 大体わかった?と先輩が確認した。恵美はノートにメモを残したあと、それを眺めた。
「とりあえず、このカッコの中身についてはわかったと思うんですが」
 恵美はまた一人で考え始めた。

 先輩は逸る気持ちを抑えているのか、どこか宙空をぼんやりと眺めながらちらちらと恵美の方を見遣った。落ち着かない様子で、チョークを持つ腕を持て余している。恵美はどこから疑問を解消すればいいかわからないまま、
「やっぱりまだ色々あります」
 とだけ言って、ノートから顔を上げた。先輩は早く何かを話したそうにしながら言った。
「そうだよね。じゃあ、整理できてなくてもいいからとりあえず思いついたこと言ってみて」
 恵美の頭の中は絡み合った紐のような状態になっていたが、その端点を探すのはやめて、差し当たって手許にある紐の一部を引っ張ることにした。
「矢印の意味がわからないところがあります」
「ん?例えばどこ?」
 ふらふらと落ち着かなかった先輩の右腕がぴたりととまった。
「えーっと、まず最初にカルボン酸から水素イオンに向かって矢印が伸びてますけど、これってカルボン酸が化学反応して水素イオンに変化する、っていう意味ではないですよね」
「……そうか、確かにこれ紛らわしい記号だよね」
 先輩は納得した様子で黒板を眺めた後、少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「まず、矢印の記号に、んーここでは四種類あるのわかるかな」
「四種類ですか?」
 恵美が黒板をくまなく探したが、その違いは二種類しか見当たらなかった。
「両方向の矢印と、右側一方通行の矢印がありますね」
 恵美がそう伝えると、先輩は他の違いを探すように言った。
「えーっと、あ、あとは右行きと左行きが行き来してるのと、一つの棒に二つの矢印がついてるのがあります」
 恵美の中ではこれが限界だ。間違い探しを諦めた恵美を見ながら、先輩が答えを言った。
「実はまっすぐの矢印と、曲がった矢印は全く意味が異なるんだよ」
 恵美は黒板を凝視した。確かに、まっすぐに矢印と曲がった矢印がある。
「これ先輩の絵が雑だからそう見えるんじゃないんですね」
 恵美がそういうと、先輩が笑いながら片手を振った。
「うん、これは違うんだ。曲がってるのとまっすぐなのはちゃんと区別して描いてる」
 なるほど。意図があったのか。それを聞いて、さっきの発言が無遠慮すぎたことに気がついた。すみませんと謝りかけた時に、先輩が楽しそうに説明を始めた。
「普通の右側一方通行、一方向矢印が二つ行き来してるやつ、一つの棒の両端に矢印がついているやつ、そして曲がった矢印。この中では、この四つがあるね」
 そういうと、普通の矢印に丸をつけた。

「この普通の矢印は、中学で習う意味と一緒。つまり、何かの反応が起きて別の物質に変わったことを表す。これはいいかな」
 恵美は無言で頷いた。次に先輩は、矢印が行き来している記号に丸をつけた。

「これだけど、佐々木さんはこれは見たことあるかな」
「一応あります。確か平衡状態を表す矢印?」
 先輩はそれを聞いて、少し考えてから口を開いた。
「大体あってる。もう少し正確にいうと、こいつは可逆反応であることを示す矢印。さっきの片矢印は反応したらもう元に戻ることはない。けどこの矢印は、反応した後で元の物質に戻ってくる反応があります、ということを指している」
「それってどう違うんですか」
「必ずしも平衡状態を表すっていうわけじゃないんだよ。平衡状態っていうのは、右向きの反応と左向きの反応が同じ速度だから見た目上何も起きていないように見えることを指す言葉。この矢印は、可逆反応がある、っていうことを示しているだけ」
 恵美が小首を傾げているのを見て、先輩は言葉を選び直した。
「平衡状態は、最終的に反応が落ち着いている状態ですよっていうことを表す、状態についての用語。可逆反応は、右向きと左向きの両方の反応が起きますよっていうことを表す、反応の性質についての用語。可逆反応だからといって、平衡状態になるとは限らないからね。できた物質がどんどん別の反応を続けてしまったら、たとえ可逆反応であっても逆反応を起こすべき物質がないから元に戻らないし……えーっと」
 確かに似てるよな、と先輩が独り言ちて、説明を付け加えた。
「高校化学だと、一種類の可逆反応を無限の時間放置した時のことを考えるから、そうすると可逆反応が全部平衡状態になるかのように錯覚してしまうのかな。実際にはこの反応みたいに、反応してできた物質がまた反応して、っていう風に反応が連鎖するから、単純に元に戻れるというだけでは平衡状態、反応の右辺と左辺が釣り合った状態になるとは限らないんだよ」
 そういうと先輩は念を押すように主張を簡潔にまとめた。

可逆反応:反応が元に戻れるかどうかを表す(可逆反応は戻れる
平衡状態:右向きの反応と左向きの反応が釣り合って変化がないように見える状態を表す
 
恵美はここまで聞いて、まとめた内容がすっと頭に入ってきた。可逆反応は単純に元に戻れる反応。平衡状態は、左右の反応が釣り合っている状態。元に戻れるからといって釣り合いが取れるとは限らない。恵美はそう理解して、やっと明るい顔をした。続けていいかな?といって、先輩が曲がった矢印を丸で囲んだ。

「この曲がったのから説明しないといけない。これは反応の結果を表す記号じゃなくて、電子の移動を表す別の記号なんだ」
「反応を表してるわけではないんですね」
「えーっとそれはそうなんだけど」
 先輩が言い淀んでから、はっきりと言い直した。
「正確に言おうか。まっすぐな矢印は、反応の結果を表す矢印。だから矢印の前後で原子の組み換えが起きているはず。ここまではいいよね」
 恵美が簡単に「はい」と答えてから、先輩は続きを話した。
「曲がった矢印は、電子の行き先を表す矢印。だから、矢印の前後ではまだ原子の組み換えは起きていなくて、電子の持ち主が変わっているということだけを示している」

 まっすぐな矢印:反応の結果を表す=原子が組み換わっている
 曲がった矢印:電子の移動先を表す=電子の持ち主が変わっている

「有機化学反応っていうのは、普通は反応の前に電子の持ち主が変わる。だから、まっすぐな矢印の原因になるような電子の移動がどこかにあるはずで、その移動を曲がった矢印で表しているわけね」
「反応の原因になる電子の移動を表している、ということ、ですね」
 恵美は黒板にまとめられた文字を書きとりながら言った。
「具体的に見てみようか。この一番最初の反応、カルボン酸のOから水素イオンに曲がった矢印が伸びてる」

 先輩が矢印をコツコツと指で叩いた。
「正確に言おうか。これは酸素から伸びているけれども、酸素の持っている非共有電子対から伸びているといったほうが正しい。この非共有電子対が、これから水素イオンに移動しますよ、ということを表しているわけ。その移動があると、さっきも言ったようにカルボン酸は電子が一個足りなくなる。その足りなくなった結果として、一連の反応が始まるわけだ」
「あ、じゃあOがHに変化したとか、OがHにくっついたとかじゃなくて、Oの電子がHに移動したことだけを指してるということですか」
 恵美は先輩の発言を要約してそう言った。
「そういうこと。そのあとOとHがくっついたかどうかっていうのは、まっすぐな矢印の先で結果を表す。もしかしたら、電子だけ奪われて他の原子とくっついちゃうかもしれないからね。この曲がった矢印とまっすぐな矢印は、役割が分けられている。曲がった方は電子の動き、まっすぐな矢印は反応の結果」
 曲がった方は電子の動き……。曲がった矢印は電子の動きを表して、まっすぐな矢印は反応の結果を表す。差し当たってはこんなものだろう。恵美がそう理解したとき、ふと疑問点を見つけた。
「どうでもいいですけど、その『曲がった矢印』って正式名称は何ていうんですか」
「正式名称?」
「はい、なんかこう、かっこいい名前とかがあると思うんですけど。さっきの求核攻撃? みたいな」
 先輩は顎に手を当てて数秒考えたのちに、絞り出すようにこう言った。
「……曲がった矢印、だね」
「それが正式名称ですか?」
「うん。そうとしか言えない」
「めちゃくちゃダサいですね!」
 期待の斜め下を行く正式名称の味気なさに、恵美は思わず叫び声をあげた。
「そんなこと言われても、実際名前がないんだから仕方ない」
「まあ、そうですね」
 恵美は諦めて「曲がった矢印」と全く可愛くない名前で呼ぶことにした。
「実はこの矢印にも二種類あってね」
 そういうと先輩は黒板の空いたスペースに二つの矢印を書いた。

「普通の曲がった矢印と、曲がった半矢印がある」
「その全然可愛くない名前も正式名称ですか」
「……うん、まあそう思っていいよ」
 先輩が何かを妥協するように答えた。有機化学でしょっちゅう出てくるはずの矢印なのに、かっこよくて可愛い名前が付いていない。そのことに恵美は不満を覚えたが、先輩に抗議しても仕方のないことなので話を本筋に戻すことにした。差し当たっては、二つの「曲がった矢印」があるのなら、二種類の意味があるはずだろうと恵美は推測した。
「電子の移動にも種類があるんですか」
「そこまで大きな差はないよ。普通の方は電子2個、半矢印は電子1個の移動を表す。それだけのこと」
「そうすると、この最初の反応では電子2個が動いたってことですか?」
 先輩が「そうだね」というのを聞きながら、恵美はまた腑に落ちない点を見つけた。
「それだったら、電子2個が水素イオンに取られたのに、カルボン酸全体で電子が1個足りないっていうのは計算が合わない気がしますけど」
 ん? と言って先輩が一瞬眉にしわを寄せた。そして黒板の方を向くと、何かを指折り数え始めた。
「いや、これでいいよ。ちょっとややこしいね。電子2個が水素イオンに取られるっていう言い方がまずいのかもしれない」
 先輩はもう一度電子の動きを確認すると、納得した様子で説明を続けた。
「正確に言えば、酸素の非共有電子対が一旦水素イオンに移動するだけ。そのあとで、酸素と水素は共有結合を作る。共有結合は2つの電子をお互いに分け合うから、結合ができた後は酸素と水素で1個ずつの電子を持ち合う。つまり実質的に後から1個返してもらうのと同じことになる」
そういうと先輩は、その整理された頭の中を黒板に写してくれた。

 Oは2つの電子が余っている/ Hは電子を持っていない
→Oの電子がHに渡る
→OとHとの間で共有結合ができて O-H という形になる
→共有結合は2つの電子を持ち合うから、Oの取り分は1つ、Hの取り分も1つ
→Oが実質的に取られた電子の数は1つ

「えーっと、2個渡してそれを分け合うから、実質1個しか渡してないということですか」
 恵美はその説明をなぞって確認した。
「うん。そうなるね。そもそも、水素イオンの電荷は1プラスだから、計算上もそれであってるでしょ」
 恵美は一旦納得しようとしたが、まだもやもやしている。実質1個とはどういうことなのだろう。
「1個しか電子が取られてないなら、そこは曲がった半矢印? で描くべきなんじゃないですか?」
 先輩はそれを聞いて腕組みを始めた。「どう説明しようかな」などと言っている。
「うーん、反応を詳しくみていこうか。もし単に電子1つを水素イオンに渡しただけだとしたら、水素イオンはそれで満足して『はいさよなら』でどこかに行ってしまうよね。実際にはそうじゃない」
「実際には、共有結合ができてますね」
「そういうこと。この反応では非共有電子対が移動した。これが大事なんだ。この2個の電子が水素イオンに引き付けられたことで、酸素と水素の間には共有結合ができた。共有結合は2つの電子を分け合う結合だから、その意味では実質1個返ってくる。でも、できた後で実質1個返ってくるかどうかというのは、この矢印では表さない。この矢印は、飽くまでも電子2つが移動した結果として反応が起きたよ、ということが言いたいわけ」
「移動した電子の数を表すだけで、そのあとの反応結果とか、原子の組み換えみたいなものは表していない……?」
 恵美はのなかではまだ納得がいっていない。先輩は少し困ったような顔をしている。追加で説明を続けて納得させようと口をぱくぱくさせてうーんうーんと唸っていたが、考えが変わったようだ。
「差し当たり、そのくらいの理解でいいんじゃないかな。こういうのは、実際に反応を追いかけていくうちに慣れていくもんだよ」
「そういうものですか」
「そういうもの。記号なんだから使われ方を見ないとわからないよ。英語だって、文法を完全に理解するまで文章を読まないでいると何も身につかないし。まずは反応を追いかけてみよう」
 恵美は何となく昨晩の自分のことを言われているような気がして、心につんと針が刺さったような感覚を覚えた。確かに、使われ方を教えてもらう方がいいかもしれない。
「じゃあ、今日の反応を教えてもらっていいですか」
「よしじゃあ、一つずつ見ていこうか」
 先輩が描きかけた反応式を消して、最初から描き始めた。

「まずはこれ。カルボン酸と濃硫酸の供給した水素イオンが出会う」
 曲がった矢印を指差した。
「この矢印は、酸素の非共有電子対が水素イオンに移動したことを表す。ここまでは説明した通り。いいかな?」
 恵美はこくりと頷いた。
「ここで水素イオンに移動した電子は、酸素との間に共有結合を作る。このとき、水素イオンはもともとプラス電荷を持っているから、全体で電子1つ分だけプラスになってしまう。そのプラスを押し付けあっている図がこれ」
 そういうと先輩が共鳴構造式を描いた。

「で、さっき敢えて説明してなかったこの両矢印なんだけど、さっき言った意味とはまた違う意味を持つ」
「え、じゃあどういう意味があるんですか」
「これは説明が難しくて、この3つのパターンを行き来していますよ、くらいの意味」
「電子の偏りのパターンですね」
 恵美は共鳴構造式の説明を思い出した。
「そう。そのパターンを行ったり来たりしているということを表す矢印だね。そうだ」
 先輩の顔が一層明るくなって、一言付け加えた。
「これにはかっこいい名前がついている」
「電子の偏りのパターンを行き来すること、ですか」
「そうそれ。その説明はあんまり正確じゃないんだけど、用語としては『共鳴』っていう名前がついている」
 先輩は黒板に『共鳴』という文字を大きく書き加えた。書き終えると恵美の方を向いて反応を待った。恵美の方はというと、納得はしたがそこまで大きな感動はなかった。
「共鳴している構造式だから、共鳴構造式、ですか」
「そういうことだね」
 かっこいいけど、意外性がない。恵美はそう思った。
 先輩は恵美から何の反応もないのを見て少し残念そうにしながら「些末なことは置いておいて」と言って共鳴構造式に新しい化合物を付け加えた。

「ここにアルコールがやってくる。Rはさっき意味を言ったね」
「CとHのだけでできた集まりだったらなんでもいい、んでしたっけ」
 恵美がノートに目を走らせて確認した。
「そうそう。正確にはアルキル基ね。炭化水素基。二重結合とかが混じってると困るときもあるから、それは除いておこう。それで、このアルコールの酸素も非共有電子対を持っている。これがカルボン酸に攻撃するんだけども」
 先輩は共鳴構造式の3つのパターンをそれぞれ指し示した。
「有機化学の原則。電子を持っている原子と、電子が足りない原子が反応を起こす。じゃあこの三人の中でなら誰でもいいのか、って言ったらそうじゃないんだよね。この場合には炭素にプラス電荷がある時にだけ初めて攻撃できる」
「O同士で反応することもあるんじゃないですか」
「そういうことももちろんあるけど、さっき言った電気陰性度の違いがあったほうが電気的な意味でくっつきやすいし、電子も奪いやすいのはなんとなくわかると思う」
 先輩は一息つくと、説明を続けた。
「原子核はみんな電子が欲しい。だから綱引きが対等な相手よりも、綱引きで勝てる相手。同じ勝てる相手でも、より圧勝できる相手を選んで反応するわけ」
「なんかいじわるですね」
 恵美はぼそっと感想を述べた。有機化学って可愛くないのかもしれないと恵美は思った。
「いじわるっていうか、原子は相手に配慮する必要がないからね。人間と違って」
 それもそうか。恵美は無意識に酸素を悪いもの扱いしていたことに気づいた。
「そうすると、この三人の中では必然的に炭素が求核攻撃される。酸素は炭素との間に共有結合を作って、また新しい中間体が出来上がる」

「この状態でもやっぱり電子は一つ足りない。誰かにしわ寄せが行くしかない。ここでプラスに帯電しているのは元アルコールの酸素だけど、酸素と水素の間には強い力関係があるから酸素は水素から電子を無理やり奪い取ってしまう。そうすると、水素は裸になって水素イオンとして追い出されてしまうわけ」

「ちょっとまってください」
 恵美はこの反応式をみて覚えた違和感を口にした。
「この曲がった矢印って、OとHの間にある棒から出てますけど……」
「そう、だね」
 先輩は恵美の言葉を聞いてから少し考えて、恵美に問い返した。
「なんかひっかかる?」
「ひっかかるというか、曲がった矢印って電子の動きを表すんですよね。この図だと、電子を渡す側が誰なのかわからないというか……」
「……ああ、そういうことか」
 先輩は何かを察して説明を始めた。
「この棒、ただの棒だと思ってたってことか」
「ただの棒っていうか、OとHの単結合を表す棒ですよね」
 恵美は定義の通りに答えた。
「そう。単結合を表す棒。単結合、つまり共有結合をしているということは、OとHの間には共有電子している電子があるはず」
「確かにそうですね」
 共有結合は、原子同士がお互いに電子を出し合って電子を共有する。その共有した電子のおかげで原子同士はつながっていられる。そういう風に恵美は理解していた。
「この棒は高校までだと単につながっていることだけを表していたんだけど、有機化学ではここに2つの電子がある、ということまで意味するようになる。その2つを共有していることも含めて」
「……とすると、この棒も電子2つを表すっていうことですか」
「雑に言えばそういうことだね」
 ただの棒ではなかったのか。恵美は何気なく描いていた棒に意味があったことに驚きを覚えた。
「さっきの酸素から曲がった矢印が出てた時は、酸素の非共有電子対が移動した」

「今度はOとHとの間で共有している電子が移動した」

「ここで、OとHの間には共有している電子対が存在する」

「ここでは共有していた電子対を、一方的にOだけのものにしてしまう。この矢印はそういう電子の動きを表しているわけ」
「共有してる電子を独り占めしちゃうんですか」
「そう。この共有電子はOのものでもHのものでもあったんだけど、いま勝手にOが奪ってしまうから、Hにとっては電子を引きはがされたような形になる。だから『Hから電子を奪う』という表現をする。それから『共有結合を切る』という表現もするね」
 Hと共有している電子を自分のものにする……。恵美は反応式を眺めた後、その奪う相手は別にHである必然性がないように感じた。
「Rとの共有結合からは電子を奪わないんですか?」
「これも力関係で、RよりHの方が弱いからそこから電子を取ることになるね。綱引きで圧勝できるほうを選んだ」
 やっぱりいじわるだ。恵美はそう思ったけれども、ただの物質にそういうことをいっても詮無いことだ。
「そうすると全体で電子の釣り合いは取れた。一件落着、に見えるんだけども、またふらふらと水素イオンがやってきて昔カルボン酸だった部分の酸素から電子を奪い取る」

「そうすると、この大きな分子の中で電荷の釣り合いはどうなる?」
 恵美はページを一つ戻して確認した。
「そうですね。また電子が一つ足りなくなって、プラスになりますね」
「そうそう。その通り」
 片岡先輩は満足気に笑みを浮かべてそう答えた。

「足りなくなったら、プラスの押し付け合いが始まる。そうするとさっきみたいな共鳴構造式が出てきそうなんだけど、今回は押し付け合いの結果として構造が変わってしまう。ちょっと復習」
 先輩はさっきの共鳴構造式を再度指差した。

「これは何が一緒で何が違うんだっけ?」
 先輩は優しく微笑んで問いかけた。恵美は目を上に走らせて先輩の言葉を思い出した。
「えーっと、原子の配置は同じで電子の偏りだけが違う、でいいですか」
 先輩はそれを見て小さく頷いた。
「そうそう。と言うことは、原子の配置が違ったらそれはもう化学反応だね。共鳴構造式では描けない」
 そう言うと先輩は一つの曲がった矢印を描いた。

「まず水素イオンに電子を奪われた酸素は、隣の炭素から電子を奪い取る」
 さらに曲がった矢印を書き加えた。

「その炭素はプラスに帯電する。この炭素がもう一つの酸素から電子を奪う。ここまではいいかな」
 いいかな、と言われるといいのだけれども。もやっとするところはある。思ったことは全部言うことに決めたのだった。
「えーっと、その炭素が、自分の電子を奪った酸素から奪い返すんじゃなくて、もう一つの酸素を選んで電子を奪うのはなんでですか」
「あ……そうだね」
 先輩は上を向いて何かを思い出すような仕草を見せると、すぐに返答した。
「そうそう、これは僕も最初わからなかった。実はこれ、選んでるわけじゃないんだ。もし自分の電子を奪った方から奪い返すと、どうなる?」
「酸素がプラスになって……元に戻りますね」
「元に戻ると言うことは、同じ電子移動が繰り返される」
「それじゃだめなんですか」
「ううん、だめじゃない。だめじゃないけど、そこで永久にぐるぐると電子のやり取りをするのは、反応の進行そのものとは無関係」
 恵美は少し考えてから先輩の意図を汲み取った。
「実際に起きてはいても……反応の進行そのもの関係のないものは省略した?」
「そう言うこと」
 先輩はそのまま言葉を続けた。
「今回みたいに別の原子から電子を奪うこともあるし、奪った相手から奪い返す矢印を描くこともあるんだ。どちらも、たくさんある電子移動の候補の中から、反応に関係しているものだけを選び取って描かれたものなわけ」
 ふうむ、と恵美は声に出さずに唸った。
「その電子移動以外は起き得ないんだと思ってました」
「そうそう。僕もそう思ってた。だけど実際には、伝えたい反応以外は書かない。あれも起きうるしこれも起きうるしって全部書くと、何が伝えたいのかわからなくなる」
 伝えたい反応以外は書かない。恵美はいつだったか浩子に渡した手紙を思い返した。ごちゃっとした文章だと呆れられたのだった。
「伝えたいことがたくさんあったらどうするんですか」
 怒っているわけではないのだが、恵美の言葉には力が入ってしまった。そんな感情の機微には触れず、先輩は簡単そうに言った。
「伝えたいことがたくさんあるときは、伝えたいことの分だけ別の論文や別の記事を書けばいいのさ」
 恵美はそれを聞いてなんとなく心に刺さるものを感じた。顎に手を置いて考え始めた恵美を見て、先輩はそれを見て首を傾げた。
「なんか変なこと言った?」
「いえ、いえなんでもないです」
 恵美は首を振って、差し当たっては黒板の反応式を理解することに集中した。今先輩が伝えたいのは、この反応のことだけだ。先輩は「続けるよ」と言って説明を再開した。
「で、最初の酸素が奪う電子はどこなのかというと、炭素との間にある単結合の電子。この単結合の電子を奪うということは、炭素とのつながりを切ることになる。つまり、H2Oが分離して水ができるというわけ」

 恵美は説明を書きとると、ノートを見返しながら言った。
「えっと、さっきの共鳴構造式で炭素との電子の取り合いをした時は結合が切れなかったのに、今回は切れてしまうんですか」
「そうだね。まずはこの二つをよく見比べて」

「さっきはカルボニル基に由来する二重結合があったから、電子を奪っても単結合は保てた。今回は全部単結合だから、結合している相手から電子を奪うということは結合を切るということになってしまう」
 見比べると、さっきは確かに二重結合がある。今回はない。つながって分け合っている電子を自分のものにしてしまうと、細いつながりは切れてしまう。
「なんだか切ないですね」
 恵美はしみじみとそう伝えた。有機化学はいじわるだし、可愛くないし、切ない。
「原子は切なさを感じないよ。人間と違って」
 そうだった。いじわるだとか切ないとか、そういうのは人間の持つ感情でしかない。
「ここまでくればあと一息」
 そういうと先輩は腕時計を見て、閉店までの時間を確認した。
「電子を奪われた炭素が、隣の酸素の非共有電子対を奪った。そうすると炭素と酸素の間には二重結合ができる」

「 そして、その酸素がまた隣の水素との間にある共有電子から電子を奪い取る」

 さて問題です、といって先輩は恵美に問いかけた。
「この酸素と水素の単結合から電子を奪うと、水素はどうなりますか?」
 恵美はついさっきの話を覚えていたが、自信がない。「素直に考えたらいいよ」という先輩の後押しを受けて、ためらいがちに答えた。
「酸素と水素の結合が切れてしまう……でいいですか」
「正解」
 先輩は恵美を指差して言った。恵美は頬が緩むのを覚えた。
「酸素と水素は結合が切れてしまって、水素は丸裸で放り出される。つまり水素イオンだ」

 先輩が反応を描き終えると、水素イオンの数を数え始めた。
「最初に一個水素イオンをもらって、アルコールと結合した時に一個返す。そのあとすぐに水素イオンと反応して、最後に一個返す。都合、濃硫酸からもらった水素イオンの数は差し引きゼロ。だから濃硫酸は反応には関与しているけど、反応の前後で影響を受けない。こういう物質をなんていうか知ってる?」
 恵美はそのフレーズに聞き覚えがあって、間をおかずに回答した。
「触媒、ですね」
「その通り」
 先輩は短く答えた。

「もう一つだけ話すことがあって」
 腕時計を確認してからそう前置きすると、少し早口で話し始めた。
「この反応、最初から最後まで全部可逆反応でできている。さっきか逆反応だからと言って平衡状態になるとは限らないと言ったけれども、この反応に関しては全部可逆反応だから放置しているとどこかで平衡状態になってしまう」
「それは何か問題なんですか」
「そうだね。平衡状態ということは、反応が終わっても全てのカルボン酸とアルコールがエステルにならずに中途半端な状態に終わってしまう可能性があるということ。それを防ぐ方法はいくつかあるけど」
 そう言って反応式中のH2Oに丸をつけた。
「まずこの水があるとここで逆反応が起きるから、水抜きをした」
「してたんですか?」
 恵美は実験の間ずっと試験管を凝視していた先輩の横顔を思い出した。
「僕はしてない。この役目をするのは濃硫酸。この子は酸触媒でもあるし脱水剤でもあるわけ」
 たった一滴の濃硫酸がやったことを、先輩の手柄のように言っている。恵美はちょっと可笑しくなった。
「あともう一つある。佐々木さんがアルコールを取りすぎた時に、そのまま入れてって言ったのは覚えてる?」
「はい、そうでしたね」
 恵美の中で、あれは失敗したかと冷や冷やした場面だった。
「あれはある意味正解で、平衡を右に偏らせるには左辺を大過剰にするとうまくいくわけ。それでアルコールをたくさん入れても大丈夫と言ったわけ。僕も最初から多めに入れてたし」
 そういうことだったのか。失敗した、足を引っ張ったかと恵美は思ったけれども、誤魔化しじゃなくちゃんとできていたようだ。

「これでこの反応について説明することはおしまい」
 それを聞くと、恵美は肩から力が抜けた。自分でも気づかないうちに、肩が凝るほど体がこわばっていたようだった。少し休憩してから、恵美はノートを見返した。そして今日の話を体に染み込ませようと、先輩の話を反芻した。
 もう少し理解を深めたいと思って質問を考えている時に、準備室のドアが開いた。
「そろそろ閉店ですよー」
 大久保先生がこの前のように準備室から顔だけ出している。この教室の閉店はいつも早い。
「あ、すみません。じゃあ帰りますか」
 先輩の方はすっかりやりきった顔をして、淡々と黒板を消し始めた。恵美もそれを手伝ってから、帰宅の準備をして教室を出た。

 先輩とはもともと同じ中学だったのだから、本当に家の近くまで同じ帰り道のはずである。それなのに一緒に帰ったことはない。今日も教室を出て昇降口まで行くと「それじゃ」といって先輩だけさっさと帰ってしまう。少し早いが先に校門まで行って浩子を待っていようか。そう思って恵美が歩き出したとき、そこに当の浩子がふらりと現れた。
「振られちゃった?」
 第一声がそれというのもひどいものだ。
「別にそういう関係じゃない。最後までいるんじゃなかったの?」
恵美は突き放したように冷たく言い放った。
「はいはい。いやーうちの水泳部合わないわ。チャラすぎ。用事があるって帰ってきちゃった」
 浩子が疲れた顔で深いため息をついた。
「そんな気がしてた」
「なんかもうナンパとかセクハラみたいなことしてくる先輩いるし。彼氏いるかどうかなんてどうでもいいじゃん。もっと純粋にスポーツを楽しみたいんだけどな」
 何をされたかは何となく想像がつく。浩子は端的に言うと可愛い。先生に目をつけられない程度の薄い茶髪。健康的に伸びた手足と小さな顔に、少し大きめのくりくりとした目が特徴的だ。元気はつらつ、人懐こくてすぐに友達ができ、周りがよく見えて気遣いもできる。男子からも人気がある。当然いろんな男が寄ってくるのだが、表に出さないだけで軽い男は嫌っている。浩子に近づいてみると結構気が強くて、嫌なことがあればわがままレベルのことでもはっきり言う。あしらい方くらいは心得ているのだろう。浩子に邪な心を剥き出しにした先輩たちはどんな言葉を浴びせられたのだろうか。
「泳ぎたかったら一緒にプール行こうよ。回数券あげる」
「やった。今度行こうね。そのあと消費したカロリー分だけたくさんケーキ食べよ」
「それ意味ないんじゃない?」
「あるある。ちゃんと身体が締まってくんだから」
 浩子がガッツポーズを見せた。出るとこは出てるし引っ込んでるところは引っ込んでる。締まった腕が制服から透けて見えそうだ。
「で、えみちゃんは今日なにしたの」
「そうそう、ひどかったよー。先輩に騙された!」
 恵美は事の顛末を詳らかに説明した。浩子も話を聞きながらおなかを抱えて笑った。
「なんかもう、ほんとに、変な人だね。えみちゃんを嵌めるためにしっかり準備して真面目な顔で実験してたんだ」
「そうそう。もうやっぱあの人変だわ……。何考えてるんだろ」
「そりゃ、先輩もえみちゃんと遊びたいんじゃないの」
さも当然のことのように浩子はそう答える。
「そうなの?」
「しーらないっ。直接訊いてみたらいいじゃない?」
「そうやってすぐけしかける……」
 浩子が期待しているようなことは、恵美と先輩の間には起きないような気がしていた。そもそも恵美自身がそれを望んでいない。このまま先輩の肩越しに本を読んで、時々実験のお手伝いをするような関係が恵美にとって心地よいと思っていた。
「まあでも、変な人だけど、悪い人じゃないよね。ううん、いい人だよ、絶対」
「それは、そうだよ」
 先輩のことを褒められると少しくすぐったい。ついツンとした口調になってしまう。
「誠実ないい人だと思うけどね。あれだけ変わってると気づく人は少ないと思うけど、中には先輩の魅力がわかる人も出てくるんじゃないの?」
「そうなのかなあ。いないと思うけど、いたとしたらどうなるの?」
「そりゃ、才色兼備成績優秀、黒髪ロングストレート赤眼鏡の超絶美人が突然現れて、先輩をメロメロにして、しまいにはかっさらっていくわけよ」
 浩子は右手で先輩の心を持っていった。恵美はさすがに大袈裟が過ぎる気がした。
「うーん……」
 恵美は真剣に数秒考えたが
「全く想像できない」
「だよね。私も」
 そうして二人で空想の世界を笑い飛ばした。

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