超越と内在

 超えられないものになりたかった。試すまでもなく諦めるほど高い存在でありたかった。

 私にとって窓際に思い出はない。中学生の頃、教科書からも先生からも学ぶことはひとつもなくて、ほとんどの時間はマンガを読んで過ごした。外から見える景色はいつも同じで、道路を車が往復しているところなんてすぐに飽きてしまった。雲の形は過ぎゆく季節を教えてくれる。ほのかに雨の予感を伝える匂いと、特に大事でもないところを一斉にマークするかすれた音。朝起きて眺めた 850 hPa 天気図は青天の霹靂を仄めかしていて、これを誰かに伝えたところで手遅れだと言われるだけなのはよくわかっていた。私一人が傘を持ってきていればそれでよかった。

 じゃあこの問題、時岡。これはどうだ? と教師の視線に応じるのもまた品行方正な生徒の役割である。「円周角の定理から弧長が等しい円周角は同じ角度を持ちます」と簡潔に答えた。
 ヒントにしかなっていないこの主張の意味を汲み取れたのは教師ひとりだけらしく、疑問符のぱらつく教室の中で苦い顔を浮かべた教師が「そのとおり」と唸ると詳細に補足をしてくれた。私がちゃんと授業をきいていること、正確に言えば教師がすべての生徒に平等に目を配っていることが証明されればそれで足りた。これは10年後になってやっと知ったことだが、世の人は一度にひとつのことしか考えられないと思いこんでいるらしい。私は赤本を書き写した紙に再び思考を割り振り、何のことはない円周角の定理が使えるじゃないかと思いついて答案を作成する。

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 超えられない存在になりたかった。何よりも高く、何よりも強く。争いが同じレベルのもの同士で起きるのであれば、もはや争うまでもなく勝てないと思わせるくらいに上に、上に行きたかった。
 半径一キロメートルの中で生活する私にとってどうすれば上の世界に行けるのか自力で知るのは困難であった。ただなんとなくわかっていたのは、世にある高級な資格を取得すればただの中学生ではなくなるということだった。

 登れば登るほど多くの壁が目の前に現れる。しかし試験と呼ばれる類のそれは、明確に倒されることだけが目的となっている素直な強敵である。
 赤本が解ければ将来は大学に行ける。いまのうちから安全なルートを少なくともひとつ確保しておきたかった。数学と物理学、化学、英語。難しいのは確かであるが、誰も解けない問題が入試で出されても意味がない。解けないようでいて解いてほしくてたまらない気持ちが見え透いている。解ってくれるのは合格者だけ、つまりこの教室では私だけ。できれば中学生で赤本の気持ちがわかるのは自分だけ。そうあってほしかった。
 天気図を読むのは難しくない。この低気圧が今後発達するのかしないのか、今年は冷夏になるのか、台風はどのような構造をしているのか。本を読めば書いてある。毎日天気図を読んでいればわかる。すごいことなどひとつもない。気象予報士を取得すれば軽く一人で暮らすくらいは難しくなさそうだった。

 こういう試験を難しい難しいと言ってくれるのはありがたい。その分だけ通った後の価値が上がるからだ。それに、難しそうだというだけで挑戦しないのも雑魚が減って助かる。
 それにこんなものよりももっと難しいものが世の中にはたくさんある。小学生の時にはじめてできた親友と、もう四年も片恋をしているのにどこが好きなのか自分でもよくわからない女の子、進学塾内の格付けで自分を着飾るチンパンジー、見せかけの腕力で制圧しようとする猿ども、生徒よりも優越していることだけを確認する教師、そして細胞のひとつひとつにいたるまで生活のすべてを支配する両親。彼らとうまくやっていこうとすることのほうがよっぽどコントローラビリティに欠ける。なにをしても、なにをしなくても、気に障ることがあれば気に障るのである。

 私はそんな俗物とはかけ離れて、上に、上に、上に行きたかった。なんならもうすでに上にいることを示したかった。戦わずして勝てるほどに強くなりたかった。なぜ同等であると思い込めるのだろう。なぜ私を指導できると思い上がっているのだろう。同級生も、先生も、親も、何も解っていない。私が理解の埒外にあると思いたくないようであった。

 時岡、おまえ授業中な……。と数学教師が眉をひそめて話しかけた。赤本はしまっていてくれと。
 なぜですか、とは問い返さない。面子の問題であることは明らかだから争う理由がない。持ち上げておいたほうが得策である。そうですか、気をつけますと一応返しておいて、せっかく捕まえた餌はきちんとごちそうになる。
「じゃあ先生、質問があるんですけど」
「どうした」
「この問題、2変数の常微分方程式に帰着されたんですけど、行列を使うとエレガントに解けるって聞いたんですが」
「ああ……そうだな」
 懐かしいなとこぼす教師の口ぶりは明らかに焦っていて、もう忘れたとは言いだせないようであった。そこで負けられると私も困る。
「今度休み時間に訊きにいきますね」
「ああ、うん、調べておく」
「ついでに先生の持ってる数学の本もほしいです」
「それはちょっとな。まだ使うことがあるからかんたんには譲れない」
 そうですか、とあからさまにしょげたふりをしたあと、じゃあまた今度お願いしますとにこやかに返事をすると満足そうに去っていった。

 優越感コンプレックスの人間には優越していると誤認してもらわないといけない。これを覆すと大変なことになるのだ。おそらくそれは子供に限ったことではなく、大人もそうなのだろうということは容易に推察された。
 面倒事はすべてヒトとヒトとの間から発生する。勝てば良かろうの世界は試験とゲームの中だけで、現実世界はもっと複雑な摩擦力が働いてぎりぎり成立している。あまり彼らを刺激しないように気をつけつつ、ただ、同類だとはどうしても思われたくなかった。

 どうすればうまくやっていけるのだろう。やはり方法はひとつしかない。上に、上に、上に、上に……。 

 放課後が近づく頃、外は急に不穏な雲に包まれて、みるみるうちに土砂降りになった。雷鳴が響くたびにわーきゃーと叫ぶ同級生たちをみていると、私一人だけが傘をもってきていることを少し惜しいものとも思いつつあった。


 それでも雨が降ることを伝える理由など一つもないのである。知識に敬意を払わないものは、その恩恵に与るべきではない。まして識っていることを馬鹿にするような猿どもには。

 
 




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