ジェイラボワークショップ第41回『喧々研究科学諤々』【情報科学部】[20221010-1023] #JLWS

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この記事は筆者が所属している秘密結社の活動ログです。
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皆さんこんばんは。けろたんです。
本日から2週間情報科学部WSよろしくお願いします 

ジェイラボ部活動の名前を見ているとあることに気づきました。
科学とつくのは情報科学部しかありません。
ということで、科学がどんなものが議論していきたいと思います。
WSのタイトルは「喧々研究科学諤々」です。

進行は以下の流れです。

  • Day1, 2, 3 最初の質問、プレ科学史

  • Day4, 5, 6 科学と科学でないもの(宗教、疑似科学)に関する質問

  • Day7 ここまでのまとめ

  • Day8, 9, 10 科学の考え方に関する質問

  • Day11, 12, 13 科学と技術、社会への応用に関する質問

  • Day14 全体のまとめ

アンケート1

アンケート

本日は、第一の質問を投下のち、天動説から地動説に転換するまでのエピソードをざっくり紹介します。

まず、議論の前提を固めるために辞書的な定義を確認します。
【科学】《science》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6/
ひとまず今回は、上記の定義のなかでも自然科学を科学として話を勧めていきたいと思います。 

あなたにとっての科学とはなんですか?(複数選択可)
:1: やって面白いもの    8
@Naokimen
, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @Daiki, @ていりふびに, @Tsubo, @コバ, @イスツクエ
:2: 知って面白いもの    15
@Hiroto, @蜆一朗, @西住, @chiffon cake, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @Shun, @ゆーろっぷ, @Yujin, @Daiki, @イヤープラグさざなみ, @Yuta, @匿名希望, @Tsubo, @イスツクエ
:3: 真理・知識を追求するもの    9
@Naokimen, @Hiroto, @チクシュルーブ隕石, @西住, @蜆一朗, @Shun, @イヤープラグさざなみ, @匿名希望, @イスツクエ
:4: 真理・知識をもたらすもの    1
@匿名希望
:5: 応用されて役に立つべきもの    5
@Takuma Kogawa, @YY 12, @蜆一朗, @あんまん, @匿名希望
:6: 応用など考えずに発展させるべきもの    12
@Naokimen, @Hiroto, @Takuma Kogawa, @YY 12, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Shun, @ゆーろっぷ, @Yujin, @Yuta, @Tsubo, @イスツクエ

 次に、科学とはなにかを考えるエピソードとして、天動説から地動説への転換をざっくり説明します。
自然現象に理屈をつけて説明しようとする行為は古代ギリシャにはじまる。特に、アリストテレスの自然学はさまざまな現象に説明を与えるものだった。アリストテレスの宇宙構造についての考え方は天動説の基盤となった。天動説では、地上と天界は別々の法則が支配しているとされ、天上界では等自然運動 = 速円運動しか生じないが、不完全な地上では、強制運動=外的な要因によって物が動くことによって、その不完全さを修正しようとしていると考えられていた。
16世紀になって、コペルニクスが地動説を唱えるが、この時点では観測データや理論が天動説に比べてとりわけ優れていたわけではなく、天動説とおなじ等速円運動を仮定していた。17世紀に入ると、ケプラーがティコ・ブラーエの精度の高い観測データをもとにケプラーの法則(1,2,3)を発見し、天動説で唱えられていた等速円運動が否定される。また、ガリレオが数学を用いた仮説と実験による検証で落体運動を分析する。ガリレオは天文においては、望遠鏡を用いた観察で木星の衛星の発見し、地球と木星の共通性が判明。最終的に、ニュートンが3つの基本法則の演繹で天体の運動と地上の運動を統一的に説明する力学を確立。 

まとめ:
天動説から地動説への転換は、新たな知識をもたらす科学とそれを弾圧する宗教、という対立で語られやすいです。その見方自体は一面では正しくもありますが、それだけだと時代を経るまで天動説がもっともな理屈として受け入れられていた、という事実を見落としてしまいます。観察に加えて現象を理想化した実験を行い、数学によって定量的に分析すること。その結果として、別々のものだとしていたことに統一的な説明をつけられるようになることが科学の基礎にあるように思われます。 

本日の投稿は以上です。
今WSとは直接の関係はないですが、ニュースや書籍を通じて興味を持った科学知識や、それらを深める学習・研究活動の体験に基づくコメントもお待ちしております

Hiroto


本質とは関係ないのですが、「地動説から天動説への転換」というのは「天動説から地動説への転換」の間違いとかではないですか、、?
ちゃんと意図があったらすみません。

けろたん


すみません。特に深い意味はなく普通に間違えました。
「地動説から天動説への転換」を「天動説から地動説への転換」に転換しました。
ご指摘ありがとうございます。お手を煩わせてすみませんでした。

西住


この本は科学の考え方を捉える上でかなり役に立ちました。
https://www.amazon.co.jp/dp/4774196509

Hiroto


「天動説をバカにして地動説を"絶対的に"正しいとする姿勢」は滑稽であるとする科学のあり方を、高校の物理の教員が時間を割いて教えてくれた思い出があります。
ただ単に、統一的に数理的処理ができるモデルとして有用であるという実利的なメリット以外に、地動説が天動説を上回る点はないように思います。これはネガティヴな意見ではなく、むしろ科学とは、数理的かつ統一的説明(解釈)方法を見つける(発見する・思いつく)営みでしかないと理解しています。 
数理的でない解釈の方法というのも開かれているかもしれませんが、それは科学とは呼びたくない気持ちがあります。

けろたん


Hirotoさんのコメントから(人間にとっての)実利的メリットと対立するものとして、本当に世界がどうであるか、があると読みとりました。
モデル  (数理的手法を用いないと場合は世界像という言葉を使ってもいいかもしれません) を世界が実際にどうであるかとは独立したものだと考える視点は、とても数学っぽいと思いました。
特に、モデルをもとに再び現実を再解釈してモデルの整合性を確かめるという発想がないとどのモデルが一番もっともらしいかを比較する、という考えに至りにくいので、(当時の観測範囲では) それ自体の内部に矛盾がない=妥当なモデルとして天動説が受け入れられていたのかなーと思ったりします。
今週の後半のテーマでもありますが、大方の陰謀論は「数理的でない統一的説明方法」といえると思います。今回は人文科学、社会科学は議論の対象から外しましたが、数理的方法を使わずにどうやって理屈の正統性を担保しているかという点で、それらの「科学」と陰謀論の違いを考えてみるのも面白いかもしれませんね

Hiroto


アンケの答えについてです。
大前提として僕は、ここでいう科学に数学を含めずに答えました。数学は特殊な学問であるからです。念頭に置いたのは経験科学・自然科学です。
1・2について
実験という科学において欠かせない手段が、僕は嫌いで苦手です。したがって、「やって面白い」とは口が裂けても言えません。科学による知見を知ること、それによって問題を(机上で)解決することは好きなので、2に入れました。
3・4について
僕が「やって面白くない」とはいえ、やはり科学とは営みであり、行為であり、"する"ものであると考えます。「もたらす」というある種受け身で静的な言葉よりも、「追求する」という能動的な言葉を選びたくなりました。3に入れました。
5・6について
これは鬱憤晴らしで6に入れました。基礎研究をおろそかにするな!という憤りが勝手に指を動かしていました。が、長期的なスパンで見れば5であろうと思います。
未来の科学においてどこで何がどう応用されるかを今の科学知で推し量ろうとする一種のバカさを理解・自覚できないのならば、6の信念をとりあえずは掲げるべきだろうと思います。超超将来的に5(役立たせる)に転じさせるべきなのは言うまでもないことですが、それを予測などできないのだからとりあえず6を掲げて片っ端から科学を進めていくべきだという気持ちです。

けろたん


・科学に数学を含めないことについて
僕も科学から数学を除外したくなる派です。
科学にツールを提供する役割をはたすにあたって数学自体が科学的である必要はないのはなぜか?という問いに対して、科学とは別の基礎づけ方をするからこそ、科学の道具として使える、という考え方もできそうだと思いました。
ちなみに、「数学は共通言語である」という言い方がありますが、宇宙人にたいしても共通言語足り得るのでしょうか。数学の認知科学の輪読を覗いたり、唯脳論を読んだりする限りでは、数学はむしろ人間に特有の思考様式であって、世界の認知がハードウェアレベルで異なる存在には通じない、ということもありそうです。数学を理解できることを知能と定義する、というか人間にとっては人間にとっての数学を理解することでしか知能を測れない気もします。うーん、こんがらがってきました。
・科学は「する」ものであることについて
現代社会に生きる限り知を生産する以上に知の成果を消費しているというのが前提ではありますが、知の探究としての科学、広くは考えること一般に対して能動的な態度であるべきだとする立場の方がジェイラボには多いことをアンケート結果が反映しているようにも思います。
ちなみに、「科学する」という言葉は出てきたときはおかしな日本語として受け止められていたようです。
・未来の科学技術を現在の知識で予測できないこと、科学を超超将来的には役立てるべきことについて
心情的にはHirotoさんの意見に賛成です。一方で、日本がそんなにふとっぱらではいられなくなった現在に投資を求める際の運動論としてどうあるべきかは別に議論する必要があると思います。来週の後半で科学と社会の関係として話題にしたいと思います。

蜆一朗


社会科学や人文科学のことはもちろん、自然科学のことでも工学寄りのことは何もわかりませんので、無意識のうちに数学のことを想定して考えてしまうかもしれません。
社会科学や人文科学のことはもちろん、自然科学のことでも工学寄りのことは何もわかりませんので、無意識のうちに数学のことを想定して考えてしまうかもしれません。
1-2 について  僕は数学をかじってアカデミックな場にいる人間ですが、正直居心地の悪さをすごく感じています。やはり僕はプレイヤーではないのだなという確信が芽生えてきています(この WS とは関係ないですが近日中に公開する note 記事にてこのことについて深堀りする予定です)ので、その意味で 2 に入れました。数学をやっていて苦痛でたまらないのかと言われるとそういうわけでもないし、勉強していて面白いと感じることもありますが、実力不足等の様々な理由でやっていて面白いというだけで突っ走れる世界ではないとも思っています。
3-4 について  定説とは現時点で最も整合性のある論理的な解釈に過ぎず、よりよい捉え方があればいつでもとって代わられ得るというものだと理解しています。そういった解釈を求める中で結果的に身につくのが知識であろうと思います。
5-6 について  僕が触れてきたり好きだったりするのが数学と古典なので、心情的には 6 がメインであります。しかし工学や医学薬学のように最初から応用を目的とする分野もありますし、真理を追究した結果として応用もされ得る数学のような分野もあり、一概には言えないので両方に入れました。


けろたん


博士課程に在籍なさっている立場からの貴重なコメントありがとうございます。
科学が貴族の道楽から、職業研究者が公的な機関で組織的に行うものになることで、できるようになったこともあれば、制度化されることによる無理もあるのかと思っているところです。
「よりよい捉え方があればいつでもとって代わられ得る」ことは、よりより捉え方を見つけるのに大変な労力がかかる、ということを否定しないはずですが、これを間違えていると、科学(者)を権威主義に感じたりするのかもしれません。
数学や古典は特に「〇〇は社会に出て使わない (から学校で教える必要はない)」論のやり玉に上がりやすいですね。これは来週後半のテーマで扱おうと考えています。このWSに先立って医学史の本も読んだのですが、近代化する以前の医学はおどろくほど非科学的でした。これは勝手に回復することもある人間の研究対象としての特殊性によるものが大きいと思いますが、学術(機関)として力を持っていることと、本来はその権力の厳選であるはずの知識の正しさがまったく関係ない例でもあると思います。

chiffon cake


1,2については双方ともに選択しました。
これは単に私が工学の人間だからです。どちらからでも面白く感じられます。
3~6については選択しませんでしいた。
もっぱら私は面白い(好奇心)からやっているだけです(そうあるべきとも考えています)ので、質問がそのようには意図されていないかもしれませんが、真理という言葉を持ち出すのには後ずさってしまいます。同じく、応用など考えずいつかは役に立つから科学は発展させろという意見も正直アカデミアにいる人間に共通するやや強い主張のように感じます。
意識が低いせいかもしれませんが、そもそも科学が役に立つかどうかは結果論だと考えています。(国からお金もらって研究させて貰う身で言うのも矛盾してしますが...)
ただ、あくまで一般的な文脈での質問(つまり研究費をどこに割り当てるべきかなど)で、5と6の2択なら6を選択します。
世間で騒がれていた深層学習の根底にあるのは数学者や物理学者の基礎研究です。
追記: 工学を専攻しているので、私の中で科学と学問の境界が曖昧なのかもしれません。

けろたん


真理という言葉がストイックさを想起させるという意見はなるほどなと思いました。言われてみれば、科学者を知の求道者のように捉える態度が反映されている気がします。
言葉の強さに引きずられてしまいますが、主張としてもかなり強いですね。
今ある科学に手広く10投資すれば、応用の面ではほとんどは実にならないが、いくつかが15とか20になったり、たまに100が出たりする、ぐらいの当たり率ぐらいが穏当なところでしょうか。
投資という観点だと、科学の知識を広く知らせることと知識で儲けることを対立するものだと捉えていると、誰かの成果に乗っかればよく知識自体を自分たちで生産する必要はないと考えてしまうのかもしれません。

Naokimen


最近書評の題材として選んだ『科学の方法』(中谷宇吉郎)という本は科学の本質を考えるのにとても役立ちました。
https://amzn.asia/d/4FIBKMj 

匿名希望


出遅れてしまいすみません。
1については、自分の興味のある分野(鉄道車両のダイナミクス全般及び走り装置全般例えば、ボルスタレス台車、ボルスタ付き台車、自己操舵台車、車体傾斜機能、振子装置、軸バネ、軸ダンパ、可変減衰軸ダンパ、ヨーダンパ、タンデム式軸受、空転・滑走・再粘着制御、走行位置特定のための線路曲率照合、などなど)に関しては、私個人はそのようであるが他の人にとってはそうでないのと同じで、そうでない分野(私にとっては沸騰冷却(沸騰現象、その中でも特殊状態である、気泡微細化沸騰(MEB)状態を意図的に発生させ、沸騰によって奪われる熱が非常に大きいことを活用して、発熱していて冷却したい装置(将来的には自動車の制御装置など)から熱を奪い冷却する技術)など)については、やっていて苦痛しか感じなかったことがあるので、選択しませんでした。
2及び3に関しては、上記の分野に関しては勿論、また世間一般的にも心理学が特に当てはまるのではないかと考えています。
人々がなんとなく感じ取ったり、行動のきっかけになっているものに対して、疑問を投げかけて解明し、言語化し、誰でもそのような行動を意図的に行うことができるようになる可能性を秘めているという点も魅力的と考えています。
4、5も上記のような理由から選択しました。論理的な思考ルートを辿り、仮定を立てて、真理を追求し、世の中に役立てるよう解明し還元するという点、並びに、応用され世の中がますますより良いものになっていく可能性を秘めている科学は、非常に素晴らしいものだと考えております。

けろたん


興味のある分野とそうでないものの具体的な列挙ありがとうございます。全般的に工学の用語なのでしょうか。
今回は自然科学を指して科学ということにしましたが、経済学や心理学など自然ではない対象を扱うも分野でも数学、統計的手段を使うものであれば、理系に含めるべきだという意見もありますね。
心理学が社会に提供する実用性を元に例示されたのだと思います。心理学の知識が広まるとその裏をかいて行動するのが利益になりそうで面白いですね。ちなみに心理学は他の分野に比べて結果が再現できないことでも話題になりがちです。科学が権威として用いられやすいことも併せて今WSで取り上げようと思います。
科学的知識が役に立つのに加えて、科学的な思考法を身に着けた人材が産業界に供給されることによる利益もありそうです。

Tsubo


 https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E4%BB%AE%E8%AA%AC-%E5%B2%A9%E6%B[…]83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%2Cinstant-video%2C192&sr=1-1-catcorr
このポアンカレの本がまず真っ先に思い浮かんだんですが,今実家にいるので手元にない…

けろたん


 WS Day1のアンケートへの返答、さらにはコメントありがとうございました。引き続き水曜日いっぱいまでは「あなたにとっての科学とはなんですか?」のテーマで議論を続けていきます。アンケート、コメント、けろたん返信への追加コメントどれもお待ちしております♡


Takuma Kogawa


学部に6年通っていて実験や科学全般が面白いと感じたことは少なかったです。真理がどうこうには興味がなく、個人的にはトライアンドエラーを繰り返して自分なりのこたえを見つけようとする姿勢が身について、そこはよかったなと思います。
多くの科学分野では基礎系/応用系と呼ばれると思いますが、私の出身の薬学では基礎系/臨床系という区分でした。基礎系は有機化学や生物を中心に理学部等と同じように研究をし(研究の背景は医学に近いものが多い)、臨床系は病院が持つデータを解析したり、臨床で問題になっていることを基礎研究で明らかにしたり((リバース)トランスレーショナルリサーチ)していました。薬学は基礎と臨床の両方が重要で、片方では成立しません。個人の興味はどちらかに偏っていてよいと思いますが、組織や国家としては両方の視点を持ってほしいです。

けろたん


プロフェッショナルとして働かれている立場からの貴重なコメントありがとうございます。
実験が大きな位置を占めていることは科学とそれ以外の知的活動を分ける大きな要素であるように思われます。目的の物質のために試行錯誤する、というのはもとをたどれば錬金術にまで遡るものでしょうか。結局、錬金術が成功しなかったのは、金を化学反応で作り出そうとしていたからですが、化学の初期には物質を分離して元素を見つけていくことで分野が発展した一方で、現代の創薬は膨大な組み合わせを試行錯誤するという異なる難しさを扱うセンスが必要とされていると推察します。
薬と言えば、古来よりは草本学があったのだと思いますが、漢方を別にして、工業的に薬を生産できるようになった現代とは系譜が断絶しているのでしょうか。錠剤や点滴になっていると、薬のもとが「草本」であったこと、つまり動物実験や材料として生き物を利用していることは意識されにくいように感じます。
かたや直接的な有用性を目的としないにもかかわらず大規模な予算が必要な実験を行ったりもする物理学があり、一方に普段から社会の中の人間とは切っても切り離せない薬学や医学のような分野を科学という言葉が繋いでいることは、社会と科学の関係を考えるにあたって重要なことだと思います。科学の有用性と探究的な側面のバランスはWS2週目後半のテーマとしたいと思います。

アンケート2

アンケート

こんばんは。けろたんです。
非常に遅くなってしまい申し訳ありません。
第二の質問です。テーマは、科学と科学でないものの違いです。
科学のようで科学でないものとして「宗教」「疑似科学」との相違点から科学とはなにかを考えてみようと思います。

例によって「宗教」「疑似科学」の辞書的な定義を確認します。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/宗教/#jn-103435
https://dictionary.goo.ne.jp/word/疑似科学/#jn-51675
辞書的な定義だとどちらともかなり大雑把なのですこし補いたいと思います。

・宗教について
「科学教」という言い回しがあります。科学は宗教と同じ、という言い方もされます。
例えば、初回アンケートでHirotoさんにコメントしていただいたような天動説を地動説にくらべ劣っているものと決めつけて当時の人々のものの考え方をバカにする態度や、「科学的」、「〇〇大の研究によると」などといった枕詞がつくとより説得的に感じてしまうことを戒めるために用いられます。具体的には、科学的な知識を、1. どんな手続によって得られて、2. どんなことを意味するか、を吟味せずに、正しいものとして無批判に受け入れてしまうことが非難の対象になっています。
一方で、科学の源流にキリスト教に由来する思考様式があることもまた事実です。フランシス・ベーコンの「知は力なり」という言葉は、知に基づいた技術によって自然を制御し、人間生活を改善させる意思の表明でもあります。ベーコンを始めとした当時の自然哲学者たちが共有していた自然観は、人間は神に特別の地位が与えられた存在であり、同じく神によって創造された自然を分析し、支配・管理する事ができるというものでした。分析においては、神の意志が自然法則として見いだされ得る、ということも与件でした。天文学におけるケプラーやガリレオは自然を聖書に比する神の意思の現れと捉え、ニュートンも自然を通して神について知ることを「自然哲学」と呼んでいます。
ところで、「神の意思」を「究極的な原因」と言い換えることで、自然に設計者がいるか、いるとしたらそれはだれであるかという神学的な問を棚上げすることができます。人間と自然の間に神を介在しない自然法則の探究であり、自然を機械と捉える立場です。現代の科学では「神」を無人格な「原因」と言い換えて、科学、研究活動が行われていると思いますがこの立場に近いものだと思われます。
(→質問1へGo!)

・疑似科学について
科学とそうでないものを区別するための概念として、「反証可能性」があります。観察や実験を通して、理論が反駁され得る、ということに科学の根本を求める考え方です。一般的には、科学の知識が集積していけばゆくほど、より正しい予測が可能になると捉えられています。「反証可能性」の着眼点は、「理論がどれだけ正しいことを言うか」と離れたところにあります。「反証可能性」の概念を使うと、「なにをもって理論が間違っているかと言えるか」が判定可能なものが科学であり、そうでない理論は科学的でないことになります。「呪い」を例に取ると、「呪い」それ自体オカルトチックで胡散臭いから間違っているのではなく、お祓いの前になにがどのようになれば呪いが消えたと言えるのかを後付でない形で説明できないから「呪い」が科学的で無いことになります。
しかし、科学が高度化してくると、間違いが間違いとわかるために膨大な理屈を理解する必要があります。間違っていると言われても、なにがどのように間違っているのか理解するのが困難になって、理論がどれほど科学らしいかは門外漢にはわかりません。こうなってくると、科学と疑似科学の区別がつかなくなってきますが、「高度な理論は疑似科学と同じ」と言ってもよいのでしょうか?
また別の問題として、科学がなんらかの絶対的に正しいものによって基礎づけられていて、それが「反証可能性」であるとするならば、「反証可能性」という概念自体がどのような手続きによって正当化されているのか?それは科学的な手続きか?というある種の循環の問題も発生します。
(→質問2へGo!) (編集済み) 

1-1: 科学と宗教は人々に世界観を提供する役割において同じである、ということに納得する。
:1: 納得する。科学と宗教の大きな共通点である    9
@コバ, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Hiroto, @Yujin, @YY 12, @イヤープラグさざなみ, @Tsubo, @ていりふびに
:2: 納得する。科学と宗教の共通点は他にもある
:3: 納得しない。科学と宗教は世界観を提供するが、説明対象が異なっている    2
@Naokimen, @Yuta
:4: 納得しない。科学と宗教は社会的な役割もやっていることも違うので比較できない    2
@chiffon cake, @あんまん
:5: その他    1
@Takuma Kogawa

1-2 (オープンクエスチョン) : 科学と宗教の同じところ、違うところはどんなところだと思いますか?

2-1 : 科学と疑似科学の違いは反証可能性があるかどうか、ということに納得する。
:1: 納得する。それだけで十分
:2: 納得する。それだけでは不十分    9
@Naokimen, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Hiroto, @YY 12, @Yujin, @Tsubo, @コバ
:3: 納得しない。理屈の正しさの確かめ方が違う、という点は認める
:4: 納得しない。理屈の正しさの確かめ方以外の違いがある    1
@Takuma Kogawa
:5: その他

 2-2 (オープンクエスチョン) : 科学と疑似科学の同じところ、違うところはどんなところだと思いますか?

けろたんの意見 (投票した後に見てみてください。コメントのネタになれば幸いです)
・科学と宗教・疑似科学の違い
やっている人が違う。
科学は学術機関で研究者がやっているが科学と疑似科学はそうではない。
研究者は考えたり、議論したりする資質を備えているので社会の基準からみて知的な作業に長けているはず。
宗教家は口がうまそう。経典や開祖のエピソードを引いて説法するので、ディベート的な能力が高そう。(ひろゆきを宗教家として解釈するのもおもしろそうだ)
宗教にハマっている側の人はすくなくとも科学とは違った思考様式を持っていそう。神秘的なものであれそうでないものであれ、自分の体験や経験を理屈より重視する面があるのではないか?伝統宗教は宗教的な儀式や活動とはいっても、常識化していることを差し引く必要がある。
疑似科学、とくに学校教育の範囲で反論できうるものにハマっているのは少なくとも、理科の勉強をしなかった人ではないか?
ワクチンや陰謀論など、学位所持者が扇動するケースも有る。これは意図的なものなのか?そうでないならどのようにして非科学的な理屈に傾倒してしまうのか、そのメカニズムは?
・科学の正当性
科学 (+技術) はモノの世界を扱う。宗教は精神の世界を扱う。
科学+技術の発達段階が低いと、世界は人の思いのままにならなかった。世界が思い通りにならないので、「苦しい時の神頼み」が必要だった。発達段階が進むと、これまで制御できなかったものが制御可能になった。「苦しいとき」がなくなった分、神に頼らなくても良くなった。
現代では科学的な意思決定なるものまである。科学は繰り返しや類似など、ある種の同一性が保証可能であることを前提として、仮説を立てる。科学 (によって得られた考え方) を生活、人生に取り入れるとは、自らすすんで没個性を求めることではないのか?
運命論/意思論。科学的によって運命論が肯定できるか、科学によって意思論が肯定できるか。 

Naokimen


:深淵: 科学と宗教、科学と疑似科学の明確な違いは再現可能性があるかないかだと思います。例えば、宗教では「念仏を唱えれば救われる」というのがありますが、ある人が念仏を唱えて救われたとしても他の人が念仏を唱えると絶対救われるとはいえないと思います(そもそも「救われる」というのを定量化するのも厳しいですが)。また、疑似科学では「波が重なり合えば愛になる」と言っている人はいますが、それが成り立つのはそれを発現している人およびそれを信じている人の頭の中の世界だけであって、実際に波を重ねても愛になるはずがありません。
一方、科学は再現可能性があるもののみが対象になっており、直接的or間接的に理論が言っているor予言する現象を観測することで理論が正しいかどうかを確かめることができます(実験技術が足りなくて確かめられないものでも実験技術が向上すればいつかは確かめられるはずです)。
科学と疑似科学の共通点は使っているワードの一部が一致していることだと思います(例:量子力学、波、不確定性原理)。

けろたん


・科学の再現性について
科学といわれる学問分野では、あることが正しいと認められるために、前提をそろえれば同じ(ような)結果が出てくるという反復が重要な位置を占めるのは間違いないと思います。これを支えているのは、現実が反復するものであり適切に現実を切り取れば反復が現れるはずだという信念です。(これを信念と呼ばれるのは自然科学をやっている人にとって気持が悪いのは容易に想像できますが便宜上信念と呼びます。)
この信念を真だと仮定としても問題として残るのは、前提を揃え結果を解釈するときの「同じ」の基準です。(Takuma Koagawaさんが指摘されているデータの解釈の恣意性もこのことだと思います。)本質的に一回しか起こらないもの(わかりやすいものでは進化や大陸移動)にどのように正しさを見出すのかもこれに含まれます。例えば進化の場合は、「生命の進化」だと対象が大きすぎるので、特定の生物をその生物が種として進化したといえる程度まで変化させることをもってして進化のミニチュアを再現したといえるかもしれません。この場合、ミニチュアと現実が本当に対応しているのか、不十分であればどれぐらいの進化のミニチュアを積み重ねれば「生命の進化」を実証/証明したことになるのかは、人間の合意の問題になると思います。対象とする現象の特性や方法論上の制限が異なる分野ごとに、正しいと認めるに値する再現度の厳しさにグラデーションがあるのが実態だろうと思います。
以上のことから、Naokimenさんのコメントから導かれうる科学についての規範的な主張は物理学においてはそのように正しさが合意されているということだと理解しました。
・非科学の「再現性」について
宗教や疑似科学に全く再現性がないわけでもないと思います。正確に言えば、信心による救済などは一見デタラメでも、それを必然だと確信させるだけの手練手管があり、そのひとつにそもそもある程度再現することを予言してみせる、というものがあります。科学でいうところの再現性ではありませんが、主観的な確信を提供するのに成功しています。疑似科学やスピリチュアルが、医療と結びつきやすいのは、病気や苦しみが悩みの種であることに加えて、人は勝手に治るので「効果を証明」しやすいこともあるのかなと思っています。
・非科学がときには科学から言葉を拝借して理屈をでっち上げていることについて
歴史的には、素朴に捉えられる事象を素朴に分析すると見いだされる理屈を体系化したり、あるいはそれを論破してみせたりすることで非科学であっても知的な権威として信じるに足るとされてきました。特に、歴史を経ている宗教には少し考えた程度の批判に対する反論が蓄積されているはずで、それは論理的な洗練を意味します。
ところで、仏教は量子力学だ、あるいは、量子力学は仏教だ、的な主張を目にすることがあります。一般論として、異なるもの同一性を認めためには、対象とする2つのものの類似を指摘して、それらが同じと確かに言えるだけの説明を付けてほしいものですが、「仏教=量子力学論」では見たことはありません。個人的には、論理的な構造が大きくかつ論理的に正しいものを2つ並べると似たような推論が同じような頻度で出てきて、それを同じものであると感じているだけのような気がします。


Naokimen


再現可能性については、確かに疑似科学においても(たまたま)再現性が見られてそれを利用されることもあるので、「科学における再現可能性」といった方がいいかもしれません。再現可能性といっても一度だけしか起こらないことも多々あるので、そういった場合は近似的に再現可能性が成り立つと考えるそうです。生物の進化についてはわかりませんが、以前紹介した『科学の方法』には例として彗星の軌道があげられています。彗星が地球を通り過ぎるのは1回しか起こらないけれども、その軌道はニュートン力学を用いて計算でき、その理論計算と観測された軌道が一致することから(実際にはもう一度その彗星を観測することはないけど)仮にもう一度その彗星が同じ初期条件で来たとしたら同じ軌道を描くと考えることで、近似的に再現可能性が成り立つとします。また、「科学は再現可能性がある」というよりは「科学は再現可能性があるものしか対象にならない」といった方がいいかもしれません。
仏教と量子力学についてはよく知りませんが、扱う対象や手法が違うので2つは全く別物だけど考え方が若干似ている部分があるというだけな気がします。両方ともあくまで人間がつくったものに過ぎないので考え方が似た部分があるのは当然といえば当然な気がします。

けろたん


繰り返しに人間が介入できる場合とそうでない場合で方法論の正当化に別の理屈立てが必要だと思っていたので物理の視点ではどう考えるかの例として彗星の話は参考になりました。
仏教と量子力学についてのコメントもありがとうございます。(自分自身どちらもよくわからないなりに興味本位で書いてみたのですがコメントしていただきありがとうございます。)

Takuma Kogawa


最近の宗教は、異教徒の排除のような活動はしていないように思います(事実誤認なら申し訳ございません)。自分が信じる宗教が「正しい」と考え、その他の宗教を誰かが信仰していてもそれはそれでよいと考えているのかなと想像します。一方で、科学は異教徒(誤っていると考えられる仮説)の排除は日常茶飯事でしょう。結局のところ、大半の分野はひとつのデータから人間による解釈のせいで、得られる「真実」が変わってしまいます。見たいものを見て、見ようとしないものは存在しないも同然に扱うのは、科学も宗教も文系学問(例えば法学)も大して変わらないように思います。
科学と疑似科学は、提示された根拠がどのような手続きで得られて、どの程度信ぴょう性があるかによると思います。国語辞典の疑似科学の例に血液型と性格の関係が挙げられておりますが、適切に条件を設定すれば統計的に有意に関係があるかを調べることは可能であり、これは反証可能です。単に「AB型は天才肌(情報源不明)」というだけでは疑似科学で、参照可能な出展があれば科学だろうと思います。個人的な意見としては「このデータからAを導ける」というよりは「このデータではBを導けない」というように、可能性をつぶしていくのが望ましい科学的態度ではないかと思っています。「こうきたらこうなるのは当然だよね?」という説明が詐欺的で、科学だろうがなんだろうが疑わしく思う私がおかしいのかもしれませんが…。

けろたん


・人間の「解釈」と真実について
人間は人間である限りなにをやるにしても主観にとらわれてしまうのはそのとおりだと思います。その一方で、できる限り偏見を排除して現実・現象を見るための方法論 (論争もその一つ) を構築してきたのが科学という営みだったはずです。だからこそ、いわゆる「再現性の危機」が問題になっているのだと思います。人間の生得的なバイアスは避けられないにしても、それを緩和するために研究者コミュニティや学術組織は存在するべきで、そのために各種制度は設計される必要があると思います。
(Aが)Bであるためには、(Aが)Bなのはなぜか?に加え、(Aが)Bでないのはなぜか?の両方を説明しなければならない、というのは同意見です。しかし、「真実」はキャッチーであればあるほど前段だけで早合点されがちです。
参照元や方法論を明らかにするのは、組織的な活動としての科学を考えるにあたって重要なことだと思います。現実の科学の現場では反証は他の科学者と協同して行われるものだからです。 

アンケート2−1−1のフォロー:

各選択肢について、科学と宗教をどのように捉えていると、その選択肢を選びたくなるのか考えてみました。

・選択肢1
宗教が提供していた天動説が科学の唱える地動説に取って代わられることをもって、科学が新たな世界観を提供した一例と捉えることができます。世界把握の精緻化の過程で、宗教よりも現実をよく説明する新興勢力があらわれ、それが科学だったと言えると思います。また、科学における大衆への知識の伝達を重視してもこの選択肢を選びたくなります。少数の専門家から多数の非専門家である大衆に一方的に知識が伝わる構図は現代も同じです。
・選択肢2
投票した方が一人もいませんでした。アンケートを作るにあたっても具体的な共通点が浮かんでいたわけではありません。無理やり例を上げると、政治の道具として使われうる、ということでしょうか。選択肢1のように知識として世界観を伝えるだけでなく、より具体的な行動規範を提供し、それに従うように促す、というのはコロナ騒動でも見られた光景でした。大衆側のリテラシーが一定以上上がると、道徳的感情に訴える説明ではなく、科学的な知識をそのまま伝えても行動の変化を促しやすい、ということがあるかもしれません。
・選択肢3
「説明対象」という言葉が2通りの解釈ができます。何を説明するか、と誰に説明するかです。
「何を」については、自然法則を探求するにあたってはじめは神を置いていたものが、のちに神を排除するようになりそれが定着したのはアンケート前文で述べたとおりです。宗教の立場から見ると、客観にならないものを対象にしているのは科学に領分が奪われたからだ、とも解釈できそうです。
「誰を」については、宗教はあくまで大衆に説明しますが、科学では理屈を理解するのに一定の前提知識やそれを身につける訓練が求められます。科学的な内容を理解できないのは信心が足りないからではなく、知識が足りないからです。
・選択肢4
科学の個人的な興味の追求という側面と、宗教の大衆への社会規範の提供という側面を比べてみると、科学と宗教は全く違うという結論を導くこともできます。

アンケート2−2−1のフォロー:

「反証可能性」だけで充分というかたはいらっしゃいませんでした。
以下、前文で上げた「反証可能性」への2つの疑問への考察です。
・「高度な理論は疑似科学と同じ」かどうか
科学は科学者によって行われています。科学者は一般的に知的な能力が高いとされています。
知的な能力が高い人間たちがやっているなら、現時点では理論が反証可能性や再現性を備えていなくても将来は備える可能性が高い、と見ることもできます。科学者集団への信頼に正当性を求める議論です。一方で、「科学的」とされていた人たちが信じていたものが間違っていたことは往々にしてあります。
本筋であれば、原理的にはトレーニングで理解可能という立場を取りたいですが、そんなわけねーだろという反論がとても強いです。
・「科学の正当性が反証可能性に由来するなら、反証可能性が正しくないなら科学は正しくないのか」?
反証可能性は科学がどのようなものであるかを記述するだけであって、科学を基礎づけてはいないという立場を取ると、反証可能性が自体が科学的に正しくはなくても、反証可能性を科学の正しさの必要条件として用いることができます。科学と疑似科学を見分ける便宜的な方法なのか、科学という営みにおける本質的な要素とするかで求められる正当化の理屈は違います。現実的には、「自然は繰り替えす/自然にはパターンがある」「物事が起きるのには原因がある」という2つを受け入れるだけで科学が始まります。それでは納得できない人が科学哲学をやるのでしょう。第3回のアンケートで詳しく考えます。

アンケート3

アンケート

「科学的な思考」において以下のどれが重要だと思いますか?4つのうちとりわけ重要だと思う2つを選択してください。
:1: 論理的な思考。理論は正しい推論で構成される必要があるとすること    12
@Hiroto, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Naokimen, @あんまん, @YY 12, @Yujin, @コバ, @Tsubo, @Takuma Kogawa, @イスツクエ
:2: 実証的な思考。正しさを確かめるために実験や観測を行う必要があるとすること    10
@Hiroto, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Naokimen, @あんまん, @YY 12, @Yujin, @コバ, @Tsubo
:3: 探究的な思考。あらゆる現象には原因があるはずだと考えること    1
@Takuma Kogawa
:4: 組織的な思考。理論や知識の正しさを専門コミュニティ内の論争を通して決定すること
:5: その他

毎度おなじみ国語辞典の定義です。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/科学的/#jn-37799
https://dictionary.goo.ne.jp/word/論理的/#jn-237250
https://dictionary.goo.ne.jp/word/実証的/#jn-98481
https://dictionary.goo.ne.jp/word/探究/#jn-139761
https://dictionary.goo.ne.jp/word/組織的/#jn-130524

あなたがあることを正しいと認めるのはどのパターンが最も多いですか?(3つ選べます。)
:1: 論理的に正しい。正しい前提への妥当な推論で導かれたものは正しい    13
@蜆一朗, @Hiroto, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @あんまん, @YY 12, @シト, @匿名希望, @コバ, @Tsubo, @Takuma Kogawa, @イスツクエ
:2: 実証的に正しい。現にそうであるから正しい    8
@蜆一朗, @chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @YY 12, @Yujin, @シト, @匿名希望
:3: 神がそう言っているから正しい。経典あるいは天啓    1
@Takuma Kogawa
:4: そう言っている人がいるから正しい。学術コミュニティから井戸端会議まで    4
@蜆一朗, @chiffon cake, @YY 12, @匿名希望
:5: 繰り返し起きているから正しい。(実証的に正しいの派生)
:6: 正しいと認めたいから正しい、間違っていると認めたくないから正しい。思い込み。    2
@あんまん, @Takuma Kogawa
:7: その他

こんばんは。10/20は第3回アンケートのフォローと最後のアンケートを投下します。
「科学的な思考」のアンケートで予想以上に論理的思考、実証的思考を重視する投票が多かったので、別の観点から論点を出そうと思います。

アンケート4

アンケート

国は科学教育、科学研究を支援すべきか?
:1: 積極的に支援すべき    7
@チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @Takuma Kogawa, @Hiroto, @Yujin, @匿名希望, @イスツクエ
:2: できるかぎり支援すべき(現実的には不十分な支援しか提供できないとしても支援すべき)    4
@蜆一朗, @Tsubo, @chiffon cake, @コバ
:3: 支援すべきでない(大学自身の資金獲得能力や産業界からの支援に任せるべき)
国が支援すべき科学とはどんなものか?
:1: 科学リテラシー教育(科学ユーザーとして必要な知識を小中高の学校教育の数学・理科で教える)    8
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Tsubo, @Naokimen, @chiffon cake, @Hiroto, @匿名希望, @コバ
:2: 高等教育における理数科教育(大学における理系定員の拡充、理数科系向けの奨学金、など)    4
@チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @chiffon cake, @匿名希望
:3: 大学・学術機関での実用目的でない研究、開発(基礎研究)    11
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Tsubo, @Naokimen, @chiffon cake, @Takuma Kogawa, @Hiroto, @Yujin, @匿名希望, @コバ, @イスツクエ
:4: 大学・学術機関での実用目的の研究、開発(応用研究)    8
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @chiffon cake, @Takuma Kogawa, @Yujin, @匿名希望, @イスツクエ
:5: 産業界での実用目的でない研究、開発    2
@Takuma Kogawa, @蜆一朗
:6: 産業界での実用目的の研究、開発    3
@chiffon cake, @Takuma Kogawa, @蜆一朗


Takuma Kogawa

・科学的な思考で何が重要か
→論理的(修辞的ではなく形式論理に近いもの)にものを見ることが、科学に限らず思考法として重要だと思います。真理追及を目的にするなら、恣意性の少ないこのような方法を重視せざるを得ないのもあります。また、推論をすすめる方向とは逆に原因を探していくことも同様に重要と考えますが、この2つは矛盾しているのかもしれません。科学の世界で検討される「原因」の候補を選択するのは我々であり、その候補から漏れたものは原因になりえません(研究されないから原因かどうかがわからない)。「正しい推論」をするために「正しくない推論」を最初に決めている行いがよいのか、というのは解決できない疑問です。
・正しいと認めるパターン
→「これは正しいから正しいんだ!」という気持ちが先にあり、あとからそれが正しいことを確認することはよくあります。自分により近いのは、「これは間違いだから間違いなんだ!」と考えてそれからその間違いを示そうとする考えですね(性格がオワットル)。これは仕事柄でもありますが、自分より上の地位にいる人や組織(≒神)が言っていることを正しいとせざるを得ないことはあります。
・国は科学教育/研究を支援すべきか
→理系と文系の2つで考えると、理系の教育や研究を手弁当で行うのはかなり厳しいです。教育や研究の環境を整える時点でかなりの負担を必要とします。少なくとも自分の通っていた大学では学部を問わず学費はみな同じでしたが、受けた教育や試薬の価値はどう考えても学費以上でした。どのように予算を用意するかという問題をおいておいて、公金を投入するべきといいますか、しないと成り立たないという状況かと思います。
・支援すべき科学
→高校までの段階では科学リテラシーではなく、科学的な考え方を教えることが重要と考えます。数学や理科が苦手でも科学的に考えるトレーニングを積むことにはそこまでお金はかからない(教員の負荷はありますが)ため、国の基礎を作るうえでやるべきでしょう。国の支援とはほとんどの場合は公金のことを指すと思います。実用性にかかわらず、たくさんのお金や人員を必要とする研究開発を支援することは国にしかできないと考えます。 


けろたん

・恣意性を排除した推論と原因の探索について
演繹的な推論にしても、原因の探索というアブダクションにしても、方法の限界に自覚的になって正しさに留保をつける作法は、宗教と科学を分ける大きな違いであり、Kogawa さんの仰る解決できない疑問への誠実な態度だと理解しています。科学の判断に従うしかない非専門家の立場からは歯切れの悪い責任逃れだと非難されることもあり、同意しないでもないですが、そういった人間社会にまつわるごたごたよりも、学問に対してできるかぎり誠実であることのほうが優先されるべきだと思います。
・正しいこと、間違っていることを直感的に認識して、後付の論理で正当化することについて
現実的には、印象ありきで思考に制限がかかって起きる問題のほうが多いのでバイアスがあるのは良くないこととされていますが、本来は正しいか間違っているかを確かに把握できることと、その把握の過程を言語で説明できることは別の技術のはずです。どんな分野においても言語化が困難な神がかり的な直感の有無が才能と呼ばれている気がします。また、粗探しのバイアスは判断を安全側に倒しておくべき意思決定では役に立つので、人間に標準搭載されているのかもしれません。
・教育コストが高いものについて
特定の学問分野は直接的に役に立つので公金を投入していると考えることもできると思います。薬学や医学によって国民の衛生状態や健康が向上し、投資以上の効果をもたらす限りにおいて学問が支援される、と書くとなんだか実学主義のようですが、現実的にはそのような優先順位になるのはやむなしと納得しています。
・科学的な考え方について
科学的な考え方を身に付けさせることが重要だという主張には同意する一方で、陰謀論(的なもの)が「自分で考える」「本質を見抜く」といった文句で、人を煽り、集客していることもまた事実だと思います。社会が高度化し素人が散発的に考えただけでは解けない問題ばかりになり、分業が前提となったからこそ、うまく人に任せる方法、悪く言えば自分の頭で考えない方法が必要なのではないかと思います。この点では、タコツボ化と批判される事が多い学問分野はよいモデルになるのかもしれません(が具体的なアイデアはありません)。


Tsubo

国は科学教育、科学研究を支援すべきか?
支援するべきだと思います.なぜならば基本的に科学研究や科学研究というものは短期的には利益が出ず,市場競争にそぐわないものであるため長期的な視点に立てる国が支援するプレイヤーとして最適だと思うからです.
同様に,国が支援するべき研究も,今まで数多の研究者が指摘されているようにも応用よりも基礎研究に,いわば薄く広く支援するべきだと思います.

けろたん

国家と科学の関係が密になったのは、第一次世界大戦の頃です。軍事のための科学利用が念頭にあったことは、基礎研究こそ国が支援すべきと考えるのが自然な我々にとっては隔世の感がありますね。

Tsubo

僕がここでいう「宗教」とはいわゆる「新興宗教」ではなく例えばキリスト教カトリックなど「伝統宗教」とします.「神学」という言葉に代表されるように,昔は,そして今もなお「宗教」とは科学的思考の対象でありその解釈や範囲などは議論がされ続けています.少なくとも,今の科学において用いられる基礎的な道具は「宗教」を扱う「進学」において発展していったため「宗教」と「科学」は一般的に言われるほど正反対な性質のものではなさそうです.じゃあ違いは何かというと,科学は物質的に「役に立つ」ものですが宗教はそうではないということくらいしか思いつかないです.「宗教」も科学も結局は人間の営みですし,近代科学なんざ多く見積もってもたかだか500年そこらしか歴史がないわけで,それらを行う中の人があまり発展していないため見た目には違うところが多いと思いますが結局中を開けてみれば似ているところが多いんじゃないんでしょうか().「〇〇学しか認めん!」みたいな人割といますよね.

けろたん

人が変わらないならやっていることも変わらないはず、ということは忘れがちですがどんなことにも当てはまりますね。
割合としては、〇〇学の中にいる〇〇学しか認めん!みたいな人と、〇〇教の中にいる〇〇教しか認めん!みたいな人の数を比べると前者のほうが少なそうではあるので、後天的な思考様式の植え付けによってドグマティックな態度を矯正できているような気もします。

Tsubo

科学と疑似科学の同じところ、違うところはどんなところだと思いますか?
違うところはそれを提唱している人間が金銭的その他利益を明確に求めているかどうかじゃないでしょうか()特に擬似科学は反ワクチン関連もそうですが,情報の提供元はいわゆるインフルエンサービジネスみたいなことをしたいんだろうなというかほりがしてきます.科学に携わる人はまあ純粋な好奇心とかそうじゃなくても金もらってるから仕事としてやってるとか金銭的な利益をそれほど強く求めてない気がします.

けろたん

科学っぽい言葉はただの目くらましでやりたいことは金儲け、というのは身もふたもないですが、そのとおりだと思います。
一方で、反ワクチンは公害や薬害、近年では原発事故など、科学とそれを利用する体制側にも問題があったことが状況を一層難しくしています。個人のレベルではありがたみを理解するのが難しいものを、ありがたみがわかるように説得し公衆衛生として意味がある程度にまでもっていくのは単なる事実の正しさの問題を超えた困難があります。


第3回アンケートフォロー

科学といえばこの2つ、ということで、思っていることを書きます。
・論理的思考について
論理的思考とは、1. 前提を正しいものと認めた上で、2. 妥当な推論をする思考様式です。
いわゆるロジカルシンキングは2に力点があり、妥当な推論を行うために自然言語の落とし穴に自覚的になろうとする態度のことを言うのだと思います。一方で、「前提を正しいものと認めた上で」は曲者です。理論の正しさには、理論がその理論の内部に矛盾を持たないことはもちろん、その理論から導かれるものが他の理論と矛盾しないことも必要で、矛盾がある場合は、よってどちらか一方が選択される、あるいは判断が保留されることになります。理論同士の関係、優劣を決めるための定量的な比較に数学が不可欠です。単に、論理的なだけではなく、数量的な判断を組み入れなければなりません。何度も例に出しますが、地動説の立場では風の発生と自転の関係など、天動説では考慮外であった疑問にも答えなければなりません。そのような総合的な考慮のもとある説が選択されることには、その理論に矛盾がないこととは別の判断基準が介在しています。
・実証について
論理的な思考が「考えればわかる」とするなら、実証的な思考は「見ればわかる」の理屈です。見るとは、感覚器で捉えることです。見たり触ったりできる対象はその実在をわざわざ疑うまでもありません。一方で、科学の発展とともに、直接的には感覚できないものを対象として扱うようになっています。とても大きなものやとても小さいもの、とてもたくさんあるものです。ここに、見えないものの実在性を正当化する理屈の必要性が生まれます。素朴な存在の観念を軸に「それは人間のスケールでは見えない」という主張で、見えないものを「見る」努力をしてきた科学に対抗しても噛み合いません。第一、自然現象を記号に書き表している時点で感覚器からの現象を遊離させているといえなくもありません。見るために必要な理論が高度であることを理由に見ることとその結果得られるものを否定できないとすると、単に観察するだけでなく操作を通して感覚可能なパラメータと対象の対応関係に「手触り」が、概念の機能としての存在を肯定する、と解釈するほうが自然に感じます。

これにて今回の情報科学部WSはお開きです。
閲覧、投票、コメントしていただいきありがとうございました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/
(第4アンケートのフォローは事後スレッドで行います。終始運営がぐだってしまい申し訳ありませんでした。)

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第4回アンケートのフォロー


国が科学に投資すべきかどうか質問しました。「基礎研究に投資すべき」への投票が最多でした。理系大学生が多いジェイラボでのアンケート結果としては自然だと思います。学部生、院生の立場からでも科学研究の窮状が感じられるということでしょうか。
けろたんの気になる論点としては、国は科学(とくに基礎研究)に投資すべきと考えている人はじつはそんなに多くないのではないか?適正な予算はどれぐらいなのか?予算を求める理屈はどんなものが有効なのか?があります。最後の予算を求める際の理屈立てについていくつか述べたいと思います。
前提として、成果を求める社会と、実益を目的としない科学が対立している、という図式がよく語られます。
歴史的には、国家と科学の関係が密になったのは第一次大戦のときです。アメリカ、フランス、日本、遅れてドイツにおいて、軍事研究を通じて国家に貢献するために、科学の側から国家に働きかけ、協力体制が整備されました。兵器として化学者が開発した毒ガスが使用されました。
国益に直結する戦争への活用が関係の始まりにあったことを考えると、社会が科学に対して実益を求めることは当然であり、基礎研究への投資こそ正当化に特別の理由が必要なもののように思われます。
これに対し科学の側からは、「基礎研究は即座には役に立たないかもしれないが、いつかは役に立つ」という反論がなされることがあります。この意見を腑分けし、それぞれにコメントしたいと思います。
1)本当にいずれ役に立つ
発明者、発見者は応用を考えておらずとも結果的に応用されるようになった研究がいくつか例示され論拠とされます。本当に役に立つ場合でも、投資が利益に転化するまでのタイムスパンによって投資しないということは戦略的に充分あり得るので、投資効果の詳細な検討が必要でしょう。
2)科学の成果自体は役に立たないが、副産物として役立つものが生まれる
学術機関での活動が活発になると、産業界にも人材が供給されることは充分ありそうです。この立場を取る場合は、大学院重点化政策の検証が必要になるでしょう。
工学的な技術の発展にも役立ちそうです。実験装置の製造過程での工学的技術の維持・進歩は、大型の加速器や観測機を作る理由に用いられます。スポーツにおいて新記録を目指す過程で、スポーツ器具のための新しい技術が開発されることに相似しています。
3)役に立つものは事前にはわからないが、一定の確率で役に立つものが出てくる(役に立つものだけ選択的に見つけることはできない)
「選択と集中」に対抗してこの理屈が用いられることもあります。一定以上無駄であることを受け入れてくれ、と言っています。科学以外への、無駄にならない確実な投資と比べたときの優位性を説得する必要があります。

科学を、答えを教えてくれる便利なシステムと捉えると、科学の泥臭さを忘れてしまいがちです。科学の分業・専門化によって、社会全体で思考にかけるコストを節約・集中し資源を効率的に使われることは事実ですが、そのせいでユーザーとして成果を享受するだけの立場からは科学の内側が見えにくくなっているのだと思います。この視点から科学教育を捉えると、科学をおこなう資質を養うと同時に、将来的に科学と直接関わりのない立場になっても科学に否定的にならないための教育が必要とされているのだと思います。

おまけ

最後に今回のWS準備にあたって参考にした本をいくつか紹介します。

村上陽一郎(2021)『科学史・科学哲学入門』講談社
古川安(2018)『科学の社会史』筑摩書房
村上陽一郎(2018)『日本近代科学史』講談社
隠岐さや香(2018)『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社
三輪修三(2012)『工学の歴史』筑摩書房

以下はWSの議論に参加していただいた方が紹介してくださった文献です。
吉田伸夫(2018)『科学はなぜわかりにくいのな 現代科学の方法論を理解する』技術評論社
ポアンカレ(2021)『科学と仮説』岩波書店
中谷宇吉郎(1958)『科学の方法』岩波書店


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