獣のような新幹線運転士 青木の思い出

千葉真一御大の訃報が流れた次の日電車内のディスプレイに流れるニュースに映ったのは若き日の彼の写真だった。最近の好々爺然とした温かみのある眼差しとは違ってギラついて熱の籠った目元や全身に漲る精力を感じさせるその写真を懐かしくは感じたけれど正直なところ当時の彼の事はさほど知らない。

かのJACの設立が1970年でその2年後に生まれた僕は全盛期の活躍に立ち会うことは殆ど無かったけれど、学生の頃に『パルプ・フィクション』の衝撃に晒されパンフレットや数々の解説記事を読み初めて千葉真一という男の偉大さを知った。タランティーノファンならば知らぬ者は無いほど彼の千葉への傾倒ぶりは有名だけれど、それでも80年代までの眩いような千葉本人の数々の活躍に触れることは結局無いまま今に至ってしまった。

電車で見た若き日の姿から思い出せたのは偶々昨年観た『新幹線大爆破』の青木運転士のことであった。極限状態のひかり109号を操縦しながら指令室への苛立ちを必死に堪え(時に暴発しながらも)奮闘する千葉の演技はとても印象深い。当時も今も新幹線運転士といえば航空機パイロットにも匹敵するエリート職の筈。しかし青木運転士は涼やかなエリートの姿からは程遠い千葉の印象そのままの毛穴から闘志が噴き出すような野生的な男として登場する。それは指令室で或いは青木以上のストレスに晒されながらも品を失わぬまま格闘する倉持運転指令長(宇津井健)とは明らかな対照性を持って描かれていた。
駅員から持ち前の才能の上に努力に努力を重ね地道にキャリアを積み上げ最新鋭の新幹線を操る運転士にまで這い上がってきた…そんな想像を掻き立てるキャスティング且つ演技であり、それはつまり沖田(高倉健)や古賀(山本圭←めちゃ色っぽい)の立つところに寧ろ近く指令室や更にその向こうの有象無象のお偉方との間の深い断絶を感じさせる為の存在であったと今更ながらに思い出している。
作中で青木運転士の背景が語られることは無いが恐らく多くの人にとってのイメージから外れ違和感を抱かせるものであったろう千葉への配役は、無謀な賭けに出てしまった沖田達のみならず、偶々乗り合わせた新幹線を襲う事件によって我を失い本性を曝け出しながらもなす術なく翻弄される脆い立場にある人々の野性の葛藤を代表するものであったのだと思う。
改めてかの作品のことを思い出し今更ながら得心のいく配役であったなという今の気持ちをメモがわりに書き残しておきたいと思う。

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