Nアパートの流し台

今日は何の日: アパートの日/Nアパートの記憶

1910年11月6日、上野に洋風の外観で五階建ての木造アパート「上野倶楽部」が完成した。

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私が生まれ育ったところは今は見る影もないが当時、木工(箪笥建具)と機織(転じてメリヤス)の町だった。地域には中小の箪笥建具、メリヤスの工場が沢山。それに加えて材木加工所も。だから職人や見習い等の若い人も多くいたのでアパートや長屋も多かった(お寺が多い土地柄で田舎のお寺というのはどこも地所持ちで今も多分そうだがお寺からの借地に家を建ててる場合が多い。だからか三軒長屋みたいなのが多くあった。建て直しでだいぶ少なくなったがまだ残ってて見かけなくはない)。

Nアパート(Nはホントは苗字によくある名)と呼ばれてたところがあって同級生が何人か住んでいた。一緒によく遊んだけど中にはあまり入った事、なかったのかな? あまり記憶がない。W君が一時登校拒否児童で、時代が今と大分異なるので先生が迎えに行けと私ともう1人か2人に命じたことがある(授業中の時間だったと思うけど)。W君の家はNアパートだった。Nアパートは木造の二階建て、風呂なし、トイレ炊事場共用の…何ていうかテレビ版ではない水木しげる、つげ義春の漫画に出てきそうな世界だった。そこの一間(何帖かは覚えてない)がW君の家で、コタツに入り込んでいた。結局、その日は登校しなかったような気はする。

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ある夜、Nアパートは火事を出した。Nアパートは町のいちばんの商店街に面していて向かいの小路は全国いろんなところにあるように「銀座」の名がつく歓楽街で映画館もあった(松竹系だったと思うけどこの時は既に廃業してた気もする)。そんなところなので子どもの私も含む多くの野次馬が見てる中で全焼した。隣接の長屋も燃えたかも。W君たちは焼け出された。誰かの夕飯時の火の不始末だったのかな?死傷者は出なかったと思う。もう覚えてないけど、何日後…なのかな?学校に出てきたW君はクラスメイトからお見舞い品(学用品とか)を受け取ってその後、ずっと机に突っ伏してた。授業1時間分は突っ伏してた記憶。W君の家は学校近くの一軒家になった(その後にまた引っ越した気がする(学区は変わらないので中学卒業までは同じ学校だった))。登校拒否もその後はなかった気がする。基本、明るいし。

Nアパートのところはその後、何かになったんだっけ? とにかく今はほぼ更地で、そこにちょっとだけ歴史があるモダンな建物(=商工会議所だった)が保存のために元の場所から移築されてるけど特に何か保護的な処理していなさそうでそのうちに朽ちそうです。

去年の↓アパート


きっと幸せになりますよ(私が