見出し画像

とうでもいいのに何故だ?どうでもよくないらしくゆううつ。

そんなことどうでもいいのに心の中でオリのように沈殿してて憂鬱。銀行の担当者が変わって支店も統廃合に伴って別のところになり挨拶方々お会いしたいという電話と思われる着信がクルマの運転中に連続二度あり、いずれも信号待ち時だったのでスピーカーフォン状態で出て運転中の旨を告げ切った。こっちからコールバックはしないのでまた掛かってくるのだろう。それが憂鬱。運用実績報告と何なら投資商品を薦めてくる筈だ。別にそれだけなんだけどコロナ渦を理由に1年以上先送りしてたのだが、昨今の状態ではそろそろ断り続けるのも悪い。が、面倒。こういう時、自分流をしれっと貫ける厚かましさがおいらには乏しい(自己評価)。

先日も取り上げた芸術新潮の中で印象派を何故好きか?ってのがあって、そうだよな日本人は印象派好きだよな、百貨店主催の展覧会は何かってぇと印象派だよな。集客出来るんだろな、って常々思ってた。その理由は分かりやすいからだろ、とも思ってたけど、その芸術新潮で例えばルノワール、モノクロのカタログ写真でもよく見える。実物はけっこうな駄作でもよく見える(言い方w)、と言ってた。インスタ映えと同じだとも。インスタ映え…サムネイルやスマホ画面で映える画像ってのは確実にある。色味が鮮やかでパキッとビビッドな画像なんかそうだ。小さな画面でもわかりやすいディテール。

それと関連付けて連想したのがいわゆる「絵師」的な絵。グリザイユ画法っぽいのを駆使して陰影をたくさんしっかりとつけ細かいディテールもちゃんと描く。超絶的に上手い人は当然、少なくなく居られるけども、多くは案外とパターン化した表現(*1)の踏襲に見える(=数多あるテクニック本を倣ったと推測)。この描き方は一見、綺麗で良く見える。望んだ着地点はそこなんだろうから外野がとやかく言うことではないが。それはともかく、インスタ映え的な、スマホ等で観ることが多い昨今、その環境下で良く見える画面作りは必須、キモなんだろうな、と改めて思った。

画像1

私はここでも何度となく言ってると思うけど線で、線だけで丸みと柔らかさを出したいと思っててそれが故、陰影を付けるのは私の好みとしては過剰。少しの影、陰は必要に応じて付けるけどびっしり付けて立体感を表現するのは腹一杯。

(*1) パターン化が悪いわけじゃない。私だってパターン化した表現、描き方は多々あろう。量産するにも必要だ。ただパターン化していることに無自覚にはなりたくない。

沖縄戦生き残りで語り部の最高齢の女性が亡くなって沖縄戦の司令官の孫の人が遺志を引き継いでいるっぽい。戦争終結を知らずにグアムで発見され帰国した横井庄一さん帰国後の話のテレビをチラ見した。グアムに残った旧日本兵はもっといたらしい。が、現地で見つかると撃たれて殺されていたらしい(米軍の記録にも報告されてそれは100人単位)。何故、そうなったかというと旧日本軍が虐殺紛いを行ったから。敗戦濃厚で切羽詰まってる時に親日じゃない島民は米軍が上陸すると敵側にまわると考えたようだ。沖縄戦で旧日本軍は島民を護らず防空壕からも追い出したり、と話される。これら旧日本軍が非道だって言ってしまうのでは短絡的過ぎる(それに戦後に生き残ってた敗残の日本兵を見つけたら撃って殺してたのだって非道だろう?)。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた時、他人より自分が…となったのだろう。戦争下では人はきっと結局そうなる。その時には、より力が弱い人が先に犠牲になる。という話だと理解する(日本軍が悪い、国が悪い、日本人が悪い…じゃなくてね)。なのにどうだ、一見、今は平和な日本では口撃したくて口撃出来る相手を見つけては酷い仕打ちをする。元皇族のつい最近、民間人化した人と家族になった人への口撃は自分の命が危険に晒されているわけでもないのにまるで悪魔の所業。理屈が大抵、合わないし。これはどうでもよくないね。こういった人は有事になったらどう動くものか?とても危ういと思ってしまう。とにかく、こういう他者に攻撃的な言動を撒き散らかす人が多いのも憂鬱。

投稿の遡りをしたいなら裏カエルコへ→ https://note.com/kaeruconet_b


きっと幸せになりますよ(私が