0607

今日はアイメイクがうまくいったので良い日だと思って朝始まった。
朝から出社する気だったけど、午後からでもいいのではと思って午後から行った。

絹糸のように細く柔らかく雨が降っていた。
濡れるのは好きじゃないから、軒下を進んだけれど雨が降っている様や雨雲のなんとも入れない混じり気を見るのが好きだ。姉猫がアンニュイな顔をして眠たげにするのも雨のいいところ。

尊敬してる人に気にかけられていたのが分かって、今日はすごく嬉しかった。
いつも教えてくれることが的確で、論理的で、自分のない視点を与えてくれるから大好き。
その人の助けになれるようお仕事頑張りたい。手伝えることないかな。

最近は、精神科医がゲームについて解説する動画を行き帰りにみている。私も言葉端からその人の思考や性格を考えてしまうから、聞いていて参考になる。
動画を聴きながら、フロムの愛するということを読む。今日読んだ部分は愛は自己肯定を基礎に持つという話だった。自己を肯定することは、許容し容認することで、それができなければ他者を肯定する(愛する)ことができないという内容だった。

動画も同じようなことを話していた。過剰適応する人は、他者は自己と関わることで利益を感じているから関わっている思っている。その思考は反面、利益がなければ自分とは関わらない、道具のような存在であると自己を認識しているという話だった。それは、自己の内面性を否定しており、関わる他者が心地よいように自己を加工し提供するため、いつまでも満たされないらしい。

それでは、自己の容認はどうやればできるのであろうか。続きでその部分について記載されているといいなぁ。

帰り道、紫陽花が咲いていた。青が、藍が鮮やかで、あゝ梅雨が来たとおもった。
紫陽花は陽の光に照らされ映える紫の花が由来だけれど、雨の下にあるイメージなのは不思議な話である。
紫陽花は花とついているのに、花はなくて、実もなくて、刺し技で増やすところが印象に残っている。桜と同じで、オリジナルがいるのだ。それ以外はクローン。今日見た紫陽花はどこかの紫陽花につながっているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?