エッセイ:高校時代を振り返るようです

 2018年に、民法が定める成人年齢を18歳に引き下げること等を内容とする、「民法の一部を改正する法律」が成立した。
実際に成人年齢が18歳になったのは2022年と4年後だった訳だが、いずれにせよ2023年の現在、18歳は立派な成人というわけである。なら、18歳の私が成人と言っていい存在だっただろうか。
 そんなわけがない。当時の私は、「早く死ななくてはならない」とすら思っていたのに。

 18歳の時の私には、2年後がどうしても恐ろしかった。10の桁の数字が変わってしまうことが受け入れられなかった。人に成るなんて当分できそうになかったし、自分に責任を持ちたくなかった。
 生きることは変化し続けることである。この世界に生まれ落ちた生き物である以上、変化することを止めることはできない。
「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というが、生き続けるのであればどれだけ全力で走ったとしても永遠に高校生でいる方法はない。始まってしまった羽化を見守ることしかできないことと同じように。
だからこそ「早く死ななくてはならない」と思っていた。生き続ける以上、立ち止まろうと走り続けようと変化は強いられる。なら、生きることを止める以外の選択肢がなかった。

 この記事を書いている時点で明らかな事だが、自死は失敗している。
1回目の薬物過剰摂取は吐き戻してしまった。誤嚥性窒息死も起こさなかった。
2回目の薬物過剰服薬は普通に家族に見つかって救急搬送された。
どちらの時も、しばらく手が震えたり、腎臓の辺りが1週間くらい痛かっただけで、後遺症と言える後遺症はない。
 1回失敗した方法と全く同じ方法で2回目も挑んだのは、実行可能かつ自分が納得できる方法がそれしかなかったからだ。当たり前だが自殺はリスクがある。その中でも一番のリスクは、もう一度自殺を企画できない後遺症を得ることである。
ドアノブでしか首が吊れない家で、残りの方法といえば出血多量や薬物過剰摂取くらい。ドアノブでの首吊りは失敗例がインターネットで散見され、出血多量はリスカを習慣にできなかった私には不向き、となるともう薬物過剰摂取しかなかった。飛び降りや轢死は残された親族にかける迷惑を考慮してできなかった。
それでも、一度だけ車に突っ込もうとしたことはある。通り過ぎていく車の起こす風が頬を切るようで、車の殺傷能力を体感したことは覚えている。
もし今後、私がその願望を希釈できなくなった時は自損事故で逝くつもりだ(今現在も免許は持っていないのだが)。

 18歳というのは、ずいぶん特別視されているように感じられる。そこに成人になるなんて付加価値を追加するなんて、属性過多だとも思う。
そんな風に18歳を特別視していたのは私だけなのかもしれない。そうだとしても、どうしても私はその特別な時を手放したくなかった。今の私からすれば、若気の至りなんて凡庸な言葉一つに押し込められてしまう感情と行動だが。
でも、若気で至れるのが18歳なのだとも同時に思う。「早く死ななくてはならない」なんて、今思えば馬鹿らしくも感じるその感情に振り回されて実際に行動してしまうのは、24歳の私にはもう難しい。

 ということで、冒頭の話に戻りたい。18歳は立派な成人であるそうだが、ここまで読んでくれたあなたは18歳のとき、成人と言っていい存在だっただろうか?

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