M. Horkheimer「繋辞と包摂」(仮題)
①論証的な論理学は、普遍的なもの〔Allgemeinen〕と特殊なもの〔Besonderen〕の対立に完全に適合する。この論理学に従って、言語は時間上の出来事を無時間的な諸概念へ移し替え、多性を単一性へと移し替えてしまった。そして、卓越さ〔par excellence〕についての言語的な取引は、包摂〔Subsumtion〕である。こうしたことに従って科学は、いくつもの出来事の中で繰り返されるいくつもの不変量〔Invarianten〕を定式化する。これら不変量を描く諸命題は、それぞれ法則〔Gesetze〕と呼ばれる。それゆえ、どれほど普遍的なものが区別され、新しい特殊な場合に適用されるかもしれないとしても、論証的な論理学は、歴史を喪失した現実へと衰退していく。種についての確固たる秩序の理念、つまり根本的には何も変化しない秘密の前提〔die geheime Voraussetzung〕は、論証的な論理学から剥ぎ取ることはできないのである。言語〔Sprache〕は新しいものを古いもののように見せ、全てのものは以前から起こっているものの枠内で生じるということを証明する。言語はこうした烙印を押すのである。
②こうした、言語はどれだけ具体的に基礎づけられているのかという機能が意味せねばならないもの、つまり言語の真理というのは、哲学が存在して以来、討議の対象になっている。現実主義的な物の見方に従えば、普遍的なものが、いや、普遍的なものだけが存在する。最初期の哲学は次のように教授した。すなわち、比類なき偉大な事物、つまり水、火、空気が存在するのだ、と。言語は、存在するのは一なるものではなく多なるものであるという知覚を理性に移し替える。言語は次のように述べる。木は水であり、家は水であり、天空は水であり、存在する唯一のものは水である、と。「〜であるist」が意味するもの、つまりアルケー〔Arché〕の特殊な存在は、審議されることがない。特殊な実存様式は、思考されえない。第一の存在と個物〔Sein und Einzeldingen〕など無効である。というのも、個物は自己に固執するが、それは単純に第一の存在それ自身であるからである。異なる響きを持つかもしれないが、あらゆる発話は、根本的にそれ自身で、ある表現〔Ausdruck〕とともに個々単独の表現をも示唆する。水―水、空気―空気、等々。
③時代が進み、個々のアルケーの代わりにいくつかのアルケーが仮定されたとき、原理の中では変化することのなかった言語は困難に直面することになる。個々の事物はもはや普遍的物質〔Substanz〕ではなく、諸物質の混合であった。貸方〔Haben〕と属性の諸概念は奪い取られたという。事物はいくつかの属性〔Eigenschaft〕を持ち、いくつかの諸要素から調合される。無論、矛盾は、暴露されることなく侵入してくる。あらゆる個物と唯一のアルケーとの関係は、それ自身で論理的機能を満足させる。しかし、こうした個物が精確に同様の様式の中であの水のように火「であるist」のならば、諸原理の相違は否定されてしまう。この諸原理は、自己自身に固執する個々のものの内にある存在にほかならない。それゆえ、内属〔Inhärenz〕が自己に帰結するのならば、諸原理もまた、自己に帰結することになる。しかし、内属は繋辞〔Kopula〕によって定式化され、論証的な論理学は個々の繋辞だけを識別する。繋辞の存在に内在する言語は、一元論ないし同一哲学へと漂流していく。
④自然哲学者の後継者たちは、諸物質を脱-物質化し、世界の事物と多くの個々のものとの関係を普遍的なものと特殊なものとの関係に移し替えた。普遍的なものの外にはなにもないのである。ひとが語るやいなや、特殊なものは普遍的なものと呼ばれるようになる。それは別として、語られることはできず、せいぜい名付けられうるにすぎない。伝統的な意味において、認識というのは、仮に反対のものが主張されたとしても、最終的にはいつでも恒常的で時間を喪失した存在を目指していく。どの命題であっても、すぐ使える典型を身に着けた述語概念の下にある繋辞を用いて特殊な主体の包摂図式に適合せねばならない、という要求〔Anspruch〕が犠牲にされたとき、万能である形式論理学は活動を停止する。特にこの論理学は、名詞的〔substantivisch〕な諸言明の中にある動詞的〔verbal〕な諸言明が翻訳され得なければならない、という要請〔公準/Postulat〕に結びつけられる。あらゆる出来事というの「はist」その〔要請〕類型の特殊ケースである。「彼は憎むer haßt」という命題は出来事を、それ自身で憎んでいるのではなく、それ自身「存在するist」抽象的な憎しみ、つまりアルケーの具体的存在に従って理解される普遍的なものの純化された、あの存在様式の中で「存在するist」抽象的な憎しみへと制限する。形式論理学によれば、「〜である」というはたらきしか存在せず、「〜である」〔というはたらき〕は現実のはたらきでも、自発性でもなく、具体的な固執〔維持〕から導き出された類型の〔時間の〕継続、すなわち永遠に同一のもの〔Gleichen〕であるのだ。
⑤動詞的な諸言明がその中で翻訳可能であるような述語的な諸命題とともに当価値であると見做されなかったとき、動詞が存在するように多くの論理学も〔また〕存在せねばならなかった。いくつもの言葉〔Wörter〕の論理的関係は、もはや把握できないものと把握されないもの、普遍的なものと特殊なもの、実体と偶有性のような諸関係に制限されず、存在するのは、現実におけるいくつかの星座的布置〔Konstellationen〕のごとき多くの論理的諸関係なのかもしれない。アリストテレスとヘーゲルは、論理学と形而上学を同一視する傾向があるという点で区別されるが、おそらく前者〔アリストテレス〕が世界を単純かつ強固な枠内に閉じ込め、硬直したヒエラルヒーに制限したという点で区別される。それに対してヘーゲルは、論理学において分化した歴史的現実を言語へともたらそうとした。そして、言うまでもないことだが、この現実は最終的に再びエレア学派の夜に沈んでいくこととなった。ヘーゲル論理学でさえ、同一哲学に奉仕しているのである。
⑥こうした困難を前にして、唯名論〔Nominalismus〕は継続的に自己を信じ続けている。彼らによれば、繋辞というのは、単に想起〔Erinnerung〕の主観的機能である。「こいつは暴君だDer ist ein Henker」〔という命題〕は、暴君についての確固たる諸傾向がすでに私に対してそこかしこに生じいるということを述べている。この「〜だist」は、暴君もしくはその犠牲者を述べているわけではなく、私が現在持っている印象の関係を私の記憶に表示しているのである。私がいつでも秩序体系に対して自身の印象の関係について語り、他の人間自身について語ることが決してないとき、そのさい私はいつでも単に思考〔する存在〕として存在している。現実主義〔Realismus〕によれば、言語が時間の背後にある幽霊のような現実を指し示しているとき、唯名論において繋辞は、出来事を現実と関連させるのではなく、記号〔Zeichen〕もしくは符号〔Marken〕についての我々の全体系と関連させるような現象に、記号もしくは符号を鋲止めするための機能で満足することになる。言語はもはや自身の外部では何も意味しない。そして、両学派とその構想が共通であるような方法からなる確固たる秩序との関連は、こうした関連以外の意味をもたない。さしあたってちょうど科学におけるように、言語においては何も考えられず、何も表現されないのであり、単に「操作されるoperiert」だけである。唯名論によれば、言語というのは沈黙〔stumm〕している。言葉と事象〔Sache〕の特殊な連関というのは、表現、意義〔Bedeutung〕、意見、等々の意味においては存在しない。―古代の唯名論では―いくつもの価値観と他の意識諸現象との心理学的諸関係が探求されうるが、―近代の唯名論では―いくつもの言葉〔発話行為〕、脳での出来事、顔の運動そして他の事象との物理学的諸関係が立証されうる。このことは、当該諸分野の業務である。しかし、対象とそうでない何かとの間にある相違点など無意味である。実証科学の全能さ、それどころか、その全能さを問いただす不可能性は、唯名論から導き出される。物理学と唯名論を同時に是認し、限定するというカントの試みは、唯名論を遥かに超えていた。人格の自律というカントの主張は、現実主義のあらゆる問題に取り憑かれている。この主張は、経験的人間の儚い現実性を永遠の存在へと連れ戻している。
⑦唯名論者は言語の真理を言語にもたらそうとは決してない。彼らは、科学もしくは大衆向けの判断〔Urteilen〕の中で生じるものを描こうとする。哲学ないし専門知識の批判の代わりに、唯名論の弁明は彼らに沿って歩んでいくことになる。彼らは先入見を持たず、彼らが持つ論理学についての表象というものを、教授たちが論理学から作り出す慣習に適合させる。唯名論者は、教授たちのもとに認識に対する実例を持ってくる。専門科学がいつかこれまでとは異なったやり方をすることがあるのならば、哲学者たちもまた、正しくあらねばならない。哲学者というのは、完全に後天的な経験に基づいて思考を「操作Operierens」の概念に包摂する。しかし、この「操作」というのは、一様にそうした言語的なはたらきにしか注意を払わない。唯名論が法則として発見した、いわゆる思考の諸規則〔ルール/Spielregeln〕、つまり形式論理学の公理は、慣性の物理学的法則を現実の革命から再現するように、決定的なもの〔Entscheidendes〕を現実の言語から再現する。
⑧普遍論争は、論証的な論理学の普遍性に関係することは決してない。新たなものを既知のものに還元するために、僅かな例外を除いて、この両派閥は言語機能であると見做されねばならない。完全に理解された言語において、新たなものを把握する諸概念は、総じてすでにいつでも使える状態にある。生産諸力が現存する社会形式に結びつけられているように、発明〔と論証〕の芸術ars inveniendiは、数学的普遍性mathesis universalisに結びつけられている。野蛮人に対する言語の抵抗は、自発性に対する敵意に変わる。あの暴君についての命題における「〜だist」は、基本的に次のようになっている。すなわち、この命題の性質は事物の自然の中で基礎づけられ、この命題は、全く別の状態には決してなり得ないということである。暴君はその性格をプラトン的な神話に従い、いわば誕生に先立って選択し、必然性を伴っていまjetzt到達するのである。質を瞬間もしくは1年ないし10年に制限する時間上の事項索引は、この「〜であるist」の機能を完全に手つかずのままにする。そして、逃れられないものUnausweichlicheは、こうしたいくつかの間隔に関係する。この事項索引は変化することができない。というのも、この索引は変化することなく、繋辞としての機能を果たすからである。この逃れられないものというのは、せいぜい①目下のところAが暴君であるという命題、②目下のところAが大臣であるという他の命題と比較して正しい可能性がある。そのさい、Aの同一性は、自己を厳密な意味において維持させることはない。というのも、Aから同様に導かれるAは、論証的な論理学(三人の偉人の中で二人の偉人が同じであるのならば、彼は自分自身の下で同一である)に従って、大臣は暴君であるということが導出されねばならないからであった。しかし、諸矛盾など、こうした論理学から見れば程遠いものだ。こうした論理学は、人格の同一性を消去し、体系が不動である可能性の側に立つ。諸概念は、現実の中で起こっていることでさえ分断したままである。論証的な論理学の言語における「〜であるist」というのは、幽霊のような自然の存在に由来している。
⑨今日、人間諸関係は言語の使用法に合致している。ショーペンハウアーによれば、重要性についてあらゆる残滓より優れている問い、すなわち「何であるのかwas einer ist」という問いが立てられている。ひとは、これを見つけ出す意味だけがなおもあるようないくつかの語らい〔Gespräche〕を用い、国家機構は、こうした論理学に適合する傾向を持つ。国家機構のひとつはアカ、ひとつはユダヤ人、ひとつはファシスト、ひとつは臆病者、ひとつはトロツキスト、ひとつは外国人―これらは国家機構に対して判断を下し、彼らの幸福や不幸はそれ〔こうした判断〕に依存している。国家機構〔or彼ら〕は包摂され、把握され、分類され、閉じ込められ、組み込まれる。論証的な論理学は自身の勝利を祝う。すなわち、確定や分類、「記述statement」、つまり証明可能な言明は何かしらに当てはまる。そして、首が飛ぶことほど証明しやすいものはない。他の諸秩序の洞察は、いつでも首が飛ぶことを救い出すことができるのかもしれない。