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ヌーディストビーチとパートナーシップ

素っ裸になりたい、そんな願いがここ最近あふれていて。作った・綺麗な自分じゃなくて、ありのままの自分であなたと向き合いたい。

そんな私の旗印をまーさんは【ヌーディストビーチ】といういい感じの表現でまとめてくれた。

素っ裸になりたいよりは少し現実味を帯びた【ヌーディストビーチ】という表現を見て、改めて考えてみると【場】と【関係性】の重要性を再認識した。


ヌーディストビーチについて思うこと


この間のまーさんとのコーチングの中でぽろっともらった言葉が、「かえでさんはヌーディストビーチを求めていそう」だった。なんだかやたらと気になって、気に入って、セッションから大切に持ち帰った。

気に入ったワードだったこともあって、その後テーマとしてまーさんに考えてもらったりして。よりヌーディストビーチへの理解と私の中での位置づけは深まっていったように思う。

脱いでいい居場所で脱いでみようぜ。脱いでいい場所で、したかった振舞いをしようぜ、ということ
(中略)
「素っ裸になる」ということは何も、「すべての規範を手放す」ことを意味しているわけではなくて、自身にとって心地のよい規範を、社会的要請との中で取捨選択し、適切にアジャストしていくことを目指す営為なのだろう
ヌーディストビーチに思うこと まーさんnoteより


服を着ないことが当たり前というか脱いでいい場所。そこで自身にとっての心地よさを探っていくのがヌーディストビーチなんだろうと思う。

脱いでいいと思える場所、そんな場所があるという安心感。それがこの場の持つ力だなと思う。脱いでいい場所で脱いで、したかったことをする、この言葉の何と自由なことよ。


ここで私がフォーカスしたいなと思ったのは、【したかったことをする】という部分だ。


ヌーディストビーチ最大の特徴は、服を脱いでいること。今まで縛られてきた社会の価値観や規範やルールというものからそこでは隔絶されて、脱いでいいよと許容してもらえる場所であること。

だから普段何か抑圧されていたり、自由が損なわれていると感じていたり、解放されたい人がそこに行く。服を脱いでしがらみから解き放たれてありのままの自分になるのだ!と向かっていく。


脱ぎ捨てることよりも脱いで何するかが大事ではないか


コーチとして活動をする中でも、自分自身と向き合う中でもよく口にするし、耳にする言葉。「鎧を脱いで自由に生きたい」「ありのままの自分を出したい」

私自身がひどく葛藤している部分だから共感を寄せつつ、興味が湧いてしまうのは別のところにあって。それは「脱いでどうしたい?」ということだ。

多くの場合、いかにして鎧を脱いでいくかに意識が向きがちだ。ずっと着てきてしまった、着ていることが当たり前になってしまった鎧や服をどう脱ぐか?どうやったら脱げるか?

気持ちを変えることかもしれない、場所を変えることかもしれない、ヌーディストビーチに行ってみることかもしれない。

でも少しだけ視点も変えてみたいのだ。

鎧や服を脱ぎ捨てた後に、果たして自分は何をしたいのか?脱いだ自分はどんな風になっているのか?

簡単に言えばきっと自由を手にしているのだろう。ありのままを相手にさらけ出しているのだろう。でもその目的はどこにあったのだろう。


なぜ今まで当たり前として、普通に着ていた鎧をわざわざ脱がなければならないと思うのだろう?何のために?


鎧を脱いだ後にしたいのは、同じように鎧を脱いだ人と向き合いたい


私が服を脱ぎたい理由、それはもう服を着込んだ自分で相手と向き合いたくなくなってしまったからだ。どこかでお互いに相手が鎧や服を着ていることを察知していると、遠慮がある。

片一方が全部脱いでいても不十分だと思うのだ。同じように脱いだ人と交流をすること、それこそが私が望むこと。生身の相手と会話をしたいし、生身の相手を”評価”したい。”評価”されたい。


だから私にとって鎧を脱ぐとは自分一人では完成しないことなのだ。一人でヌーディストビーチに行って、風を感じて気持ちいい―と叫んでいても不十分なのだ。

そこには自分以外の誰かがいなければならない。それがまた難度を上げていく。自分以外の他者という不確定要素が難しくさせていく。

何が難しいのか?でいうと一つは相手にも脱いでもらわなければならないこと。相手も脱ぎたいと思っていなければいけない。そのうえでさらに大きな要素になるのが、”私がその人の前で本当に脱ぎたいと思っていなければならない”


誰の前でも裸になりたいわけではない、素っ裸になりたいという願望


素っ裸になりたいというフレーズを握って過ごしてみて思ったのが、素っ裸はいいなということ。自由だったし、イキイキとしていて、失っていた自分を取り戻していく感覚があった。

もちろん相手のことを考える視点や言い方や在り方に一定の意識は必要かもしれないけれど、自分のために自分を偽る必要がないだけでかなり自由だった。


それと同時に感じたのが、誰彼かまわず裸の付き合いをしたいわけではなかったということ。素っ裸になると服を着なくていい分気楽そう・手間がなさそうに見えるかもしれないけれどそうではない。

意外と維持し続けるのには神経を使うものでもあった。


だから私の中で出た結論は、素っ裸になりたいのは関係性が築けている相手の前でということだった。パートナーシップが結ばれていることが大事だった。

素っ裸の私を見て相手はこう思うかもしれない…なんてネガティブなことを少しでも考えてしまう時点でもう素っ裸にはなれない。少しずつ服を着始めている。


本心から素っ裸を見せられる関係性ってどんな関係性なのだろう?


まず浮かんだのは、相手に嫌われない安心感のある関係性。ジャッジをされないことかもしれないし、ジャッジしたとしてもマイナスではないと感じられる関係性。

この安心感は少しずつ醸成されるもののような気がする。一緒に過ごす時間を重ねることでできる感じ。


そして何より素っ裸を見せたい相手であることが大事で。それはたぶん相手のすべて・どんなことでも知りたいと思うこと。相手のことをたくさん知りたいと思うと同時に自分のこともたくさん開示したくなっていく。

相手の素顔を見たいから、自分も素顔を見せるのだ。相手の素顔を見たくなるのはいろいろな理由がありそうと思う。

そもそも相手に惚れていることもあるかもしれない、価値観が好きなのかもしれない、憧れがあるのかもしれない。いずれにせよ特別な感情を抱いていることがある。


自分のことをよく知ってほしい相手に対して、出してもいい安心感を感じて服を脱ぐ。そんなシンプルなことを握っていれば、より鎧も服も脱ぎたくなっていくようなそんな気がする。


服を脱いだ後に待っている世界


そこまでして状況を整えていざ服を脱いでじゃあ何があるのか?

それは本心と本音で相手とぶつかり合えることだと思う。相手を受け入れ、自分が受け入れられ、本音を語り合う。

そんな語り合いの場がヌーディストビーチにはあって、そこで対話をすれば私たちは自分の望むもの、願いに実直に気づくことができる

きっと着飾っている時よりも早く力強く自分達を変えることができる。お互いに与え合うアドバイスやフィードバックが持つ力の強さが違う。

そんな本音でぶつかり合って、しばきあって、高め合う関係性が理想だと思う。こう書くとものすごく熱く感じるけれどそれはコーチとクライアントとの関係性でも同じだ。

コーチが本音で感じたことを出せる。クライアントも着飾らず誤魔化さず思ったことが出せる。そんなセッションをしたら…って考えたらとってもワクワクする。

それを実現するためにはきっと私の器も必要だし、お互いの覚悟も必要で。そんな覚悟を向けられる相手に、そしてその覚悟を受け止める強さを私は得たい。

そのためにも服を鎧を脱いで自由に飛び回る強さが欲しいのだ。



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