霊憑き男子は推し活女子に恋をする 第9話【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】
前に来たときは、壁一面に神ノ木シンのポスターが貼られていた。
一瞬にして客人を帰る気にさせる破壊力を持ったポスターの数々。
それが、ひとつ残らず剥がされていたのだ。
ごく普通の白い壁がむき出しになっている。
ごく普通ではあるが、異常な時を見てしまっているため、その普通さが逆に不気味だった。
「どうぞ、寒かったでしょう」
彼女が持ってきたコーヒーカップも、シン様がプリントされているやつではない。無地の物であった。
早坂さんは何も言わずにコーヒーに口をつけた。
何も言う気は無い、といった感じだ。
私の話術を持ってすれば、適当に話を振ってその場を切り抜けることも可能であっただろう。
家を訪問した理由も、それらしいことを作り上げることもできたであろう。
無言の彼女が話しかけてくる。
何も聞くなと。私にそう言っているのがわかる。
その理由を問いただしてしまえば、彼女の、他人を踏み込ませないようバリアを張っている、心の核の部分に触れることになるに違いない。
私はいつも、そういう他人の気持ちに深く入り込む話は避けて通ってきた。
友人が意を決して何かを告白しようとしている時も、彼女がなにやら思い悩んでいる時も、常に他の話題を振って、もしくはごまかして帰ってしまうのが常套手段であった。
他人の心を知るというのは、少なからずその人の人生に介入することだ。悩みを共有し合うということだ。
そういうのがわずらわしくて、私はいつも逃げてきたのだ。
しかし、だから失敗してきたとも言える。
きっと放浪癖のある元彼女にも、どこかで冷たく振舞っていたのであろう。だからフラれたのである。
悩みを共有しあわないで、真の理解などできないというのに。
だから、今になっても未だ彼女が去っていった理由がわからないでいるのだ。
そんなのは嫌だ。
何もわからないまま、どこかへ消えてしまわれるのは、もう御免である。
早坂さんのすべてを知りたい。
だから、聞かなくてはならない。
私はコーヒーを一口飲んで、口を開いた。
「ポスター、剥がしたんですね」
恐る恐るといった私の言葉に、早坂さんはやんわりと笑った。
「ええ、大掃除をするので。それに、もういいんです」
「シン様のスキャンダルのことですか」
シン様と言う言葉に、彼女は少しだけ唇を引き締めたのがわかった。
「それもありますけど…もう、この歳になって芸能人のポスターを貼っているなんて、ちょっと恥ずかしいでしょう?
もうそういうの、やめるんです」
首をかしげて、マグカップを置いた。
「嘘ですね」
私は容赦無く口にした。
一瞬、彼女が怯んだのが分かった。
つき慣れていない彼女の嘘は、酷くもろい。
瞳の中に、不安が揺らめいたのが分かった。
「あなたの嘘は分かるんです。
本当は、そんなこと思っていないんじゃないですか」
私の視線から逃げるように、彼女はうつむいた。沈黙がずっしりと肩に乗っかってくる。
彼女は、もう嘘はつけないと判断したのだろう。両の拳をぎゅっと握り締めている。
「遠野さん、あなた……一体なにしに来たんですか」
その声は、ぞっとするほど冷たかった。
彼女はコーヒーカップに視線を落としたままだ。
「遠野さんだって、本当はあたしのこと、馬鹿にしているんでしょ?」
彼女が本当に発しているのだろうかと思うほどに冷め切った声が反響する。
私は胸中穏やかじゃなかったが、静かに反論する。
「そんなこと、思っていませんよ」
私の言葉にはっとしたのか、彼女は顔を上げた。
「すみません、心配してくださったんですよね。それなのに失礼なことを――」
「いえ、私こそ押しかけてしまってすみません」
早坂さんは再び視線を落とした。言おうか言うまいか、迷っているといった様子だ。
あなたのバリアを壊したい。
今の私の一番の望みであった。
私の真剣な態度に、彼女は観念したように、ゆっくりと語りだした。
「…よく友達に、『芸能人に何でそこまでハマれるの?』って言われます。
でもそれは違う。私がシン様に初めて会ったのは、テレビ越しじゃなかった。
街中で、ごく普通に会話して、そこで好きになったんです。
本当はこっちが聞きたいぐらいなんですよ。
『なんでよりにもよって芸能人なの? 私にチャンスは無いの?』って」
彼女は低い声で、まるで世界には自分一人しかいないのだというような、寂しさのにじみ出た様子で語った。
「悔しかった。私は、ただ街中で出会った人に恋をしただけなのに。好きになることも許されないなんて。
どんなにライブに行こうとグッズを買おうと、それは一方通行で、彼にとって私は何十万人っているファンの一人に過ぎないんです。
あたしはあの時のシン様の笑顔を忘れられない。手の甲にされたキスを忘れられない。
でも、きっと彼は憶えていないんでしょうね。
それが…悲しくて、すごくみじめです」
彼女の瞳から、涙があふれ出てきた。
それを拭おうともせず、続ける。
「分かってるのに…でも思わずにはいられないんです。あたしだけのために笑ってほしい。あたしだけを想っていてほしい。
一生懸命頑張っている彼の姿が好きなのに、芸能人なんてやめてしまえばいいって、思っちゃうんです。
今日のスキャンダルだって、分かりきってたことなのに――」
早坂さんは声を堪えて、泣いていた。
私は思う。
これほどまでに美しい涙が、この世にあるのだろうか?
この世に二人の人間として存在する限り、憧れの人と結ばれる可能性は、確かにゼロではない。
もしかしたら、もしかしたらあの人が私を愛してくれるかもしれない。
私があの人を愛しているのと同じように。
その、何百万、何千万分の一の可能性に思いを馳せて、彼女はその感情から抜け出せずにいる。
私も同じだ。
私も、ずっとその途方も無い確率論に縛られていたのだ。
自らの愚かさを思い知った時、私の中で何かが切れる音がした。
後で冷静になって考えてみると、「あれは理性が切れる音だったのだなぁ」としみじみ思うのだが。
しかしその時は、無我夢中で彼女の肩を引き寄せていた。
早坂さんが驚いたように目を見開いた。
涙に濡れた大きな瞳。
そこに映し出される、笑ってしまうほど真剣な私の顔。
私は彼女をそっと抱きしめた。
抱きしめた彼女の肩が、瞬間、ビクリと震えたのが分かった。
おそらく何が起こったのか分かっていないであろう。それをいいことに、私は調子に乗って強く抱きしめる。
あなたはいけない人だ、と、心の中で念じながら。
私をいとも簡単に家にあげるなんて。
私を前にして泣くなんて。
私の前で他の男の人を想っているだなんて。
いけない人、いけない人だと何度も何度も思う。
早坂さんの、一挙一動一頭足が、私を狂わせる。
ただでさえ、元彼女に会って落ち込んでいたときに、こんな愛らしい様を見せ付けられて、我慢できる男に見えたのだろうか?
腕の中の早坂さんは抵抗しなかった。
ぼんやりと、何が起こったのか分かっていないらしき彼女を、腕の中から開放する。
呆然とする彼女の前で、私はあくまで不敵に、にやりと笑って見せた。
途端、両手で突き飛ばされる。
その勢いで横転し、後頭部を床にぶつけた。
無様にも横たわったまま早坂さんを見上げると、震える彼女は肩で息をしていた。
グッジョブ! さすがは早坂さん。
男を突き飛ばす時は手加減なしで全力ですね。
少なからずショックを受けている私はおかしなことを考えた。
どうやら条件反射で手を出してしまったらしい。
彼女は、己の手と私を交互に見やっている。
いきなり抱きしめられたことと、思わず本気で突き飛ばした焦りで、混乱しているようだ。
ふと我に返った彼女は、
「か、帰ってください!早く!」
と叫んだ。
私は身を起こして立ち上がる。
すごすごと、玄関までおとなしく引き返した。
後ろを振り返ると、まだ拳を握ったままの早坂さんの姿。
恥ずかしさか憤りか、顔を真っ赤にしている。
「もう二度と来ないでください!」
いつものおとなしい彼女はどこへやら。
声を荒げて、私に向かって出てけと叫ぶ。
私はその声にしたがって、退散した。
玄関まで行って、一度だけ振り返る。
「シン様のことは複雑ですが、早坂さんは、笑っている方が素敵だと思います。
……では、おやすみなさい」
呆れて言葉も出ないというように、彼女は最後までポカンとしていた。
私は靴を履いて外へと出る。
十二月の冷気が薄着の私に襲っていて、身をすくめながら階段を下りた。
街頭に照らされたほの暗い道を歩いていた時、
『馬鹿者がぁ!!』
という声とともに、再び頬に激痛が走るのであった。
後ろから暴漢に襲われたのかと振り返るも、誰もいない。
すると左頬だけでなく左手もじんじんと痛んでいることに気が付いた。
『彰文! このうつけ者が!
彼女が泣いている時に無理やり抱擁する者がいるか!』
どうやら陣八が自らの左手で自らの頬を殴ったらしい。器用なことをするものだ。
私は憮然として、
「…ふん、愛しの妻にそっくりな早坂さんを抱きしめて、内心は嬉しいんじゃないか?」
嫌味たっぷりにそう言うと、再び左腕が左頬を殴った。
『お主という奴は…見損なったぞ!』
陣八は怒りに震えている。
最近センチメンタルで珍しく落ち込んでいると思っていたのに、随分元気ではないか。
なんと言われようとも、私の五感を共有している以上、陣八も彼女を抱きしめたことになるのだ。むっつりスケベめ。
「この前家に行ったときは、据え膳食わぬは武士の恥、って言ってたではないか。何をいまさら」
『そういうことではないだろう!
心が弱っている時につけ込むなぞ、武人のすることではない!』
「ぐっ…!」
今度は右手でメチャクチャに殴られた。
私が痛みを感じるということは陣八も痛いくせに、それでも殴るなんてこいつマゾなのか?
やられっぱなしでいい加減腹の立ってきた私は、ため息をつき腹をくくる。
道端の電柱に両手を置き深呼吸すると、そこに自らの頭をぶつけてやった。
ゴンッ、と鈍い音が頭蓋骨に響く。
手加減無く、思いっきり強くぶつける。
『痛っ!』
「自縛霊の分際で、私の恋愛に口出しするな!
嫌なら早く私の中から出て行くんだな!」
『うっ、や、やめろ彰文!』
「こうやって衝撃を与えれば成仏できるんじゃないか?
ほら、早く成仏しろよ。
ほら、ほらほらほらほらほらほらほら!」
ガンガンガンッと何度も電柱に頭をぶつけてやる。
『止めろと言っている!』
とまた後頭部を殴られる。
そのせいで頭の中が揺れ、バランスを失った私はコンクリートの上に崩れ落ちた。
堅い地面に寝転がった体勢のまま、片方の手で殴ろうとし、片方の手でそれを止めるという攻防を繰り返す。
『はっ、お主は本当におめでたい男だな。
本当に自分が彼女の事を好いていると思っているのか』
「なん…だと?」
『拙者のさくらへの恋情を、お主の早坂殿への恋心と勘違いしているのではないか?
お主の感じることは拙者の感じること。ならば拙者の好意をお主が感じるのではないか?』
ぴたりと、左手が止まった。
陣八のせせら笑う声が脳に響く。
考えたこともなかった。
この彼女へのこの想いが、すべて嘘であるかもしれない、と?
『出て行ってやるさ今すぐにでも!
それで、お主が全く彼女のことを好きでなかったら、お笑い草だな!』
「……黙れ!」
右手がノーマークのみぞおちに拳を打ち込んだ。
内臓が全部逆流しそうになるが、お返しにかかとで弁慶の泣き所を蹴ってやる。
地べたを這いずり回りながら、一人喧嘩は続く。
通行人がいたら独りでジタバタと暴れている、頭のおかしな奴に見えたであろう。
しばらくそうしていたら、もうどっちがどっちを攻撃しているのか分からなくなってきた。
初めから体は一つなのだから、これほど不毛なものは無い。
息も絶え絶えの陣八が言う。
『も、もう、やめにしないか…』
「ああ…そうだな…」
もう一発も殴る体力は無い。私はぐったりと、コンクリートに大の字で横たわる。
熱くほてった体温を、否応無しに奪っていく風を受けてくしゃみをしたら、肺が痛んだ。
口の中では血の味が広がり、眩暈がする。
満月を見上げる。
肩で息をしながら、流れていく鼻血の熱さと、まだ感触の残っている彼女の唇の柔らかさを感じていた。
ああ、このまま寝たら死ぬのだろうな、とぼんやり考えながらも、早坂さんを抱きしめたという事実に、天に向かってガッツポーズをした。
私もなかなかやるではないか、と笑うと、陣八の壮大なため息が脳の中でこだました。
寒空の下、クリスマスはもう目前に迫っていた。
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