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〈小説〉それは 静かに



「うるさいね」私が言うと、「夏だからね」彼が答えた。


蝉の鳴き声が響く駐車場で、助手席のドアを開けると、車の中から姿の見えないゴーストみたいに熱風が襲いかかってくる。
彼は少し開けたドアの隙間から腕だけを伸ばしてキーを差し込み、エンジンをかけたあと冷房の風量を最強にして、困ったような顔でこちらを見た。

まだシートが熱いうちに私たちは車に乗り込み、見慣れた風景が流れる通りを走る。
「こんなに暑かったっけ、俺ら小さい頃」
そう言ってハンドルを握る彼が、赤信号で停車したのをきっかけに地球温暖化について話し始める。

すごく重要なことのようにも、まったく関係のないことのようにも思える彼の話を聞き流しながら、シートを少し倒した。
信号が青に変わり、発車してもなお続く彼の話は、幼い頃のグランドでの体感温度まで遡り、少しずつ話を逸らしながら続く。

本来のワインの飲み方はこうだと、気持ち悪い唇の動きでワインを飲みながら、自慢げに時事問題を話すような人にときめいたこともあったし、夜景を見ながらなぜか折れたドラムのスティックを「俺の身代わり」とプレゼントしてきた人の、ミュージシャンとしてデビューするという夢物語に熱く頷いたこともあった。
ご両親にも紹介してもらい、収入も世間体も完璧だと思った消防士の人が、駆けつけた火災現場で顔にひどい怪我を負った私と同い年くらいの女の子が自分の腕のなかで息絶えた時の話を、食事中嬉しそうに話すのを聞きながら鳥肌が立ったことは、たぶん一生記憶から離れない。

色々な男の人の色々な話を聞いてきたけれど、彼ほどどうでもいいことを深く掘り下げ、いつまでもだらだらと話す人を知らない。
こんな時にそんな話、と思いながらも私は彼の、喉の奥に籠るような低い声と、緩急付けない一本調子の、眠気を誘うような話し方に心底安心している。
「大丈夫なんじゃない」
彼の話が一段落ついたようなので、答えにならないような言葉を私はつぶやいた。

「俺らの時は良くてもさ、俺たちの次の世代は大丈夫なのかなって」

車が役所の駐車場のゲートをくぐる。
一見混んでいるように思えた駐車場は、よく見れば空きが沢山あった。
彼はすぐに目星をつけたようで、迷わず空いている場所のひとつに車をバックで滑り込ませた。

私が先に降り、彼は後部座席からサンシェードを取り出し、フロントガラスに丁寧に配置する。
それを外側から眺めていたら、サンシェードの銀色が太陽光を反射してキラキラと光った。
私は眩しくて目を逸らし、先に歩き出す。
役所の入り口に入ると冷気が心地よくて、思わず「涼しいね」と声を上げてしまう。
彼も同時に同じような意味合いのことを言ったようだった。
広々とした役所のロビーを見渡す。

「あった」

目的の窓口を見つけ、私たちは手をつないで歩み寄る。
「あの、すいません」彼が言う。
私は彼の手を離し、カバンの中から紙を出す。

「これ」

「はい、婚姻届ですね、記載内容に間違いがないか、確認していただけますか」
言われて、二人で項目を一つずつ目で追う。
「間違いありません」
ほぼ同時にそう言った。
「では少しお待ちください」と真顔で職員に言われ、私たちはまた手をつなぎ、一番近いソファーに座る。


少し待った後、私の名前が呼ばれ、彼を置いてカウンターへ行く。
「失礼ですが、こちらは実母さまでよろしいんですよね?」
言いながら私の母の名を指さしている。
「そうです。実母です。この人から生まれました」
「ええと、名前が違いますが……」
「あぁ、それは、母が再婚したからです。二度」
「では本籍は」
「母の本籍はここです、この住所。私は、えっと、実の父の戸籍から、福岡に一旦置いて、最後はここです、この住所。一人きりの戸籍にしたんです。五年前に。だから……」
「わかりました、福岡の方に問い合わせてもういちど調べてみます。恐れ入ります、もう少々お待ちください」

心拍が、上がっていた。
色々なことを、一気に説明しようとしたせいだ。

「名前は違うけど親子なんです」そんな言葉がよぎったせいもある。
想定していたことなのに、思っていた以上に焦ってしまった。

振り返ると彼が、膝の上で祈るように手を合わせ、真剣な顔でこちらを見ていた。私と目があったとたん、いつものように間抜けな緩んだ表情に戻す。
私がソファーに座り「ややこしくて」と言うと、彼は黙って手を握ってきた。


カウンターの向こうで職員があわただしく歩き回り、電話を掛けたり上司らしき人に相談したりする様子が見える。
二人で黙ってそれを見守っていると、繋いだ手がどんどん温まり、どこまでが自分の皮膚か分からなくなる。脈の打ち方までシンクロしているような、そんな錯覚に襲われる。
彼はじっと前を見たまま、ゆっくりと呼吸している。
私はその表情を横目で盗み見て、今何考えている?と訊きたいのを我慢した。
名前が呼ばれ、カウンターに二人で行く。
「大変お待たせして申し訳ありませんでした。福岡の方にも問い合わせまして、手続き完了致しました。本日付けで受理致しましたので」
そう言ったきり、職員は黙って少し愛想笑いしている。

——ので?

私は職員と同じ程度の愛想笑いで見つめ返したが、どうやらそれでおしまいのようだった。
「ありがとうございました」
彼が言い、頭を下げると「お気をつけて」と職員も下げる。
私も頭を下げようかと思ったら彼が私の手を引き出口に歩き出したので、慌てて振り返りながら会釈した。


「なぁ」

自動ドアの手前で彼が突然言う。
やっぱりそうだよね、あっけないよね、これだけ?って感じだよね、もっとさ……と、返す言葉を用意していたら不意に「なんかさ、こう、すげー冷たいの欲しくない?」と彼は言った。
「え?……たとえば?」
「たとえば……アイスコーヒー」
「ふ、普通だね」
「でさ、さらに、帰る時ガリガリ君買って帰ろうよ」

ね。と彼が目配せして、私たちは自動ドアを抜け、灼熱のアスファルトの上を歩く。

私たちはこれからも、すごく大切なことをこんなふうにあっけなく、役所での一つの手続きのように終わらせるのだろうか。関係有るようにも無いようにも思える温暖化について食卓で話し合い、日々を生産し、私たちのことだけではなく私たちの次の世代が平和に過ごせることを案じながら。


先に運転席のドアを開けた彼が、その熱気にやられて変な顔をした。
保毛尾田保毛男だか、ミスタービーンだかに似ていて、それをあとで彼に話そうと思った。懐かしいな、ときっと彼は言うだろう。

この先いつか、彼が婚姻届を出した帰り道に、ガリガリ君を買って帰りたいと言ったのだと話したら、その時もきっと同じように、懐かしいな、と言うに違いない。
私たちはそうやって、懐かしいことの上塗りを重ね、共通の懐かしさに安心する。
そしてその懐かしい出来事の端々を、喧嘩した時にはそれぞれの短所として引っ張り出し、喜ばしい事があった時には長所として掘り起こし、お互いの記憶を照らし合わせながら生きていく。
お互いがお互いの記憶となり、それぞれを思い出す時同時に、そこにいた自分のことを見つけることができるのだ。

車はまた見慣れた道を走る。
彼がどこでアイスコーヒーを飲もうと思っているのかは見当がついている。
目的地までは少し距離があるのでサンダルを脱ぎ、シートの上で膝を抱えた。


「ガリガリ君って」


私が笑うと、「ん?」と彼は、こちらを見ずに答えた。

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