〈小説〉非情

   

突然けたたましい非常ベルの音が聞こえ身構えた。

慌てて床から立ち上がり、カーテンを少し開け外の様子を伺ったが、濃い闇に星が幾つか見えただけで、どこかから煙が上がっているわけではなさそうだ。

鼓動が高鳴って胸を触ると、心臓の位置がはっきりとわかった。

振り向いてベッドを見ると、ピクリともせず彼は深い眠りについたままだ。

どこまで無神経で図太い男なんだと呆れるがしかし、それも含めて彼の魅力だと思っていたのは少し前までの自分自身でもある。

マンションの廊下を誰かが走っている音が聞こえる。

私は深く息を吸い、耳を澄ませた。

私の部屋のベランダからは見えないところでで、煙が上がっているのかもしれない。だとしたらそのうちに消防車のサイレンが聞こえてくるはずだ。それから消防隊員が扉をノックして回る。昔実家でボヤ騒ぎがあった時そうだった。

鼓膜が震えてこそばゆいくらいなのに、彼はまだ眠っている。消防車のサイレンが聞こえてきたら、彼を置いて部屋を出るのもいいかもしれない、と思う。

愛人の部屋で一人で焼死。ワイドショーのネタになりそうな話だ。

それとも二人で残ろうか。彼は放っておいても目覚めないだろうし、二人で一酸化炭素中毒になって死ぬのも悪くない。

どうせ私たちは今日、別れるのだ。

写真を撮ったり贈り物をしたりしないのがルールだったから、証拠は何一つ残らない。目に見えるものなど信用できないから、私はそれで十分だった。

別れることに後悔はない。このまま続く方が私にとって毒だ。

マンションの外の様子を伺いに行った、誰かの足音が戻ってきた。

足取りがゆっくりなので、おそらく誤作動だったのだろう。消防車のサイレンは聞こえてこない。

私は彼が眠るベットの横に座り、縁にもたれて真っ黒なテレビの画面を見つめた。けれどすぐ、見てはいけないものが映りそうで怖くなり、テーブルに視線を落とした。

薄暗い部屋の中でも、彼のzippoが一つだけ浮かび上がるように目立っている。彼の子供が父の日にくれたらしい。正確には彼の妻が用意し、娘にデコらせたセンスの悪いzippoだ。 

私は彼のタバコから一本拝借し、センスの悪いzippoで火をつけた。

非常ベルが鳴り響いているのに火を使うなんて、根性が据わっていると、自分を褒めながら。

心拍もいくらか落ち着いて、耳障りではあるものの非常ベルの音に少し慣れてきた。

刺激的なことにも、人間いつかは慣れてしまう。

私と彼の関係のように。

こっそりと私の部屋で会い、体を重ねることが初めは楽しくて仕方なかった。

駄目だと言われると余計にやりたくなるのは小さい頃から。

罪悪感なんて全くなかった。

私が昨日別れを切りだした時、「妻にはバレていないから大丈夫だ」と、彼はとても不誠実な言い訳をした。それで切りぬけられるとでも思ったのだろう。

私が幼いころ両親の離婚でひどく傷ついたので、「家庭を壊してあなたの娘に私と同じ悲しみを味合わせるつもりはない」と言ったからかもしれない。

現に私は、彼に私の痕跡が残らないよう最大限の努力をした。

彼と同じ香水を使うようにしたし、一緒にシャワーを浴びても髪が濡れないように気を使ってあげた。

カバンやスーツに私の髪がついていないかいつもチェックしたし、飲んだあとネットカフェで始発を待ったという彼の嘘が通用するよう、始発できちんと帰らせた。

私が怖かったのは二人の関係が妻にバレることではない。

私が彼の子供を身ごもりたいと思ったことだ。

タバコはすでにフィルターまで達していたので灰皿でねじり消した。

彼の吸うタバコはタールが低いので深く吸わなければ味がしない。

健康に気遣ってタールの低いタバコを吸うあたりが、逃げ腰で嫌いだと思いながら、もう一本拝借する。

逃げ腰のくせに自尊心だけは強い彼と性交をする時、私たちはコンドームを使わなかった。 

彼は自分の発射技術に自信があったらしい。私は子宮内膜症が年々酷くなり、妊娠の可能性が人より低いのでそれを許した。

少し前の性交の時に、彼が射精する瞬間私は足をからめて彼の身動きを止めた。

彼はすごく驚いて乱暴に私の足を振りほどいた。結局私の膣内でも腹の上でもなくシーツの上に彼の精液がこぼれて、彼は苦笑いしながら「まいったな」と言った。

私の太股を必死に振りほどいた時の、彼の力の強さに本性を見た気がして、決心がついた。

妊娠を諦めるにはまだ私は若すぎる。可能性もゼロではない。私は愛を確かめ合うためだけの性交ではなく、繁殖するための性交がしたいのだ。

二本目のタバコも一息が深いのですぐにフィルターまで火がせまる。

唇をすぼめて頬をつつき、煙で輪っかを作る。

ふいに、非常ベルが鳴りやむ。

部屋中を静寂が支配する。

こんなにも、静かだったのかと驚く。

耳の中を流れる血流の音が聞こえる気がするくらいに、静かだ。

二本目のタバコを灰皿に置き、テーブルの上のワイングラスを逆さにして持ち上げる。

空に見えたワイングラスに残っていた僅かな滴が垂れ、見事にタバコの火に命中し、ジュウ、と音がする。いつもなら聴こえないくらいの、小さな小さな音だ。

激しい音の後に静寂を味わったからこそ、小さな火の最期を聴いてやれたのだろうか。

振り返ると彼はまだ、眠ったままだった。

ベットの縁にだらりと垂れた手を触りたくなる。私の体の全てを知っている手。

どんなに結合しても一つにはなれなかった指。

触れると泣きそうなのでやめた。

今泣いてしまうのは、みじめな気がする。

さっき少しだけ開けたカーテンの隙間から、白々と明けていく空が見える。

朝が来る前にコーヒーを淹れよう。

彼を起こして始発に乗せなくてはいけない。

非常ベルが鳴ったことは、彼には言わなくてもいいだろう。

それ以外にも、彼に言わないでいることがたくさんある。

いまさらそれを話したところで、どうなるわけでもないのだし。

 

 

        

                                                  

                                                  

                          


                                                  

                                                  

                                              

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