寂しさと共に生きる

彼の匂いがした。
梅雨入り前の昼下がり、喫茶店でのこと。
別れてからもう3年が経つというのに、泣きそうになってしまった。

石鹸の優しい香りのする柔軟剤とセブンスターの残り香とが混ざった匂いのする人だった。
私はその匂いが大好きだった。
彼が、とかじゃない。
未だにあの匂いを越えられるものを知らないのだ。
だけど、どの柔軟剤なのかは分からない。
家事をしない彼から得た情報は緑色ということだけで、分からないうちに別れてしまった。

会えなくなって、声を忘れた。
カメラに抑えられなかった瞬間の、優しい表情も思い出せなくなった。
何を話していたか、何を思っていたか、そんなことも分からなくなった。

そんな時、街中で彼の匂いとすれ違った。
思わず振り返ってみたけど、その姿はどこにもなくて、少しの違和感を覚えた。
すれ違った匂いには、煩わしさというものがなかった。

セブンスターの、あの煙たさが。

大嫌いだった。
私の事ガキだと思って、1時間に1度突き放して。
彼の指に挟まって咥えられる煙草に、私はずっと敗北感や嫉妬に似た感情を抱いていた。
ポッケの中に入り込んで、どこにでも連れて行ってもらえて、依存してもらえて。
煙草になりたいなんて馬鹿なことを思った。
だから、あれ程嫌っていた煙草の香りを恋しく思う日が来るなんて思わなかった。

思えば、あの煙たさは彼そのものだった。

その日私は、初めて煙草を吸った。
引き出しの奥の奥の方から、彼が置いていった煙草を大切に取り出して、たった三本のうちのひとつに火をつけた。
彼の匂いがして、泣いて、半分以上残して消した。
決して美味しくはなかった。
不味くもない。
ただ、クラクラする感覚に軽くなる気がした。
彼がどうしてこんなものに縋っていたのか、少しわかった気がした。

あの日からずっと、セブンスターのソフトを愛煙している。
そして今日、別れてから2度目の彼の匂いに遭遇した。
どこの誰かも知らない方の柔軟剤の香りと、私の体に纏わりついた煙草の香りとが混じって、大好きな匂いがした。

ちょっと思い出しただけ。
あの頃、私は心底幸せだったし、本当に彼を愛していた。
もう好きじゃない。
戻りたいとも思わない。
この匂いにずっと包まれていたいけど、皮肉にも彼との記憶が結びついてしまうから駄目だ。

誰しもが、忘れられない記憶を抱えている。

匂うだけで涙が零れてしまう香り。
聴くだけで胸が締め付けられる歌。
どうしても忘れられない11桁の数字の配列。

私は、そんなどうしようも無い記憶を、センチメンタルな何かを抱えて生きていたい。
そんな寂しさと、共に生きていきたい。

忘れられないのは、悪いことじゃないです。
どちらかと言うと、思い出せないことの方が辛いのかもしれない。

忘れたくないと思える瞬間を、そんな温度を集めて、そして出来ることなら、そんな愛おしいものたちに触れて生きていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?