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13. 現代哲学から振り返る、カント「純粋理性批判」と記号論理学

はじめに

もうそろそろ、哲学的な観点からの概念モデリングの精査も十分かなぁ…
等と思っていましたが、書店で書籍を見かけ、

そうだ、カントも読んでおこう!

ってことで、今回は、

を読んで、概念モデリングの基礎付けになりそうな言説を見ていくことにします。この本、単なるカントの書籍の紹介ではなく、現代哲学から見てどうなん?という視点で書かれています。この一連のコラムで前に扱ったフレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインなどの言説との関連も説かれていて非常に役立つものでした。昔々、カントの「純粋理性批判」は読んだようなうろ覚えの記憶があるのですが、論理学の意味論がバリバリ言及されていて、概念モデルは述語の表現と自然同値だという、私の認識からすると、その辺の基礎付けにも役立ちました。
ついでに、論理学の方もチェックしておこうということで、カントに加え、

という、レベル的に丁度いい本を見つけたので、こちらも併せて紹介します。

純粋理性批判 - 私は何を知りうるか

カントの哲学は、以下の4つの問いからなっているそうです。

  1. 私は何を知りうるか

    • 認識論

  2. 私は何をなすべきか

    • 実践哲学

    • 倫理学

  3. 私は何を望むことが許されるか

    • 宗教哲学

  4. 人間とは何か

    • 人間学

このうち、現実世界(意味の場)を記述する概念モデリングの基礎に関係するのは、間違いなく、1番目の「私は何を知りうるか ‐ 認識論」であり、”カントの分析哲学” のメイントピックもまた、このトピックに関する言説です。2番目以降は、概念モデリングの実践において考えなければならないトピックスですが、本稿では触れないことにします。

認識論に関して、”カントの分析哲学”のはしがきの一部を、ここに抜き出しておきます。

 認識論の問いは,「人間の認識はどのようにして可能(つまり,妥当)なのか」という問いである,という.そしてカントは,認識を表す判断を,近く経験に基づく ア・ポステオリな(a posteriori,論理的に経験の後からの)判断と,知覚経験に帰着できない普遍的で ア・プリオリな(a priori,論理的に経験に先立つ)判断とに分ける.また,「分析的」と「綜合的」とにも区別した.
 以上のような人間的認識の妥当性への問いは,「いかにして ア・プリオリ で総合的な判断は可能か」に収斂する,とカントは言う.そしてカントは,人間的認識が成立する条件として,①形式 — 感性的直観の形式(時間・空間)および悟性の論理的形式(概念・カテゴリー)と,②内容(感覚内容)とを要求し,「内容なき思考は空虚であり,概念なき直観は盲目である」と主張した.

カントの分析哲学” P i.

文中の、”「分析的」と「綜合的」”、及び、”「形式」と「内容」”は、概念モデリングに関わる重要な要素です。以下、順番に考察していくことにします。

認識の妥当性

カントによれば、認識論の問いは、

  • 「人間による認識は、どのようにして可能(つまり、妥当)なのか」

であり、認識は、

  • 認識は「判断」(文や命題)によってあらわされる

  • 認識は判断(Urteil[judgement])・命題(Satz[proposition])によって表されるから、そこで書く認識を表現する「判断」の分析を必要とする

であり、認識を表す判断を、

  • 知覚経験に基づく ア・ポステオリな(経験の後からの)判断

  • 知覚経験に帰着できない普遍的で ア・プリオリな(論理的に経験に先立つ)判断

の二つに分類しています。カントの認識論への問いは、認識そのもの(いかにして現象を認識するか、その過程や方法)ではなく、認識した内容の記述の妥当性を問うているようです。その辺り、前回の記事でも扱った、現象学的な問いの立て方とは随分趣が違うようですが、認識した内容の記述や表現に関するものなので、概念モデリングの記述の妥当性に直結する言説であることは間違いありません。

ア・ポステオリ、ア・プリオリの分類に加えて、

  • 分析的

    • 分析判断は、矛盾律のみに従い、述語が年は主語概念に含まれる

  • 綜合的

    • 述語概念が主語概念に何か新しい情報(information)を付加し、主語概念を拡張する

という区分も設けています。小難しい書き方になっていますが、「分析的」とは、ア・プリオリな論理法則とノミナルな定義のみから導き出され、完結する命題のことです。へ~、「分析」ってそういう意味だったんですね。

学問的判断はすべて何らかの普遍性を主張しているから、個別の知覚経験を超えた(超越的)ア・プリオリな判断ではあるが、

  • 論理学的判断 → ア・プリオリで分析的

  • その他の学問的判断 → 新しい情報を与えるので綜合的

だということです。つまるところ、カントは、人間的認識の妥当性への問いは、

  • いかにして ア・プリオリで綜合的な判断は可能か

に収斂することになります。その為には、感性的直観(sinnliche Anschauuug)と悟性(Verstand)とが綜合判断において結合されていなければならない、だそうです。人間的認識の成立条件として、

  • 形式

    • 感性的直観の形式(時間・空間)

      • 時間:線形的継起・同時性の制約

      • 空間的秩序:3次元的座標

    • 悟性の論理的形式(概念・カテゴリー)

      • 量:単位量の加算

      • 質:連続量・極限・微積分量

      • 関係:実体/属性・因果関係・相互性

      • 様相:可能、現実、必然(vs偶然)

  • 内容

    • 実質(感覚内容)

の両者が必要で、そこから「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」という主張につながっています。

超越論的探求

超越論的(transzendental)な探求とは、

  • 対象にではなく、対象一般についての我々の ア・プリオリ な概念にかかわるあらゆる認識

  • 対象にではなく、一般に対象についての我々の認識の仕方(Erkenntnisart)、しかも ア・プリオリに可能である限りでの認識の仕方、に関わるあらゆる認識

であり、現代風に言えば、メタ的探究(論理学、数学、理論科学そのものを研究対象とする)に相当します。私がやっている、概念モデリングに対する探求もまた、メタ的探究といえるでしょう。

認識の存在論

認識とは、カント流にいうと、

  • ア・プリオリな直観の形式的条件(時間・空間)

  • ア・プリオリなカテゴリーという概念的条件

の総合であるとのこと。
カントの認識の存在論は、

  • 超越論的観念論(transzendentaler Idealismus)+経験的・批判的実在論

であり(なんのこっちゃ?)、「超越論的・形而上学的実在論」(時空及びカテゴリーという枠組みが、我々人間の認識能力とは独立に、物自体に客観的妥当性をもって適用可能と考える - 要するに、我々が認識するとかそういう行為と関係なく存在していることを了とするってことか)を、アンチノミー(二律背反)に陥るという理由から否定するのだそうだ。

カントは、

  • 現象(フェノメノン)

  • 物自体(ヌーメン)

を分けて、「世界の超越論的観念性」を主張するアンチノミー論を展開している。この論のポイントは、

  • 測定の完結ができないものに関する概念は「統制的(regulativ)」な理念にすぎない

  • 経験的に実証できない理念は、唯一真なる記述であるとはいえない

  • 現象に関しては自然必然性が適用されて「超越論的自由」は認められないが、物自体について適用される場合には「超越論的自由」は認められる

  • 神の存在証明 ―  理性の理念

    • 存在論的な(ontologisch)証明

      • 「存在(Sein)」は述語ではない

    • 宇宙論的証明(デカルト風)

      • 無限の原因の系列を辿って「絶対的に必然的な存在者が存在する」という綜合判断を引き出すのは推論過程に難あり

    • 自然神学証明(意図からの証明)

      • 目的と手段、または、原因と結果の無限系列からの存在証明は論理的ではない

ということで、「世界創造者ないし世界建造者の存在を論理的に導くことはできない」と結論づけている。
モデリングにおいて言うならば、神の視点から見たような、唯一絶対の正しいモデルなんか、そもそも論理的に証明できないから、存在しないよ、ということでしょうか。モデル作成中、とかく、絶対的に正しいモデルを作ってやると思いがちになるものですが、そんなものはないので、妥当と思われるモデルの作成で十分だということかな。

分析と綜合

カントの『純粋理性批判』の、「ア・プリオリな綜合判断」論は、現代においても依然、新鮮な哲学的検討課題でありうるそうです。まぁ、哲学的問題に正解はないから、中心的な主題はずっと問い続けられるってことでしょうか。
カントは、論理学はア・プリオリで分析的、数学・自然科学(並びに形而上学)は、ア・プリオリな綜合判断からなると主張しました。しかし、その後、1930年代になると(随分間が開いている…)、論理実証主義は、これらを否定してしまいました。具体的には、ゲーデルの不完全性定理や、電磁気学、相対性理論や量子論の発見あたりでしょうか。

書籍では、以下の3つの問題として取り扱われています。

  • 数学は分析的か

    • 論理体系を幾ら拡張しても、算術を完全には再構成できず、一般医算術を論理に還元することは不可能である、その意味で、算術は分析的ではない

    • しかし、数学基礎論の歩みはカント的(<有限主義>、<構成主義>)であるといえるかもしれない

      • 直観主義:ある<根本的直観>を充実させつつ、一歩一歩構成されるべし

      • 形式主義:我々の論理的思考に常に前提される<記号直観>に依拠して、有限界の記号操作で数学の無矛盾性を証明しようとする

    • カントの綜合判断においては、以下が必要

      • 矛盾律

      • ア・ポステオリな知覚判断のような経験的直観による知覚

      • 純粋直観における構成と構想力(Einbildungskraft)の所産である図式(Schema)

        • 幾何学的構成、及び、算術における記号的構成

    • 新対象の導入

      • 直観における構成において、

        • 対象・質的関係・量的関係のいずれについても見来ていな形式的抽象幾何学に対し、特有の変換群に基づくモデル構成によってはじめて、特定の幾何学的性質や大きさを満たすべき図形が、直感において、ア・プリオリに現示される

        • 所与の対象から有限回の演算操作によって、一義的な新しい対象を算出する記号的構成により、新対象が導入される

      • フレーゲの第一階述語論理の量化法則中、存在例化に既に含まれている

    • 拡張性 ー 意味論的情報

      • ある整合的な文は、もしそれがより多くの選言肢を排除すれば、それだけ経験的内容=意味論的情報量が大であるといえる(ん?)

        • Inf(a=b)>Inf(a=a)

      • 一般医、論理法則以外に、徳部tの認識行為が必要であり、例えば、直感における器楽的構成や記号的構成が行われ、新対象が導入されるにつれて、意味論的情報は増大する

      • ヒンティカによる、深層情報(depth information)と表層情報(surface information)の区別

        • 新しい定理が与えられる

          • 深層情報は変わらない → 分析的

          • 表層情報は増大 → 綜合的

          • 論理学がア・プリオリなのは、深層情報においてであり、表層も含めると、我々の認識は拡張されていくので綜合的といえる

  • 自然科学のア・プリオリな性格

    • 自然科学は分析的ではなく綜合的である

      • 論理学から導かれた純粋悟性概念のみでは自然認識に有効ではない(当たり前だね)

      • カテゴリーが感性化されねばならない(どういう意味?)

      • 知性的かつ感性的な媒介的第三者として、超越論的図式(transzendentales Schema)が必要だ

        • 純粋自然科学は、カテゴリーという純粋概念に、構成力を介しての ア・プリオリな時間限定という図式化=純粋感性化を経て初めて可能になる

        • 図式化(schematisieren)=超越論的時間限定とは、カテゴリーに対するある時空モデル(一種の意味論的解釈)を与えること

        • 図式化=数学における構成化

      • 反証主義

        • 科学と形而上学の区画の基準

          • 理論の正当化:立証・確認(confirmation)ではなく

          • 反証可能性(flasifiablitity)が基準

          • 反証可能性によって確証された理論で人類は無限に心理に接近しうる=進化論的実在論(evolutionary realism)

          • 反帰納主義

        • 投げ入れ・考え入れ

          • 「ものにおいて我々がア・プリオリに認識しうるのは、我々が自ら物の中へ入れたものだけである」

  • 科学的認識をめぐる<実在論>対<観念論>

    • カントは、「実質的観念論(der materiale Idealismus)」を退ける

      • 蓋然的観念論と独断的観念論の否定

    • 一方で、「超越論的観念論」の見地をとる

      • 一定の科学の進展過程での我々人間の認識能力にとっての現れとしての現象(Erscheinung)にのみ妥当する

      • 経験的実在性(empirische Realitat)」

図式化については、興味深いので、本文をそのまま引用しておきます。

図式とは,構想力(Einbildungskarft)の所産で,感性の規定における統一であり,一つの概念にその形象(Bild)を賦与するという構想力の一般的手続の表象であって,構想力による綜合の規則なのである.カントによれば、量のカテゴリーに対する図式は数,(同種的な)単位の継時的加算であり,質の図式は実在性の連続的度,実体の図式は時間における持続,因果性の図式は規則に従っての時間における多様の継起,相互性の図式は一般的規則に従っての因果の共在である.つまり,図式は,規則に従う ア・プリオリな時間限定で,時間系列,時間内容,時間秩序(様相は時間総括)と称される.

P25

図式化(schematisieren)=超越論的時間限定とは、カテゴリー(純粋概念)に対する時空モデルを与えること、一種の意味論的解釈を与えることであるとみてよいであろう。(純粋自然科学における)図式化ということが、数学における構想化と対応するとみてよい。

P25

図式(Schema)とは「ある概念に形象(Bild)を与える際の構想力(Einbildungskraft)の一般的方法の表象」(B180)で、要するに当の概念の有意味な適用範囲を確認する意味論的手続きである。つまり、図式とは、統語論(Syntax)的レベルでのある概念が、どのような対象に適用されることが許されるかということを確定する意味論的規則を与えることに相当する。
~ 中略 ~
カントは、カテゴリーの図式を特に超越論的と称する。ア・ポステオリな概念や数学的概念と異なり、カテゴリーは特定の種類の対象のクラスや幾何学的空間上の特定的に構成されるような図式形象を含みえない

P85

そもそも、カントにとってのア・プリオリとは、

まず経験からの論理的独立性を意味し、その標識は、厳密な普遍性必然性に求められている。

P25

という定義も引用しておきます。

概念モデリングは、現実世界の記述の方法なので、カントの流儀に従えば、その妥当性ある規定の方法は、

  • ア・プリオリな論理と概念・カテゴリーを元に、綜合的に構成し、図式化する

だといえるのでしょう。概念モデリングを基礎づけている概念・カテゴリーをここで挙げておくと、

  • ドメイン(意味の場)

  • データ型

  • 概念クラス

  • 特徴値

  • Relationship

    • 両端に多重度と述語(反対から見た関係づいていることに対する説明)

  • 事象

です。上から5つまでが、概念情報モデルとして構成され図式化されます。他に、

  • ドメインオペレーション

    • 引数を伴うトリガー

    • データフローによるアクション群

  • 概念状態モデル

    • 事象(引数を伴う)

    • 状態

      • 状態が確定するまでの中間状態にデータフローによるアクション群が紐づけられる

    • アクション

      • 基本アクション:入力と出力が規定されたデータ変換

      • データフローによる基本アクションの連携

がありますが、こちらは、時間発展を考慮した、ア・プリオリな論理に基づく投げ入れを伴う綜合的な図式化に相当する、と、現時点で私は考えています。

余談ですが、

カントにおいて、表象体系を構成するのは、各人が超越論的主観としてア・プリオリに分有する普遍的な形式であるとされた。この形式が実は共同主観的な形成体であり、従って、表象体系を個々の文化に固有の構造をなすと考えるのが、構造主義的であるといってよい。

構造と力 ‐ 記号論を超えて”(中央公論新社 浅田 彰著)P144

とのことで、20世紀の代表的な言説の、構造主義は、カントに依拠するならこう説明されるとのこと。う~む。。。カント自身は、知覚・認識のあたりに関する詳細な分析は行っていないので、捉えた認識が超越論的なのか、共同主観的なのかは判断がつきかねるところです。私見ですが、数学、記号学、自然科学は、超越論的で、その他の文化的社会学的対象に「ア・プリオリな総合判断」を適用すると、それはどうしても、個々の文化に主観的に依拠してしまうのではないかなと、考える次第。認識そのものはやはり現象学にゆだねた方が良いのかも。

カントの分析哲学 - その他のトピックス

他に、興味深いなと思った言説を挙げていくことにします。

フレーゲの文脈理論について

フレーゲは論理学の祖と呼ばれています。フレーゲの論理学は、実在論的な古典理論として紹介されていました。文の意味は、真か偽のどちらかだよ、というのが、フレーゲが唱えた文脈理論(加えて意義という考え方もあったが、こちらはのちにウィトゲンシュタインによって否定)ですが、認識において、真か偽かが決められるという、二値の原理を肯定していることになります。この点についてはカントも同様に考えていたようです。更に、真偽の判定が可能であることの証明可能性も暗に認めていることにもなっています。この様な意味論のことを、”検証主義的意味論”と呼ぶそうです。
二値の原理に対しては、反実在論=直観主義からの批判・反論があるようです。真・偽だけじゃないんじゃないの?とか、真や偽がそう簡単に決められるの?というお話。この辺は、本文には書かれていませんでしたが、現象学や新実存主義でうまく折り合いをつけられる気がしています。

<論理的意味論>としての『純粋理性批判』

新カント学派などの見解とはちょっと違うようですが、本書では、

『純粋理性批判』を、第一義的には《意味論》として読むことを試みたい。《認識論》も《存在論》も、《意味論》を抜きにしては語りえないと思われるからである。のみならず、『純粋理性批判』の中心部分は、認識論でも存在論でもなく、まさに「超越的論理学」と称されていたのであり、その「分析論」は、認識の一切の内容から捨象された「形式的な一般論理学」に対して、一定の内容、ア・プリオリな認識、に関わる真理の論理学、つまり、ある意味論を伴った論理学と解するのが本筋だとかんがえられるのである

P59

とされ、要するに

  • 超越的論理学

  • 意味論を伴った論理学

を論じていると解釈できるってことでした。これらは、ア・プリオリな純粋な概念と直観、及び、その諸原理から、我々の認識を前進的(progressiv)・体系的に構成・展開するという《綜合的手続》がとられている、ということでした。

では、一般論理学(die allgemeine Logik)とは何かということなんですが、これは単なる思考形式なんだと。一般論理学は、認識のあらゆる内容とその対象の差異とを捨象し、単なる思考形式のみに関わるもの、とされています。しかし、結局のところ「認識の祖の対象との一致(Ubereinstimmung)」という「対応説」的な真理定義を前提し、各認識の心理の一般的で確かな規準(Kriterium)が何かを知ることを要求していて、要するにフレーゲが考案した指示対象との紐づけ(意義)を前提とするため、前のコラムでも紹介したように、自己矛盾に陥ってしまうことになります。よって、一般論理学は、認識の特定の内容に関する真理の基準にはなりえず、真理判定のための規範(Kanon)なのだと。

カントの『論理学』

真理は認識と対象の合致にあると言われる…しかし、このあたりを突き詰めていくと袋小路に嵌ります。カントは、対象そのものの話と、対象を認識する形式に関する話を区別して、「真理とは何か」という問いを、

  1. 真理の一般的な質料的な規準は存在するか

  2. その一般的形式的基準は存在するか

に分けています。最初の方は矛盾、袋小路に嵌るので、2番目の問いにフォーカスしているわけです。かくして論理学における真理の形式的基準は

  • 矛盾律

    • 論理的可能性

  • 充足理由律

    • 論理的現実性=根拠づけ

の二つになるとのこと。
んでもって、意味論を綜合的に構成していくと、現代論理学で語られているような話にいきつくってこと。。。こういう理解になるらしい
他にもたくさん、色々と書かれているけれど、もうおなか一杯です。ごめん。

循環論証(Diallele)

「真理は認識と対象との一致にある」これを論証しようとすると循環的な説明になってしまうと。それを古人は循環論証と名付けていて、懐疑論者の非難の的となっていた。だって、認識が対象と一致するかを確認するためには、対象を認識しなければならないものね。
なので、この状況を打破するには、カント的には、超越論的真理ということになります。超越論的真理というのは、

  • 我々の認識=経験一般の可能性の条件

  • 経験の対象の可能性の条件

この二つが一致することに求められる、ということ。

直接関係すると言っていいのかどうか、今一つ判断が難しいのですが、概念モデリングでは、概念モデリングそのものをモデル化した概念情報モデル(一般的にはメタモデルと呼ばれる)が存在します。概念モデリングを概念モデリングする…というと循環論証的ですが、概念モデリングそのものと、概念モデリングの形式を分けて(つまり、概念モデリングしているのは、概念モデリングそのものではなく、概念モデリングの形式である)考えれば、循環論証にはなってはいない、といえるでしょう。また、このモデリングにおいては、ア・プリオリな論理だけでモデルが作れる(つまり、様々な意味の場に対して作られる具体的な概念情報モデルや振舞いモデルへの言及をひつようとしない)ので、ある意味、概念モデリングの概念モデル作成は超越的といえるのではないでしょうか。

対象と形式を分ける

私の理解が正しいかどうか、ちょっと不安ではあるのですが、カントの超越論的探求の肝は、理性による認識において、認識の対象と認識の形式を分けて、ア・ポステオリにならざるを得ない前者ではなく、後者をア・プリオリな超越的論理で綜合的に情報を追加していく、という点にあると思われます。
要するに、対象と形式を分けているということですね。この点、概念モデリング自体のア・プリオリな綜合性だけでなく、”Technique of Transformation”で解説している、記述された概念モデルのモデル化対象に一切言及せずに、その形式に対して実装ルールを決めてコードに変換していく、いわゆる”変換による実装”の妥当性についても同様に適用できるのではないかと考えています。

無数のモデル

カントが主張した、「物自体」と「現象」を区別し、「超越論的観念性」と「経験的実在性」の立場は、パトナムの外在的ならびに内在的視座の区別の根幹にかかわる「指示の不確定性(フレーゲ)」という現代哲学の最も深刻な基礎的問題局面に直結するものであるとのこと。
本書では、フレーゲの『算術の基本法則』、ラッセルが発見したパラドックス、ダメットの「入れ換え議論(permutation argument)」、クワイン、デイヴィッドソン、ダメット、パトナム、そしてクーンやファイヤアーベントらの意味変換の問題などで格闘してきたテーマであること。
このあたり、既にマルクスガブリエルの新実存主義の立場からすれば当然のことであるのだけど、結局のところ(レーヴェンハイム=スコーレムの定理)によれば、

いかなる言語、いかなる形式的体系といえども、それが無矛盾ならば、濃度を異にする無数の互いに同形でないモデルをもちうる。したがって、意図せざるモデルをもちうるのであり、こうしたモデルの中から「意図されたモデル」を一位に取り出すことはできず、それ故、その言語体系中の名辞や述語の指示対象や外延を一位的に確定することはできないことを示したからである。ここでの「困難は語や概念とその他の存在者との間に対応が存在しないということではなく、あまりに多くの対応が存在するということである。…我々の概念と想定される可想的対象との間の対応を、当の可想的対象への「知的直観によるようなプラトン的」接近なしには摘出できないのである。

P110

しかし使用者の特定の共同体によって特定の仕方で実際に用いられる記号は、これらの使用者の概念的枠組み(conceptual scheme)内においては特定の対象と対応しうるのである。「対象」とは、概念的枠組みとは独立には存在しないのである。

P111

この論説は、概念モデリングだけに限らず、どんな表現体系を使っても、そうだよ、ということですね。「知的直観によるようなプラトン的」接近は、新実存主義的には意味の場として解釈してよかろう。
つまりは、作成したモデルの妥当性は、どんな対象に対して記述したかではなく、どんな意味の場において記述したかが重要ということで、概念モデリング以外の表現体系においても、留意しなければならない、ということだと私は理解した。

ってことでした。

現代の論理的意味論

本書の”付論 現代の論理的意味論”の章では、

  • フレーゲの論理的意味論

  • ラッセルの表示と記述

  • 初期ウィトゲンシュタインの像理論

  • タルスキの真理定義 - モデル論的意味論への布石

  • カルナップ ー 様相論理の意味論

  • 様相論理のクリプキ・モデル

  • 知・信の論理とモデル

  • モンタギュの普遍文法

  • 指示論 ー 単称名辞の意味論

と、現代哲学のレベルの意味論が網羅的に紹介されています。
いつの日か、概念モデリングの意味論をより厳密に定義しなければならない日が来た時(そんな時が来るのか?)に、もう一度読んでみようと思ってます。
もうおなか一杯です(苦笑)

記号論理

カントでさんざん論理学の話が出てきて、論理式で使われる記号を使った説明も盛りだくさんでした。
では、ということで、記号論理の解説本を読んだわけです。以下、気になった項目を列挙していくことにします。基本は、”カントの分析哲学”に記載の内容と、もちろん一緒。

形式言語 L

論理を自然文でだらだらと書くことはしません。なぜなら曖昧だし、正確に書こうとしたら超絶長文になって理解困難になるからです。その辺りの事情は、意味の場の対象をモデル化するなら概念モデリングの道具立てを使いましょうということと同じ。で、多分ですが、概念モデリングを構成するカテゴリー(カント風の用語です)の図式は、L で書き下せるのではないかと思います。

より具体的に言えば、

  • 語彙

    • 論理結合子

    • 矛盾記号

    • 量化子

    • 固定変項

    • 固定定項

    • 述語記号

  • 原子式

  • 式(整式)の定義

を使って、推論や証明を記述していきます。その際、4つの論理結合子に対するそれぞれの導入則と、除去則の組み合わせの8つの規則と、DN規則、2つの量化子にたいするそれぞれの導入則と、除去測の組み合わせの4つの規則が使われます。

様々な論理

自然演繹の体系には、規則や証明の表記法に関して様々なバリエーションがあるそうです。

  • 最も標準的な論理(古典命題論理の体系)

    • 基本規則+DN規則

  • この論理に、量化子の規則4つを加えると、一階の古典(述語)論理(個体変項のみ)と呼ばれる体系が出来上がる

  • 様相論理

    • 「可能▢」と「必然◇」を表す論理定項を持った論理

    • 個体変項だけでなく述語記号も変項にすると二階の論理になる

  • メタ論理

    • 自然演繹のたいけいについて健全性と完全性を証明する→メタ論理

    • 完全性

      • 一階の古典論理は完全である、すなわち妥当な推論は証明可能である

      • 二階の論理は完全ではない、すなわち体系の証明は不可能

    • 命題論理の決定可能性

      • 命題は決定可能である、つまり命題論理のどの妥当な推論も、それが妥当であることを機械的手続によって示すことができる

      • しかし、一家の古典論理は決定可能ではない

        • ただし、一階の古典論理でも、一項述語のみを許す範囲では決定可能

これまで、一階、二階の違いが今一つ腑に落ちてなかったので、この本助かりました。今まで何冊か記号論理学の本には目を通していたのですが、この本が一番わかりやすかったです。なんでだろう?
今後、機会があれば、概念モデリングベースに論理式を記述する場合には、L言語をきちんと使ってみようと思っています。

最後に

以上で、今回の記事は終わりです。
多分、ここまで読んでくれた人の素直な感想は「なんのこっちゃ」だと思います。
私の備忘録的な記事、そして、自身がまだ消化不良な状態で書いていること、お詫びします。

歴史上の哲学者に関する書籍は山とありますが、その哲学者が熟考した時代から現代まで時間が経過していて、その後議論は続いている訳なので、その哲学者の論説の単なる解説本もいいですが、今回とり上げた、”カントの分析哲学”の様な、現代の哲学的論考を踏まえた解説はとても参考になりました。

皆さん是非、今回とり上げた二冊をご一読くださいませ。

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