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テクノフォビアたちよ、効率化せよ

現代において、「失われた」とまでは言わないものの、ほとんど見向きもされなくなったテクノロジーは無数にある。

例えば「肥溜め」や「針仕事」といったテクノロジーである。

これらをテクノロジーと呼ぶのには違和感があるかもしれない。だが、僕はテクノロジーと呼ぶべきであると考える。それを納得していただくために、まずはテクノロジーを定義しよう。

テクノロジーとは、なんらかの目的を効率的に達成するために使用される道具や、道具の利用方法に関する知識の体系、あるいは何らかの作業へ取り組むための知識体系そのものを指している、ということで異論はないと思う。

車はそれ単体でもテクノロジーでありながら、車を運転できる人がいなければ鉄の塊に過ぎない。故に車をテクノロジーたらしめているのは人間の運転技術であり、運転技術も1つのテクノロジーである。

また、プログラミング技術そのものは道具ではなく単なる人間のノウハウなわけだが、これ自体にテクノロジーというラベルを貼っても違和感はない。

さて、テクノロジーとは進歩していき、古いものは新しいものに取って代わられると考えられている。肥溜めはハーバー・ボッシュ法というテクノロジーによって取って代わられて、針仕事はミシンや、あるいは大規模な工場制手工業に取って代わられたというのが一般的な解釈だろう。

では、なぜ取って代わられるのか? それは目的に対する効率が高いテクノロジーが、低いテクノロジーを淘汰すると考えられている。

となると、次は目的に対する効率とは何か?という問題が生じる。

それは次のような式で表すことができるだろう。

得られる成果の重要性 ÷ 浪費する資源の重要性 = 効率

つまり、重要性の少ない資源で重要な成果をたくさん得られたなら効率が高いテクノロジーであり、重要な資源をたくさん浪費したにもかかわらずわずかしか成果が得られなかったなら効率の低いテクノロジーということになる。

しかし、実際のところは効率が高いテクノロジーが常に使用されるとは限らない。成果や資源の重要性がは時代によって変化するが、その変化に合わせて主要なテクノロジーが変化するとは限らないからである。

例えば針仕事のケースを考えてみよう。例えばTシャツ1枚に穴が空いたとする。

昭和のお母さんであるならば、縫い針と余り布を取り出してきて、穴を塞ごうとするだろう。わずかな布と糸と時間という資源を投下して、穴の空いていないTシャツという成果を得る。

一方で、令和時代の僕たちは穴の空いたシャツを捨ててユニクロに行き、新しいTシャツを買うだろう。そのシャツを手に入れるまでにかかった工程は次のようなものだ。

シャツ1枚分の布と糸を浪費してベトナムの労働者がミシンでせっせと縫い上げ、段ボールに詰められて、港から日本へやってくる。もちろん、規模の経済が働いているとは言え、シャツを縫う時間はさほどテクノロジーによって短縮されてはいまい。布や糸といった資源は明らかにたくさん浪費されている。

さて、かつては、ベトナム人の労働力や、布や糸(これも実質ウズベキスタン人やインド人の労働とそこらの国の地力といった資源の結晶である)など、重要度の低い資源であり、日本人たる我々が縫い物をしたり、縫い物を学ぶトレーニングを積んだりする時間の方が貴重であると考えられていた。

そのため、針仕事をすることなく、グローバルサプライチェーンに依存することは、ある意味でテクノロジー的な発展だったかもしれない。

ところが猫も杓子もSDGsなどと宣う時代である。インドやウズベキスタンの地力や水資源は貴重なものであり、かつベトナム人の労働も貴重なものであり、海運に使われる石油も貴重なものとされている。

となると、グローバルサプライチェーンは明らかに効率の悪いテクノロジーということになる。逆にいま、効率のいいテクノロジーは、余り布で穴を塞ぐテクノロジーの方なのだ。

肥溜めも同様である。石油というクソ安かった資源が貴重なものとなっていった今、もはやハーバー・ボッシュ法で化学肥料を作るよりも、ウンコ(あるいは落ち葉や枯れ草、生ゴミ)というどこにでもある資源を堆肥化する方が効率的なテクノロジーであると言える。

しかし、誰も活用しない。言ってみれば、日本中の駐車場に自動車が停めてあるのに、誰も免許を持っていないような状況にあるのだ。

これはロストテクノロジーと呼ばずして、なんと呼べばいいのだろうか?

「そんなめんどくさいものはテクノロジーではない」という反論があるかもしれない。だが、使い慣れないテクノロジーとは往往にしてめんどくさいものだ。僕は車が嫌いなので運転をめんどくさがって電車と徒歩で済ませようとするし、スマホに怯えたお年寄りなら掃いて捨てるほどいる。

世間では、あたかも後から登場したテクノロジーが効率的であると信じられているが、実際はそうとも限らない。先述の通り、資源や成果の重要性が変化するからである。

また、浪費されている資源が過小評価されているケースも散見される。石油を燃やすことや、ゴミを海に流すような行為が過小評価されてきたことは、今や明らかだろう。

もちろん、金という評価基準においては、依然として効率的なのかもしれない。だが、金を効率的に追い求めた結果、金では測れない重要なものを浪費してちっぽけな成果しか得られないのであるならば、「金」というテクノロジーの効率が悪いと考えるべきだろう。

金とは、その運用に膨大な資源を浪費する。人間が金を印刷し、勘定し、やり取りする労力と資源があれば、おそらくサクラダファミリアを年間で1万棟建てても余りあるだろう。それだけのコストをかけて、人類社会は金から十分な成果を引き出しているだろうか?

金が目的とする成果とは、人類社会の労働力と資源を効率的に組織化することである。先述の通り、金はさほど人類社会を効率的に組織化するわけではない。

むしろ金ではない方法で組織化した方が、効率的なような気がしてならない。それは相互扶助とか、助け合いとか、贈与とか、そういった組織化テクノロジーである。

これらのテクノロジーは忘れ去られてはいないものの、経済という分野では表舞台に立つことはない。とは言え、かつての人類社会では、それが主流の人間の組織化方法だった時代があっただろう。つまり、事実上のロストテクノロジーである。

僕たちの社会は効率的なテクノロジーに見向きもせず、相変わらず非効率なテクノロジーに固執している。化学肥料やグローバルサプライチェーンや金だ。

レガシーシステムとさっさと決別して、効率的なロストテクノロジーを活用するべきだろう。

残念ながら、肥溜めや針仕事を推奨するような言説は「いやぁめんどくさいし」という反応を持って迎え入れられることが大半だ。テクノフォビアたちは「いやぁFAXの方が印刷せずに済むし便利やん?」などと、すぐに言い訳をするのが特徴である。

テクノフォビアたちよ。非効率なやり方は捨てよう。効率的なやり方でやり直そう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!