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労働の喜びはなぜ貴重なのか?

労働に関する批判を繰り返していると、稀に出会う反論が1つある。それは「労働には、労働を通じて人の役に立つ喜びを実感できるという魅力がある」というタイプの労働擁護論である。

僕は労働の中に喜びが存在することを認めるにやぶさかではない。実際、僕自身も労働の中で「あ、今人の役に立ったなぁ」と喜びを感じたことは何度もある。

ただ、このこと自体に疑問を投げかけなければならないのだ。なぜ、「人の役に立つ喜び」が、あたかも労働の狭間で稀に与えられる貴重なご褒美であるかのように、あるいは長く精神的なトレーニングを積んだあとでしか気づけないマニア向けの魅力であるかのように扱われるのか?という点である。

人の役に立つことが喜ばしいことは、「ご飯を食べればお腹が膨らむ」と同じくらい当たり前のことであり、3歳児でも知っている。そして、労働とはそもそも人の役に立つ営みであるとされている

ならば、労働者は誰しもが当たり前のように、労働を「人の役に立つことができる喜ばしい営み」と解釈しているはずではないだろうか?

しかし実際はそうなっていないケースが大半であり、殊更に「労働には、労働を通じて人の役に立つ喜びを実感できるという魅力がある」などと強調すべきだと人が感じるということは、もはや労働において「人の役に立つ」という側面の大半が失われているとは考えられないだろうか?

なるほど、現代の労働は分業が進んでいることで、エンドユーザーの顔が見えづらく、役に立っているにもかかわらずそのことを実感しづらいという側面もあるだろう。

であるならば、行き過ぎた分業とは非効率だと言わなければならない。なぜなら、本来感じられるはずの「人の役に立つ喜び」がそれにより薄まってしまうからである。それはさながら醤油を水で薄めて「大量生産しました!」と言っているようなものだろう。

そしてもちろんブルシットジョブの蔓延も、無理矢理に現代アートを褒めるような労働擁護論を勢いづける要因となっているはずだ。ブルシットジョブとはその定義上、人の役に立つ喜びを実感することはありえない(ブルシットジョブとは無意味だと本人が感じる仕事という定義だからである)。

何はともあれ、労働を擁護しなければならないという事実が、労働を全面的に肯定できない決定的な証拠であるように思われる。アンチワーク哲学は人は貢献欲を待つ生き物であると主張する。労働では貢献欲が満たされることなく、さながら水で薄たキャベツスープで食欲を満たさなければならないな状況にある。ならば、貢献欲がそのままに活かされるような経済システムを考案すべきことは明らかだろう。

その新世界では、誰かが誰かの役に立つとき、労働ではない形で行われる。それこそが労働なき世界である。

やはり労働を誉めている場合ではない。すべては許されるが、労働だけが罪である。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!