見出し画像

整理整頓されていれば、掃除は既に終わっている

僕は綺麗好きだ。でも、掃除はそこまで好きではない。「綺麗好き」と、「掃除好き」は微妙に意味が違う。

掃除好きとは汚れを取り除くプロセスが好きな人であり、綺麗好きとは部屋が秩序だっている状態が好きな人を指す。

例えば、床におもちゃが散乱していて、それらを片付ける玩具箱が存在しないか、あるいは溢れかえっている場合。とりあえず一度おもちゃをどこかへ移動させてから、床に掃除機をかけて、再びおもちゃを元の場所なり、その他、なんらかの仮住まいへと移動させる。このプロセスは掃除好きの人なら楽しめるかもしれないが、綺麗好きからすればストレスでしかない。

仮に、おもちゃが仮住まいではなく、固定した居場所を持っていて、常にそこに収まっている場合、僕はさっと掃除機をかけるだけで掃除を終えられる。わざわざおもちゃをどこに移動させようかと迷う必要もない。綺麗好きとは、このような状態が好きな人のことを指す。

綺麗好きその定義上、あらゆる物の配置を事前に決定したがる。もちろん、日常的にそこから取り出したり、そこにしまったりするプロセスが、その配置によって阻害されるならば本末転倒と言える。取り出しやすく、しまいやすい配置を事前に決定することも綺麗好きにとって欠かせない。

綺麗好きでない人は、住所不定の物を「とりあえず」でその辺に放置したりする。そして、どこに置いたかわからなくなったり、ろくに使わない物がそこら中に散らばって埃が溜まったり、悲惨な事態に陥る。これは綺麗好きからすればストレスでしかない。

日常的のオペレーションを鑑みながら、秩序立てて配置を決める。これが全てだ。さっと掃除機をかけるだけで済む状態であれば、いつでも掃除機をかけるための物理的な準備と、心の準備が整っていることになる。掃除を始める前から、ほとんど掃除が終わっていると言ってもいい。

整理整頓されている家が、汚く汚れていることはほとんどあり得ない。しかし、綺麗に掃除されているけれど、配置が秩序だっていない家はまだあり得る。故に、整理整頓こそが全てだ。

さて、整理整頓にとって最大の障壁は、無頓着な同居人ではない。子どもである。子どもは好き放題に散らかすエントロピーの権化であるとか、そういうことだけを意味するのではない(もちろん、それはそうなのだけれど)。大人が必要とする物はそうそう変わらないが、子どもは成長するにつれて、必要とする服も、食器も、おもちゃも、日々変化していく。衣装棚やおもちゃ箱を用意したと思ったら、新しい買い物ですぐにそれらがいっぱいになる。同時にこの前買ったばかりの服が着られなくなり押し入れにしまわなければならなくなる(押入れのスペースも用意しなければならなくなる)。結果、物が無秩序にそこら中に放置される事態は、子育てをしたことのある人なら誰しも経験があるだろう。綺麗好きは、子育てに向かない。

それでも綺麗好きは、負のエントロピーを生産する。子どもが増大させるエントロピーと、綺麗好きが生産する負のエントロピー。その動的平衡状態で綱引きをすることになるのだ。

僕は日々そのような闘争を繰り広げ、ピリピリしながら生きている。妻にはよく嫌がられる。妻は買い物してきた荷物を玄関に放置するのだが、僕はそれを即座に包装を解き、プラスチックや紙などのゴミはきっちり分別した後に、「これ、どこに置いといたらいい?」と嫌味ったらしく聞く。「片付けるから置いといて!」と言われて、僕は渋々引き下がる。その日の夕方になっても、夜になっても、まだそこに荷物が置いてあるのを見てフラストレーションを蓄積する。

僕が綺麗好きになったのは、ルンバを導入してからだ。今はもうスクラップ同然なのだけれど、昔、1ルームの賃貸に一人暮らしをしていたときルンバを使っていた。

ここまでの議論を読んできた人ならば気づいていると思うが、僕はルンバを掃除の道具として買ったのではない。エントロピーを食べるペットとして使用していた。ルンバは整理整頓されている部屋でしか機能しない。整理整頓して部屋を走らせることは、ルンバに餌をやるようなものだ。

ルンバと暮らしていると、整理整頓の癖がつく。もちろん、適切にエントロピーを食べさせないと、ルンバはスクラップになる。子供と暮らす今は、ルンバに食べさせるだけのエントロピーが用意できない。ごめんよ、ルンバ。

それでも、そこそこの秩序は保っている。これから2人目が生まれるが、僕は動的平衡を保てるだろうか。わからないが、僕は戦い続ける。これからも。

※ちなみに僕は文系なのでエントロピーとか動的平衡とかいう言葉を適当に使っている。アラン・ソーカルみたいなツッコミはご遠慮ください。

#清潔のマイルール

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!