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『葬送のフリーレン』と、僕たちの永遠

『葬送のフリーレン』ほど考察したくなる物語も珍しい。誰しもが馴染みのある金太郎飴のような剣と魔法の世界を舞台にしつつ、明らかに現代社会に対するメタファーを含んでいそうなストーリーが展開されているからだ。

最近は僕のフォロワー、フォロイーたちも、葬送のフリーレンを考察し始めた。僕も便乗して、この物語を僕なりに分析してみよう。

真っ先に思いつく問いは、「フリーレンとは誰なのか?」だ。

人間と比べて永遠に思えるような寿命を待ち、周りの人々と時間の捉え方が全く異なる彼女に対する違和感は、物語のところどころで表現される。

彼女にとって魔王を倒すという大義は、人生の1局面に過ぎなかった。パーティの他の面々が大義に対する喪失感を抱いていたのに対し、フリーレンはマイペースに魔法の収集を始めた。そして、たった1つの魔法のために何ヶ月も、何年も平気で費やした。

彼女の感覚はどうやら、現代の僕たちとは異なりそうだ。僕たちはそんな風に時間を無駄遣いすることを恐れている。

現代人を象徴するのは、むしろフリーレンの付き人であるフェルンの方だろう。フェルンは永遠の寄り道をしているように見えるフリーレンに対していつも苛立ちを覚えている。もっと別のことをすべきではないか? もっと効率的に時間を使うべきではないか?と。

しかし、疑問に思った人も多いのではないだろうか? フェルンは特に目的や大義を持った人物ではなく、単に「生き延びること」だけを追求している人物だ。ならば、効率もクソもないはずだろう。別に何年も時間を無駄にしようがそれで死ぬことがないのであれば、別に構わないはずだ。それでもなお、彼女はなんらかの効率なるものを追求しようとする。これは、現代人の姿を的確に表現しているように見える。

僕たちが生きる時代は、大義を失った時代である。神さま仏さま。大東亜共栄圏。所得倍増。ジャパンアズナンバーワンな時代は過ぎ去り、かと言ってSDGsなどという大義には誰も見向きもせず、止まることのない倦怠感の流れに身を委ねている。

にもかかわらず、僕たちは効率なるものを追求せずにはいられない。映画は倍速で視聴され、本の要約サイトが流行り、家事には時短ばかりが追い求められる。効率依存症とでも呼べるような時代の病である。

それでは、もし僕たちが効率を追求しなかったとすればどうなるのか? 恐らく僕たちの人生はフリーレンのよう人生になるだろう。目の前にある魔法の収集のために時間を湯水のごとく浪費して、そのことを歯牙にも掛けない。そもそも時間を浪費しているだなんて感じない。そんな人生だ。

そう考えれば、フリーレンの時間感覚は、なにもエルフの専売特許ではないことがわかる。1000年生きようが、100年生きようが、僕たちの日常感覚からすればほとんど永遠みたいなものだろう。効率に縛られないのであれば、僕たちの人生は永遠なのだ。

しかし僕たちは日々、時間に追われている。効率の悪魔が追い立ててくるからだ。時間を無駄にしているのではないか? もっと効率のいいやり方があるのではないか?と。

実際のところこのやり方は幸福を目的としたときには極めて効率が悪い。古今東西の哲学者や詩人が言うように、「いま」を生きる姿勢が幸福に生きるための秘訣なのだ。

恐らく僕たちはフリーレンのように生きた方がいいのだろう。フリーレンが「すべての魔法の収集」ではなく「魔法の収集」を掲げていることは注目すべきことだと思う。「すべての魔法の収集」がフリーレンの目的だったなら、彼女の人生はもっとせせこましいものになったはずだ。

これはルフィがやたらとのんびりしていることとも似ている。ルフィは海賊王を目指しているが、彼にとっての海賊王とは「この海で一番自由なやつ」であり、ワンピースとは口実にすぎない。ワンピースを目的としているならばルフィはもっとせせこましく生きているはずだろう。

ルフィとフリーレン。この2人から学び取るべき教訓は、「大義など抱く必要はない」ではない。彼らはざっくりとした大義を抱いている。ルフィは「夢の果て」であり、フリーレンの場合は「人間を知る」だろう。

しかし、彼らにとってその大義は最短で目指すべきものではない。彼らにとっての財宝は日々の営みに熱中することであり、大義はそのための目印のようなものに過ぎない。何らかの目的を持たないと人は何も行動できないが故に、目的という口実は誰しもに必要なのだ。

そもそもフリーレンが目指す「人間を知る」も、これほど抽象的な目的はない。彼女は本当に、勇者ヒンメルを知らなかったのか? 10年近く一緒に旅をしたのに知らないということはあり得るのか? 知るとは何なのか? ヒンメルの葬式で涙を流さなかった理由は本当に「知らなかったから」なのか?

フリーレンがこのような問いに頭をもたげることはない。もたげる必要がないからだ。フリーレンにとってこの大義は、旅を続けるための口実に過ぎないのだから。きっと魔王を倒すという大義も、おそらく同じようなものだったのではないだろうか。大義とは、取っ替え引っ替えできるオープンワールドゲームの優先クエスト設定のようなものであり、フリーレンはそれに縛られることはない。さくって切り替えて次に行くのである。

まとめよう。フリーレンの時間感覚はエルフ特有のものではない。フリーレンがせせこましく効率に追い立てられる可能性もあったわけだし、人間であるフェルンが永遠を生きるようなライフスタイルを選択する可能性もあった。単に2人はその選択を取らなかったというだけの話である。逆に言えば僕たちもフレーレンになれるということだ。

フリーレンのライフスタイルを実現するには、大義への効率的なアプローチを追求するのではなく、取っ替え引っ替え可能な目的としての大義を設定して、それにとらわれることなく日常を生きることだ。そうすれば僕たちは永遠を生きられる。

永遠とは無限に続く退屈ではない。むしろ大義に向かう効率の方が退屈を伴う。大義の達成に至るまでの全てが下準備に格下げされるのだから。しかし、フリーレンの人生がドラマチックであるように、永遠とは全ての瞬間が本番である。

そういう人生を生きてみたい。人生を考え直すには、いい作品だと思う。

(まだ、アニメの2話までしかみてないけどね)

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!