教育の力ってすげー【アンチワーク哲学】
大人と赤ちゃんの最大の違いはなにか? それは欲望を保留する能力である。正確に言えば、より大きな欲望のために、目の前の欲望を保留する力である。
大人が眠りにつこうとするとき、布団の中で目を閉じてじっとする。目を開けたい気分になっても、手足をばたつかせたい気分になっても、転がりたい気分になっても、現れてきた欲望を押さえつけて、目を閉じてじっとするのだ。
これが意外と高等テクニックであることは、赤ちゃんを寝かしつけたことのある人なら誰もが知っている。「眠いなら、目を閉じてじっとしといたらええねん!」とキレたことのない親などいない。赤ちゃんはたとえ眠たい状況にあっても、ゴソゴソと動き回り、眠ることができない。そして、余計に眠たくなって機嫌が悪くなって泣く。しゃくり始めて、またさらに眠るのがむずかしくなる。「泣くから寝られへんねやろ!」とキレたことのない親などいない。
欲望の保留は、なかなか手に入れられるスキルではない。3歳の息子も、「幼稚園に行きたいけど、YouTubeを観続けたい」という状況にうまく対処できない。いまYouTubeをやめなければ幼稚園を休むハメになる。そんなことは理解していてもYouTubeを観たいという欲望を抑えられない。
あるいは、食事においても同様だ。コップにお茶を注ぎたいとき、大人なら注ぎやすい位置にコップを移動させてからお茶を注ぐ(お茶を注ぎたいという欲望を保留して、コップを移動させるというやりたくもない行為を優先する)。しかし、子どもならばコップを移動させることなく強引にお茶を注ぎ盛大にこぼす。
そして、食事を残してまたYouTubeを観ようとする。母親は「食べ終わってから観なさい」と言いYouTubeを消そうとする。嫌だ嫌だとやり取りをする。大人なら、そのうちに食べてしまった方が結果的に早くYouTubeを観れることを理解するが、子どもにはその判断はできない。
こういう欲望の抑制を徹底的に叩き込まれるのは学校だろう。机に齧り付くことなく、はしゃぎ回りたい。列から飛び出して、遊びに行きたい。宿題なんてやめてゲームしたい。指定の制服を脱ぎ捨てて、金髪に染めたい。置き勉したい。1限目はサボってゲーセンに行きたい。そんな欲望を抑えられなかった子どもは先生からこっぴどく叱られる。叱られ、叱られ、叱られたくないという欲望を優先するために、「やりたい」を抑制して大人の言う通りに生きることを覚える。
彼は気づく。金を駆使してやる「やりたい」くらいしかこの社会では認められていないと。そして、ならば金を求めなければならないこと。金とは支配者と非支配者を分断するだけではなく、欲望を分断し、金で買わない欲望を見えなくする装置である。こうして、金を盲信しながらスーツを着て満員電車に揺られるサラリーマンの完成である。
欲望の赴くままに生きるエネルギッシュな子どもは、欲望を抑えて抑えてつまらなさそうにデスクに齧り付くサラリーマンに生まれ変わる。この変貌は驚くべきものだろう。欲望を金や、金で買う食事や娯楽、セックスに矮小化させ、他のあらゆる欲望を我慢させられ、その状況を「自分の欲望に従っている」と信じ込まされてさえいるのだ。その結果、金などという非効率極まりないシステムを、全身がまともに動かず助けてもらわなければ生きていけないくせしてネチネチと文句を言い続ける金というシステムを、僕たちは朝から晩まで介護している。
人間は他の動物に比べて一人前になるまでの期間が長い。そのせいで、人間は極端に大人に対して従順になると、アーサー・ケストラーは指摘した。裏を返せば、どんな風にでも子どもを矯正することは可能であるということではないだろうか?
金がなければ、大変なことになると人は言う。そんなことはない。金などというシステムに奉仕させられるほどに人間は強引な矯正を施されてきて、それに成功しているのだ。好きに食って、好きに寝て、好きに他人に貢献して、好きに他人を大切にする。自分と他人の欲望と欲望が衝突するときに話し合う。たったこれだけのことができれば金を捨てられる。金を運用するために行われる教育に比べて、どれだけ手間がかからないだろうか。
金がないと社会が成立しないほどに人が利己的なのではない。金があっても社会が成立してしまうほどに人が利他的なのだ。
金などはさっさと姥捨山に捨てたほうが人間は自由になれる。みんなで自由になりたいよ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!