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子どもを産むことはエゴなのか?【アンチワーク哲学】

子どもを産むことはエゴなのか、そうでないのか? という話があった。子どもがその後の人生で幸福になれるとは限らないのだから、それを産み落としてしまうことは、不幸の源泉なのではないか? という、反出生主義的な発想である。

そもそもこの問い自体が「エゴに起因しない行動が存在すること」を前提としていて、かつそれを理想化しているように思える。要するにエゴ無添加の純度100パーセントの利他的行動は可能であり、そうすべき(あるいは、エゴ無添加でないなら、やるべきではない)という感覚である。

当たり前だが、純度100パーセントの動機など存在し得ない。動機は常に絡まり合い、一つだけに限定されることはない。あるとすれば「こうあるべき」とか「こうに違いない」といった思い込みだけである。

利己的行為と利他的行為を厳然と切り分ける思考様式は、おそらく国家という名の強制装置の誕生と同時に生まれたと考えられる。国家とはやりたくないことをやらせる強制力である。強制とは、元々やりたくなかったことをやらせるだけではなく、もともとやりたかったことを「やりたくない」と思わせる効果を持つ(「ゲームをすることを強要されれば子どもがゲームを嫌いになるであろうことを考えればいい」)。

つまり、誰かのために食事をつくるような利他的行為を強制され続けることによって、人は利他的行為を「本来やりたくないこと」と解釈してしまったのだ(そしてその後、利己と利他を厳然と切り分ける貨幣の登場によって、確固たる常識として人々の中に根付いていったのだろう)。

それまではおそらく、利己的行為と、利他的行為は一致していた。誰かに食事を振る舞うことはそれ自体が利他的行為でもあるし、自らの貢献欲の追求でもあった。本来、貢献することは、セックスすることと同じように、ありふれた欲望の対象なのである。しかし、国家による強制が行われることによって、貢献は「歯を食いしばってやる苦行」あるいは「修行を積んだ聖人君子によって行われる奇跡」として解釈させられることとなった。同時に、その当然の帰結として、ただ寝そべって貢献を受け取ることだけが、人間の本来の欲望であるというプロパガンダが普及してしまった。

ここで一つの疑問が生じる。「なぜ、食事を食べることを強制する営みが、国家を形成しなかったのか?」である。つまり「俺がとってきた肉が食えねぇってのか?」と人々に高圧的に肉を食わせようとする男が国家を生み出し、金を発行し、「肉を食うこと」の対価に金を払い、あとから税として回収することによって「肉を食うこと」を強制する国家が誕生しなかったのか?という疑問である。

おそらく「スケールしないから」がその答えだろう。一人の男が狩ってこれる肉の量は限られている。おそらく暴力を背景に「俺がとってきた肉が食えねぇってのか?」と高圧的に振る舞う男はずっと存在していただろうが「またなんか食わされるよ・・・」で済んだはずだ。きっと彼はたまにやってくる通り雨くらいの存在だったに違いない。それは「肉を食うことは本質的に苦痛である」という価値観を形成するほどの強烈で永続的な強制にはなり得なかったのだ。

一方で、一人の男が他者を強制し、貢献行動をとらせることは、理論上は人口全体までスケールさせることができる。「運河をつくろう」とか「ピラミッドをつくろう」といった野心を暴力を背景に押し付けられたなら、それは人口全体に強烈で永続的な強制を強いることになる。結果、利己的行為と利他的行為を分離する集団的な価値観が生じたのだろう。そして、「利他的行動をとるにはせめてその対価として金を受け取らないなら、そんなことはしたくない」という交換の原理が、人間の基本的な思考様式であるという誤認が生じた(経済は物々交換からスタートしたという妄想が、違和感なく人々に受け入れられるのは、そのプロパガンダが成功しているからである)。

さて子育ての話に戻ろう。

子育てとは、無条件の利他的行動を要求する。なぜなら、子どもに貢献した分、対価を引き出すことなどどう考えても不可能だからだ。これは国家が展開してきたプロパガンダとは矛盾する。そこで家族や血縁といったフィクションが利他的行動を正当化しようとした。つまり、社会は次のように説明するのだ。「あなたが利他的行動を起こすのは、それは血縁があるからですよ。本来あなたは利己的で怠惰な人間ですが、血縁関係者だから利他的に振る舞っているだけなのですよ」と。そうすることで、利他的貢献は家庭内に閉じ込められた。そして、子どもへの利他的貢献が、本来やりたくない苦行として想像されるようになった。

そろそろ発想を転換してみよう。完全に利他的な行為など存在しないという意味では、あらゆる行為はエゴである。しかし、彼のエゴの対象は「子どもの幸福」「周囲の人々の幸福」だったりするわけだ。そして、周りの大人たちにとっても同様である。人は他者への貢献を欲望する。

しかし、家庭や血縁は、他人による子どもへのアクセスを制限することで、「子どもに貢献したい」という欲望(あるいはエゴ)を制限している。その結果、母親はノイローゼ気味に子育てをすることになるのだ。

となると、必要なのはエゴの抑制ではない。エゴの解放である。

大人たちがエゴを最大限に開放したときに、子どもが不幸になることは考えづらい。なぜなら、子どもの幸福こそが、大人のエゴの対象だからである。

とはいえ、何歳になっても包丁も握らせず、服を着替えさせ、おもちゃの山で圧倒することこそが幸福であると解釈するおばあちゃんが一定数存在することも明らかである。子どもは膨大な世話を必要とし、最低限の世話を享受できないことは不幸であるが、一方ですべてを世話されることも不幸である。「あんたはじっと座っておもちゃで遊んどき」と子ども部屋に閉じ込められることは幸福とはとても呼べない。

これは、「貢献=利他=不幸」という価値観によって誤って定義されている幸福であると言える。しかし、実際のところそのおばあちゃんは、貢献という名の自己犠牲を心の底から欲望する境地に至っていて、快楽物質がドバドバでていることだろう。彼女も若かりし頃は家庭に閉じ込められることを不幸だと感じていたのかもしれないが、その生活を続けることにより、貢献を自発的な意志による行為であると解釈するに至った。そして、それを欲望するようになったわけだ。しかし、彼女が感じている感情が幸福であると、彼女には理解できない。彼女にとって貢献とは常に不幸であり、自己犠牲でなければならないのである(そうでなければ彼女の幸福は正当化されないのだ。不幸であることが、彼女の幸福に不可欠なのである)。なら、彼女の孫には貢献を受け取る側として幸福を享受させようとするのは、当然の心理だろう。

しかし、人間の幸福とは貢献を受け取り続けることではなく、自己決定にある。自己決定により行為することが、貢献だろうが、そうでなかろうが、たいした違いはない。自己決定の度合いにこそ、フォーカスすべきなのだ。

それでは子どもが「包丁を握りたい」と言ったときに、おばあちゃんはどうするだろうか? 自己決定こそが幸福であると理解しないおばあちゃんAは「あなたは気にせずおもちゃで遊んでおけばいいのよ・・・料理なんて私がやるから気にしないで」と言うだろう。しかし自己決定こそが幸福であると理解するおばあちゃんBの方は子どもがつたない手つきで包丁を握るのにじっくり付き合って、指を切ったら絆創膏を貼り、夕飯の準備を遅らせるだろう。彼女はもどかしさを感じるだろうが、それでも子どもが「やりたい」と願うことをサポートし、彼が自分ひとりでなにかを成し遂げる喜びを感じるための能力の獲得にとことん付き合うだろう。

おばあちゃんAもBもどちらも「子どもの幸福」というエゴを追求しているだけである。しかしAは幸福を見誤っている。つまり、必要なのはエゴの解放だけではない。エゴを再定義し、解放することである。

おばあちゃんだけではなく、子どもの幸福に貢献したいと願う大人たちも、エゴを再定義し、解放すれば、子どもが不幸になることはあり得ないだろう。

エゴのままに生きられる社会なら、子どもを産むことがエゴなのかどうか?といった疑問を考える必要すらなかった。すべてがエゴであり、それで人々は幸福なのだから。アンチワーク哲学が目指すのは、そのような社会であり、そのような価値観の転換である。おそらく、ここに書いた文章は人口の99%にとっては意味不明だろう。それでも僕は価値観の転換を進めてみたいのである。それこそが、僕が自己決定した目的なのだから。

※もう少しわかりやすく書いたのが『14歳からのアンチワーク哲学』だから買ってね。


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