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労働や市場、金がなくなっても缶コーヒーをつくる人はいるのか?【アンチワーク哲学】

労働が撲滅されたとき。またはベーシックインカムによって万人が金のために労働する必要がなくなったとき。あるいはお金や市場というシステムがこの世界から一掃されたとき。それでもなお人々が欲望する缶コーヒーや、プレイステーション、ディズニーランド、太陽光発電パネル、SUVを自発的に製造する人が依然として存在するか?という問題がある。

そのためアンチワーク哲学は最終的に次のような疑問と向き合わざるを得ない。「強制をなくすだとか、ベーシックインカムだとか、貢献欲だとか、言いたいことはわかるけどさぁ・・・本当に労働なき世界なんて成立するの?」といった疑問である。

この時点でアンチワーク哲学は一定の成果を達成していると言える。僕が「どうすればウサインボルトより速く走れるか」について考えたことが一度もないように、相手はいままで労働なき世界の可能性について一度たりとも思考を巡らせたことのない人間である。彼に少なくとも可能性について思考してもらうことに成功しているのだ。アンチワーク哲学の「哲学」としての役割はここで完了していると言える。ただし「思想」としての側面から言えば、まだ仕事は残っている。「いけるやろ、知らんけど」をできる限り、説得力のある形で伝えることこそが、思想の使命なのだ。

では、どのように説明すればいいのか? まず、そもそも現代社会が人々に衣食住を行き渡らせるだけの生産を保証しているわけではないことを指摘しなければならないだろう。すでにこの社会の生産活動は自発的な貢献に大部分が依存している

たとえば農家の平均年齢はとっくに年金受給年齢を超えているし、時給換算で100円台とか、あるいはやればやるほど赤字の農家も少なくない。もし「なんらかの強制力で生産力を保証しなければならない」と心配するのであれば、「農家に拳銃を突きつけて農業を辞めないように仕向けなければ日本の農業が崩壊する」という意見を持っていなければ筋が通らないのである。しかし、そんなことをしなくても、農家は「ただやりたいから」とか「習慣化していて他にやることがないから」とか「先祖やご近所さんの目があるから」といった理由で農業を続けている。すでに社会は人間の自発的な貢献に依存しているのだ。

それなのにあたかも僕たちは、「市場や金という強制力によって、本来は怠けものである人間の尻を叩くことでこの社会は成立している」という妄想を抱き続けている。そしてみんなそれに調子を合わせている。こういう営みは一般的に、ごっこ遊びと呼ばれる。

人間は市場という茶番に付き合うくらいに優しすぎるのである。金や市場がなければ社会が成り立たないほど人が利己的なのではない。金や市場という非効率なシステムのもとであったとしても社会が成り立つほどに人は利他的なのだ。

とはいえ、農家の総数は減少を続けている。それもそのはずである。金儲けするために農業を始めるようなバカはいない。市場で金を効率的に追おうとするなら、金融や保険、人材、広告といった合法的ピンハネ業に向かうのが効率的なのだ。実際人々が肩書きを求めて大学に殺到しホワイトカラーに就く権利を競い合い、エッセンシャルワーカーが枯渇して疲弊してブラック化していっているのが現状である。市場において人がエッセンシャルワークにつく金銭的インセンティブはほとんどないのだ。

広告やコンサル、金融といった企業は少なければ少ないほどいい。このことに疑いようはないが、残念ながらいずれの業界も業績絶好調で右肩上がりなのだ。一方でエッセンシャルワーカーはどんどん人手不足が進み、倒産が進んでいる。当然であろう。ピンハネしている方が、効率的に金を稼げるのは当たり前である。

そして、かわいそうなことにピンハネをする権利を奪い合う労働はどんどん過激化していて、搾取している側のホワイトカラー労働者は自分が搾取している側の人間だなんて夢にも思わない状況になっている。むしろ彼らは自分たちが搾取されていると思っているのである。たしかに彼らは搾取されている。その結果、終電を超えるまで働き、深夜のコンビニ飯を食い、家事代行業者を呼び、精神科に通い詰めなければならなくなった。その結果、無意味な労働のために、余計にエッセンシャルワークが必要とされるのだ。

いい加減、逆に考えるべきではないのか? いまの市場や金というシステムをそのままにしておいて、人々に衣食住を提供し続けられるという保証がどこにあるのか?

僕は現状の社会をそのまま続けていく方にこそ、現実味を感じない。労働を撲滅し、金や市場を撲滅することこそが、人類が好むと好まざるにかかわらず必然的に向かわざるを得ない方向ではないか。

金のない世界ではホワイトカラー労働者の大半は不要になる。もちろん広告やコンサル、金融、営業は必要ない。ついでに言えば、レジ打ちも、貸借対照表も、税金も、株式市場も、為替市場も、クレジットカードも、電子マネーも、ATMも、銀行も、住宅ローンも、何一つ必要なくなるのである。

地球規模で考えてみて欲しい。どれだけの資源と労働力の節約になるだろうか? 自分自身の人生で考えてみてもいい。財布を持ち歩いたり、レジに並んだり、請求書を書いたり、クレジットカードの明細を確認したり、会計システムをSIerに発注したり、家計簿をつけたり、確定申告をしたり、貯金残高やS&P500の相場を見てヤキモキしたり、四季報をチェックしたり、ビジネス芸人の動画や本をチェックしたり、そんなことをする必要がまったくなくなるのだ。いったいどれだけの創造力とエネルギーが世界に解き放たれるだろうか?

すべてが無料で、なにをしてもいいのだ。いったいなにをするだろうか?

なんでもできる。そんな気がしてくる。ちょっとやそっと怠ける奴がいたところで、なにか問題があるだろうか? どうせ無意味なことをずっとやってきたのだ。しかも楽しくない無意味なことをやっているのである。だったら家でボケっとアマプラでも見てもらった方がマシなのだ。

なるほど、自発的な貢献を受け取れる人と、受け取れない人の差は生まれるだろう。だが、それは市場と金のある社会でも生まれているわけで、いま以上に大きくなるとは考えづらい。たとえばホームレスに炊き出しをするボランティアスタッフは「うーん・・・お前の顔キモいから渡さない」とか言わないのである。ちょっとやそっと不細工であろうが、マナーが悪かろうが、貰えるのである。だが、金がなければ飲食店で飯は食えない。

金を空気のように当たり前に感じて育ってきた僕たちは、「金のない社会」にはついついセンメルヴェイス反射をしてしまう。だが、おそらくこれはセンメルヴェイス反射なのである。冷静に考えれば、お金はコスパが悪すぎる。市場は燃費が悪すぎる。

どのみち保証はないのなら、信頼すればいいのである。人間は信頼すれば信頼するに値する振る舞いをとるようになることは心理学の世界では常識だ。金あるいは他者からの強制が人のモチベーションを下げることも心理学の世界では常識だ。こうした知見はマネジメント理論の中にもとっくの昔から活用されている。そろそろ社会全体に活用してみればいい。すなわち、人々を労働から解放し、金と市場を撲滅するのだ。

どのみち僕たちはいまの社会において無条件で人を信頼して生きている。性悪説を唱えるのも馬鹿らしくなるくらいに、僕たちは見ず知らずの他人を信頼しなければ生きていけない。僕は農家が一斉にボイコットする可能性についてチラリとも考えたことはない。あるいは、コンビニのおにぎりに鼻くそが入っている可能性や、バスの運転手が自殺願望を抱いている可能性、後ろを走る大型トラックの運転手が居眠りしている可能性、駅のホームで後ろの客に突き落とされる可能性を考慮せずに生きている。よくよく考えれば、人が怠惰で悪なのであれば、こうした事態が起こらない方が不思議なのである。

僕がいいたいことは、やはり「いけるやろ、知らんけど」である。なぜなら、いまの社会がいけてるのである。こんなに非効率でもいけてるのだ。自由を与えられて、いけないとはどうしても思えない。

最後に考えてみて欲しい。すべてが無料で、なにをしてもいい社会で、あなたはなにをするだろうか?

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!