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手段を目的化し、労働を撲滅しよう【アンチワーク哲学】

四歳の息子は、僕が洗濯物をたたんでいたら「やりたい」と言って手伝おうとする。正直、さっさと終わらせたいのに余計な手間を増やすなと思ってしまうのだけれど、息子の気持ちをつぶしたくない想いで、やらせてやる。彼は頑固者で、僕がやり方を教えても自分のやり方を曲げようとしない。そのため、彼が失敗に気づくまで辛抱強く見守ることしか、僕にはできない。そして、たいていの場合、気づかないまま飽きる。そしてほったらかしにされた洗濯物をまた僕がたたみ直すことになる。

洗濯物はすぐに飽きがちであるが、料理は比較的モチベーションが持続しやすい。胡瓜のたたきをつくったり、ホットケーキをつくったり、サンドイッチをつくったり、さまざまな料理を「つくりたい!」と言って一緒にやっているうちに、だんだん彼はスキルアップしてきて、ほったらかしでもある程度まで任せられるようになってきた。

大人になるまでの間、彼は無数の行為に飽き、無数の行為を諦めるだろう。同時に、無数の行為に夢中になり、無数のスキルを身に付けていく。ペットボトルの開け方。ズボンを汚さない小便のやり方。熱々のスープの飲み方。靴下の脱ぎ方。鍵の閉め方。ジャムの塗り方。乗り越し精算のやり方。自転車の空気の入れ方。

労働とは、こうした無数のスキルが習得されていることが前提されている。「ゴミ箱の蓋ってどうやって開けるんですか?」とか「ホッチキスってどうやって使うんですか?」と聞いてくる新人が使い物にならないのは明らかだ。

これがAIによる技術的失業に、僕が懐疑的な理由である。AIで労働を代替しようとするなら、こうしたスキルをいちいち習得していかなければならない。もちろん、人間とまったく同じようにやらせる必要はないとはいえ、人間がやっていたことを丸々代替するなら、こうした行為の大多数はAIに学ばせなければならないだろう。

それに、もう一つ考えるべきことがある。「そうする必要があるのか?」である。

ボタンを押せばホットケーキが自動で出てくる機械があったとしよう。それを使うことと、自分の手でホットケーキをつくることの、どちらが大きな喜びをもたらすだろうか? 明らかに後者である。

もし僕がFAXに固執するテクノフォビアであるかのように見えるなら、こう考えてみてほしい。「ラーメンを一秒で食べられるスーツを開発する必要があるだろうか?」「登山家に自動山登りロボットを与える必要があるだろうか?」と。

行為そのものが目的であるとき、あるいは行為そのものに喜びが存在するとき、それを効率化する必要はない。ホットケーキを焼く行為は、ホットケーキそのものが目的でありながら、ホットケーキを焼くことも目的と化す。むしろ息子は自分でつくったホットケーキを食べることなく、ほったらかしでYouTubeを見始めたりする。彼にとってホットケーキそのものは目的ではなく、ホットケーキを焼くことが目的なのだ。

人間はあらゆる手段を目的化することができる。手段の目的化とは、ネガティブな文脈で使われることの多い言葉だが、僕はそうは思わない。手段が目的化しているということは、手段が楽しくなっているということだ。楽しいならいいではないか?

必要以上に雑草を抜く農家。毎日窓の外まで拭き掃除する主婦。たたみ終わったタオルをもう一度ぐちゃぐちゃにしてからたたみ直す僕の息子。スーパーで買った方が安いのに、わざわざイチゴ狩りに行く僕たち。

もちろん、白物家電や自動車が生み出された動機は、手段を手段のまま、効率化するためだっただろう。これは確かに人類の発展に寄与した。だが、きっと技術者たちが開発に向き合っていたときは、その目的を忘れて、開発そのものが目的になっていたはずだ。

効率化とは、効率化のプロセスそのものが目的となっていることが大半であり、効率化が目的であることは少ない。テレビゲームでタイムアタックをやる人は後を絶たないが、そもそもそんなことをやる必要はないのである。彼らがそれを辞めないのは、効率化そのものが楽しくなっているからである。コスパやタイパも同様である。コスパやタイパを追求する過程は楽しい。だから人は夢中になるのだ。決してコスパやタイパそのものを求めているわけではないのである。

しかしながら、労働は手段の目的化を妨げる。他者より強制される不愉快な営みとしての労働を目的化することはむずかしい(いや、可能ではある。裁量を持ち、自らの能力の発露であると感じられ、果たされる目的が重要なものであると感じられるなら、労働は労働ではなくなり、それ自体が目的化していくことはあり得る。ITによる効率化を阻む多いのは、彼らが紙の伝票を書くことを目的化しているからである。おそらく日本人は比較的手段の目的化が得意な民族であり、それが日本がITガラパゴス化する原因の一つだろう)。

労働が労働のままなら、効率化するしかない。なぜならそれはやりたくないからだ。しかし先述の通り、労働を完全に代替することはむずかしい。つまり、効率化とはまったくもって非効率なのである。

なら、真の効率化とは、労働を労働ではないものに変えることだろう。言い換えれば、労働を撲滅することである。息子がホットケーキを焼きたがる気持ちのままに、ホットケーキの焼き方を学んでもらう。そうすれば彼は息をするようにホットケーキを焼くようになるだろう。

人間にとって、目の前の問題を解決したいという欲望を抑えることはむずかしいし、貢献したいという欲望を抑えることもむずかしい。現代においては、労働が他者への貢献を抑圧しているわけだが、労働が撲滅された社会においては、人は自由に他者へ貢献し、問題を解決していくだろう。もちろん、その行為を目的化しながら、である。

こういう発想を受け入れるのはむずかしいだろう。でも、僕はこれが世界を変えるために必要な哲学であるように思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!