「マーケティングしない」というマーケティング

「エレクトロラックスという掃除機メーカーをご存知でしょうか?」
エディオンの掃除機売り場にて

エレクトロラックスの販売員に尋ねられたとき、僕はそのメーカーを知らなかった。

「知られていないこと」は普通、物を売る人の立場からすればハンデキャップでしかない。聞いたこともないようなメーカーの50円のコーラを買うよりも、100円してでもコカコーラを買うのが消費者というものだ。

しかし、エレクトロラックスの販売員は、「知らない」を逆手に取る方法を知っている。

「あ、やっぱりご存知ないですよね? ダイソンさんのようにマーケティングにほとんど費用をかけていないので知名度は低いのですが、その代わりに本当にいい製品作りにお金をかけていまして…」

この時点で販売員は、「無駄に広告費をかけて、性能の悪い製品を、さも高性能の製品かのように高く売りつけるダイソン」に対して「無駄な費用をかけずに製品の良さを追求しつつ、価格を抑えているエレクトロラックス」という対比構造を作り出している。

当たり前だが、広告費は価格に転嫁される。消費者は「価格」と「性能」のみを重視する…ということになっているので、本来、商品の性能を向上することがない広告費に費用をかけられることは望んでいない…ということになっている。

もちろん、これは嘘だ。同じ性能の2つの商品でも、消費者はCMでよく見る方を買うのが普通だし、ハイアールのロゴを見ながら暮らすよりも、SHARPのロゴを見ながら暮らした方が人は幸せになれる。化粧品や洗剤やレッドブルは価格のほとんどが広告費な訳だが、そんなことは誰も気にしない。

むしろ、レッドブルが50円で売られていれば、なんだかありがたみがなくなる。広告に対して200円という価格を払うからこそ、「なんか、効いてる気がするわぁ」とかという満足感が得られるのだ。

※レッドブルは「高いのに無料で配られるから、お得」なのではなく、「本来無料で配れるくらい安く作られているのに、普段バカみたいに高く売られている」が正しい理解である。

しかし消費者は、自分のことを合理的なホモ・エコノミクスだと信じている。不合理なプラシーボまみれの市場で、夢の世界を揺蕩っているなんて誰も考えていない。

だから、エレクトロラックスがいう「広告費ではなく、性能に金をかけている」という文句には、反応せざるを得ない。「合理的な自己」という自己イメージを獲得した消費者を狙い撃ちする、マーケティングしないというマーケティングだ。

エレクトロラックスの価格は、ダイソンより少し安いくらい。うまい値付けだ。ほとんど広告費で成り立っているダイソンが市場のハードルを上げてくれたので、そのちょっとしたのポジションを取れば「いいものなのに安い」という印象を獲得できる。

エレクトロラックス流のマーケティング手法は、最近よく見かける。似たような文句は「口コミだけで広がり…」みたいなやつだ。果たしてこれもどこまで信用すべきかはわからない。

この前、「広告費をかけずに口コミだけで広がり…」みたいな文句を見て仰天した。それがテレビCMで流れていたからだ。爆笑。

マーケティングというゲームは、相手を出し抜こうとみんなが試行錯誤し続けた結果、かなり洗練されている(それが人類にとっていいことかどうかは別として…というか悪いことだけれど)。

文化としては見ていて面白いのだけれど、その過熱ぶりで労働者が疲弊して、資源が浪費されているのだから、笑えない。ものを売るための営業努力のために、どれだけの人と自然が疲弊していることやら。作られた服の50%が捨てられ、作られた食料の50%が捨てられる(手に入れた蜜の50%を捨ててながら、過労死しているミツバチを見つけたらどう思うだろうか?)。それでも夢遊病のように人は物を作るから、曲芸みたいなマーケティングが求められる。

マーケティングなんて僕は嫌いだよ。本当に。マーケティングしないということも、マーケティングにしてしまうなら、僕は何を信じればいいのやら。

…とか言いながらエレクトロラックスの掃除機を買ってしまった半年前の僕。なかなかいい掃除機だよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!