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幸福とは、結果ではなく行為にある

人は幸福に満足することがなく、いつまでも幸福になれない。だから人は幸福など本当は求めていない」といった手垢のついた人生訓は、果たして正しいのだろうか?

僕にとって幸福とは結果ではなくプロセスにある。プロセスとは、要するに行為である。人は行為によって幸福を味わい、結果によって幸福を味わうわけではないと、僕は考える。

このことは、釣りを思い浮かべると理解しやすい。

釣り人は魚という結果だけを追い求めているわけではない。もしそうなら何時間も車を走らせることなく、近所の市場で買ってくればいいからである。つまり、釣り人は魚ではなく、釣りそのものを求めている。

そして、彼が釣りをしているとき、彼は釣りという行為に幸福を感じていることは間違いない。なぜなら、もしそうでないなら釣りをする必要がないからである。彼は釣りによって幸福になれると判断し、実際に釣りを行い幸福になる。

魚が釣れれば、より大きな幸福感があるだろう。だがそのとき彼は「魚を手に入れたという結果」によって幸福を味わうのではない。「魚を手に入れるという行為」によって幸福を味わうのだ。

ならば、彼の元に毎朝、獲れたての鮮魚をクール便で送りつけても、彼が幸福になれないことは明らかだ。

さて、魚をシャネルのバッグに置き換えてみると、チープな人生訓の正体がよくわかる。シャネルのバッグを渇望する女たちはみな「獲得」という行為を求めていて「所有」という状態を求めているのではない。takeを求めていて、haveを求めているわけではないのだ(あるいはシャネルのバッグを持って街をぶらつくという行為を求める。人はどこまでいっても行為を欲望するのだ)。

獲得は行為であるが、所有とは状態である。人は状態に満足することはない。そもそも所有とは、他者に使用させないという目に見えない約束によって成り立っている。そんな抽象的なものを欲望するのはむずかしい。

人は結果が幸福をもたらすと思い込んでいるが、実のところ幸福をもたらすのは行為である。それは要するに「人間はやりたいことをやってるのが一番いい」ということになる。逆に、やりたくないことをやっているなら不幸であり、どんな結果によっても、その不幸を覆すことはできない。

パスカルは、「人間は部屋でじっとしていられないから不幸になる」と言ったが、それは当たり前の話である。部屋でじっとなにもしないことは、そもそも不幸なのだ。行為にしか幸福が存在しないのだから。

つまり、幸福とは、結果ではなく行為にある。以上。

この教訓を胸に、幸福になりたまえ。人類よ。

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