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ギブ&テイクからギブ=テイクへ

ギブとテイクを分けて考えることは、もはや無理がある。子どもにお菓子を断られたらショックだし、老人に席を譲ろうとして断られたらほんのり傷つく。

僕は人の家に行って食事が提供されたときは、そんなに腹が減っていなくても、とりあえず完食する。少なくとも、ある程度は食べる。そうした方が相手が喜ぶことがわかっているからだ。

優しさを受け取ることは優しさの一種である。このとき、ギブしているのは食事を提供する側で、テイクしているのは僕なのだろうか?

恐らくその通りだ。しかし、同時に逆でもあるはずだ。僕は食事を受け取ることで相手を喜ばせているし、相手は食事を食べてくれた喜びを感じている。

つまりギブ&テイクではなく、ギブ=テイクなのだ。

これの現象は親しい間柄の人間や血縁関係のある間柄にしか起こらないと、一般的には想定されている。しかし、少し考えればそうでないことがわかる。今後一生会うことのない人に席を譲ったり、ライターを貸したり、道を教えたりして、満足感を味わったことは、一度や二度くらい誰にでもあるだろう。

自発的に行われたギブの場合、人は喜んでやる。

では、プレゼントを期待されていることがわかって憂鬱な気分になる倦怠感あふれるカップルや、内祝い選びに嫌気がさしている新妻はなぜ存在するのだろうか?

答えは明らかに義務感である。ギブが強制的な義務として想像されているとき、人は億劫になる。義務や強制は人を億劫にさせることは、誰しもが知っているはずだ。

このとき、人はギブ&テイクという発想に立ち返ることになる。「相手が何かくれたんだから返さなきゃなぁ‥」といった具合だ。そして自分が義務感から贈り物をしているというのに相手が返してこなかった場合、「あいつはけしからん!」となる。

しかし、自発的に贈り物をしているならば、相手が返してくれるかどうかなんていちいち気にしないのが普通だ。つまり、ギブとテイクに切り分けて等価交換の関係性を想像するのは、そこに義務や強制があるかどうかにかかっている。

ここで明らかな事実を伝えよう。義務と強制は楽しくない。どちら側にとっても楽しくない。しかし、義務と強制がないのなら、ギブは楽しい。もちろんテイクも嬉しい(ことの方が多い)。

ならば義務と強制を取り払う方が、みんなハッピーではないだろうか? そうすればギブ=テイクのユートピアが待っている。

もちろん、そうなってくると気になるのはフリーライダーの存在だ。だが、あまり気にする必要はない。フリーライダーにギブし続けることを望む人もいるわけだし、もしフリーライダーが不愉快なら、何もあげなければ済む。それは義務でもなんでもないのだから。

時代はギブ=テイク。新曲のタイトルはこれでいこう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!