「嫌だ」のトレーニングをしよう【アンチワーク哲学】

改めて考えれば「金」とはイノベーションであった。

常に首元にナイフを突きつけることなく他者を強制的に働かせる方法について、過去の支配者たちはきっと頭を悩ませていたことだろう。どうすれば朝から晩まで自分の命令に従わせることができるだろうか。どうすれば荒野で鹿を狩る人々の元に逃げ出さないだろうか(万里の長城は、異民族の侵入を防ぐためではなく、自国民を逃さないために作られたという説を僕は信じている)。金というシステムを成立させ、それがうまく機能するのをみて、支配者の脳からは焼きたてのハンバーグよろしく脳汁が溢れ出たに違いない。そして、自分だけのプラモデルをつくる子どものように、人々をノリやハサミのように使って、でっかい城や墓を作っていったのだろう。

金というシステムを批判しがちな僕ではあるが、有無を言わさず他者を動員できる金の魅力は、しぶしぶながら認めている。

1万人の仕事を成し遂げたいとき、金がある社会なら、1万人分の給料を払えば済む。だが、金がない社会なら、1万人相手に大演説をぶつ必要がある。

でかい仕事を成し遂げるには、金がないと骨が折れるのはたしかだろう。金を使わずにiPhoneを作り上げるのはむずかしい。国も言語も異なる膨大な労働者で構成されたグローバルサプライチェーンは、金という基軸通貨によって強引に形成されてきた。それがなかったとしてスティーブ・ジョブズがコンゴ共和国の黒人たちに「ちょっと世界を変えたいんだけど、素手でコバルト掘ってくれない?」と言ったところで軽くあしらわれるのがオチだっただろう。

金なしで近隣住民たちと自家製野菜を分け合うことと、金なしでグローバルサプライチェーンを成立させることは、規模が違いすぎる。前者は簡単にイメージできるものの、後者はむずかしそうだ。不可能ではないと思う。それでも、なにか「金」に代わる思考革命が必要な気がする。

また、金が口実として機能していることも見逃すことはできない。誰かから仕事をお願いされるとき、金というシステムのもとならルールはシンプルである。「金があるなら受ける。金がないなら断る」だ。「あー・・・ちょっと待ってな、スケジュール確認するから・・・えっと・・・あーこの直前のアレがあるから移動時間がこれくらいで・・・いやぁちょっと・・・間に合うかなぁ・・・」などと気まずい思いをしながら断る必要がないのである。

今の僕たちの社会から金という存在を引っこ抜いたとすれば、僕たちはこのような気まずい思いを体験せずにはいられないだろう。金を使わない「お願い」は断るのに口実を必要とする。

この問題を解消するには、数世代かけた価値観の転換が必要だろう。そもそも僕たちは「金」や「仕事」といった大義名分がなければお願いを断れないと感じている。だからこそ、これだけ金や仕事が幅を利かせているわけだ。金がない世界なら「嫌だ」「気分が乗らない」といった言葉が「ごめんその日仕事入ってるねん」と同じように大義名分として機能し、かつ気軽に口にできるように価値観が転換されていなければならない。

逆に言えば、金によって僕たちの感情は抑えつけられてきたとも考えられる。改めて考えれば、子どもは「嫌だ」という言葉を1日に少なくとも10回は口にする。大人になれば0回か、せいぜい1~2回だろう。現代の教育とは、感情の発露を抑え込むプロセスであると考えることもできるわけだ。

さて、僕たちにはそろそろリハビリが必要だろう。アンチワーク哲学は、金のない世界を理想としている。それがいつ実現するかはわからない。だが、「嫌だ」を気軽に口にできる価値観がある程度は先立って普及している必要はある。ならば、僕たちは1日に1回や2回でも、心理的な抵抗を感じながらも「嫌だ」を大義名分として言い放っていく必要がある。

最初はストレスを感じるはずだ。でも、使っていない筋肉をトレーニングしていくように、徐々に負荷をあげていき、いつしか子どもと同じ回数の「嫌だ」を口にできる日がくるかもしれない。

僕と共にやってみないか? さぁ。大きな声で言ってみよう。

嫌だ!

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!