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夢の世界論争はどちらが正しいのか?

『ONE PIECE FILM RED』の再上映を観に行った。もうこの映画を観るのは3回目なのだけれど、もらった映画の無料チケットの使用期限が近づいていて、他に観たいものもなかったので、消去法で選んだ。

映画というのは、その時々の興味関心の色眼鏡をつけて観てしまう。僕は今、人間の自由と欲望について考えていることが多い。そういう視点で観ていると、ウタが作り出した世界‥音楽やダンス、甘いお菓子やぬいぐるみでいっぱいで、労働も略奪もなにもない夢の世界に注目せずにはいられなかった。

映画『マトリックス』をはじめ、この手の夢の世界はよく物語に登場する(といっても、他にパッと思いついたのは『NARUTO』の無限月読くらいだが)。たいてい悲劇を体験して世界に絶望した悪役が夢の世界を作ろうとして、それを主人公サイドが阻止するという構図になる。悪役は「こんな理不尽な世界など滅びればいい」「苦しみのない世界へいこう」的なことを言いながら、古代の文明の技術や魔法みたいなものを使う。そして主人公サイドは「そんなの本物じゃねぇ」みたいなことを言い始める。

結局、実力行使では主人公サイドが勝つものの、倫理的な論争としてみれば勝敗が明白であるとは言い難く、しどろもどろになって議論はうやむやになることの方が多い。

FILM REDの場合は、そのような哲学的論争に踏み込むことすらなかった。ルフィをはじめほとんどのキャラは問答無用でウタワールドから抜け出そうとしていたのだ。FILM REDはお祭り映画であって、誰も哲学的な議論なんて求めていないので、これは脚本家の懸命な判断だと言える。

そこで改めて僕がそこの哲学的な議論を引き受けてみたい。ユートピアで暮らすことは正しいのか? 間違っているのか?

多くの人は、「なんか嫌」と感じて主人公サイドに共感するわけだが、なぜ嫌なのかは明確には説明できないのではないだろうか。僕たちが普段嫌悪する労働も争いも一切なく、望んだだけの娯楽が与えられる世界なのだ。言ってみれば、宝くじで10億円が当たった生活を、そこにいる全員ができるようなものである。「そんなの本物じゃねぇ」と言っても、例えばマトリックスもナルトも、一度その術にかかってしまえば本物か偽物かの区別はつかなくなるわけで、極端な話、今生きているこの世界も胡蝶の夢かもしれないのだ。もし僕たちが最小の労力で最大の利益を得ようと費用便益計算をするホモ・エコノミクスならば、「別によくない?」となる。

だが、「なんか嫌」なのだ。これは僕たちがホモ・エコノミクスではない確固たる証拠だろう。

では、僕たちは何を欲望するのか? それは以下の記事でも考察した通りだ。僕たちはありとあらゆる行為を欲望する。

僕は畑を耕すことも欲望するし、トイレ掃除も欲望する。パン生地をこねることも、おむつ替えも、皿洗いも、ゲームも、読書も、noteの執筆も、セックスも、電車で老人に席を譲ることも欲望する。

体力的な負担があるかどうかはあまり重要ではない。重要なのは自発的に行なっているかどうかなのだ。自発的でないのだとすれば、食事も、ゲームも、セックスも退屈だろう。

ウタワールドも同じである。歌とダンスもたまにやるから楽しいのであって、ウタが望むままにそれに明け暮れるだけでは退屈する。飯を食うのもいいけれど、すぐにお腹いっぱいになる。あとは寝ているだけ、というのでは流石に飽きてくる。

FILM REDでは羊飼いの少年が仕事に戻ろうとしたら「仕事などここではしなくていい」とウタが制する場面があった。ウタは少年が羊の世話を欲望すると言うことを理解していなかった。ウタは世俗的な欲望しか信じることができなかったのだ。

ウタは、人間の欲望を勘違いしている。それに、多くの夢の世界系のラスボスも勘違いしている。人間はあらゆる行為を欲望し、その欲望を満たすための努力や困難すらも欲望する。逆に、与えられた幸福は拒否する。それが人間である。

(ところでこういう話をしたとすれば「ふーん、そうかもね」という印象を抱いてくれる人が多いと思う。しかし、僕がこの議論をさらに展開していき、「労働」と「金」は必要ないというアンチワーク哲学を提唱すると、置いてけぼりになってしまうのだ。困った困った。)

ところでFILM REDでは海賊の恐怖に怯えた民衆がウタにすがりつき、その結果、ウタは彼らをウタワールドに引き摺り込むことを思いついた。で「やっぱり現実がいい」となったわけだが、このあと民衆が海賊に襲われないための策は一切講じられていなかった(というか、そういう話は映画の後半では完全に忘れ去られていて、観客も登場人物もウタの安否ばかりを気にかけていた)。

改めて考えればこれは「まぁ辛いだろうけど、夢の世界に逃げずに現実で頑張れよ」というそっけない自己責任論だ。これがなんの違和感もなく受け入れられているのはやっぱり世知辛い。まぁ、自分でも1回目と2回目の鑑賞時にはスルーしていた論点なのだが。

同じ映画を3回観ても、全く違う印象を抱いた。再上映っていうのもいいかもね。もっといろんな映画でやってほしいものだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!