仕事とはなにかを考える(『Teardown』をダシにしながら)
目下、このゲームにハマっている。
「地面以外の全てを破壊して強盗するゲーム」などというセールストークに踊らされた僕は、脳筋破壊プレイでストレス発散できるという期待に胸を膨らませながらこのゲームをダウンロードした。だが、プレイ開始後、1時間ほどで痛感させられることになる。
壊せばいいってものではない。
まず破壊に必要なリソースはそこまで豊富ではない。初期装備のハンマーでは木材やガラス、漆喰くらいしか破壊できないし、フィールドに配置されている爆弾は数が限られている上に、意外と破壊力は少ない。せいぜいレンガに人がぎりぎり通れる穴を開ける程度だ。所持アイテムの爆弾やショットガンも数が限られているし、熱で鉄素材を切断できるトーチライトも時間制限がある上にせいぜいパイプや窓枠、ドアを切断する程度。
そのため破壊行為の大半はショベルカーやブルドーザーといった重機に頼ることになるのだが、重機も万能ではない。扱いを間違えれば転倒したり、壊れたりする。
そして、忘れてはならないのはこのゲームの目的は破壊だけではない。なんといっても強盗ゲームなのだ。「塔を1つ倒壊させろ」といったミッションもあるにはあるが、「1分以内にパソコンを6台盗め」とか、「1分以内に高級車を6台水没させろ」とか、時間制限がある中で複数の目的をクリアするようなミッションが大半である。
この手の時間制限のあるミッションは、1台でも盗んだ瞬間にタイマーが作動する仕組みになっている。つまり、1台目に手を付ける前にどれだけ準備できるかに全てがかかっている。
そう。このゲームは、準備が9割9分なのだ。
水没ミッションなら、どの順番で水没させるか? プールか、池か、海か? 車から車への移動のための車はどう用意するか? トレーラーに載っている車はどこに配置するか? 逃走経路はどうするのか?
そのために欠かせないのが整地作業である。
緻密な計画を立てて、ルート上の壁に穴を開けたり、足場を作っておいたり、移動用の車を配置しておいたり。クイックセーブしてから予行練習をし、思わぬトラブルが起きるなら、トラブルを回避するために更なる整地作業、またはルートの変更を検討する。
ルートが完成すればスプレーでルートに目印をつけておく。そしていざ本番、といった具合だ。1分しかない本番のために、1時間以上計画を立てているようなことすらあった。
一見すると脳筋爆破ゲームである。しかし、むしろ僕の目の前にあったのは真逆。針の穴に糸を通すような繊細な計画性が必要なゲームである。
このゲームをやっていると「仕事」とは何なのかを考えずにはいられない。「仕事」とは、「創造」の側面が強調されがちな言葉だが、実を言うと「破壊」にこそ仕事の根源があるような気がしている。そもそも破壊と創造は紙一重なのだ。玉ねぎを微塵切りにすることは創造でもあるが破壊でもある。椅子を組み立てるには、ネジ穴を開けるという破壊が必要だ。耕作とは土の構造を破壊することであり、収穫という行為もハサミによる茎の破壊である。
そもそも人間は真の意味で創造することはできない。物質に対して何らかのエネルギーを注ぎ込むことで変化させていくことしかできないのだ。エネルギーを注ぎ変化させるという行為は、それすなわち破壊である。
では、仕事が破壊なのだとすれば、仕事の熟練度の違いはどのようにして生まれるのか?
一般的に考えられるように、熟練者と初心者の違いは、エネルギーの総量の差によって決まるのではない。エネルギーの方向づけをいかにコントロールできるかの力量によって決まる。
例えば、牛を捌くとき。熟練の料理人なら最小限のエネルギーで適切な角度から切り込みを入れ、美しく捌くだろう。しかし、初心者であるならどこにエネルギーを投下すればいいのかがわからず手当たり次第に力を込めてエネルギーを無駄にした上で、不恰好に捌くはずだ(『荘子』の包丁の逸話を思い出そう)。
「破壊」とはエネルギーの無秩序な発散ではない。当然ながら、エネルギーを無秩序に発散するならば何も有用な仕事は成し遂げることはできない。このことは複雑系の研究で知られるカウフマンが説明してくれている。
つまり仕事の熟練度とは、シリンダーの性能を意味する。初心者は隙間だらけのシリンダーであり、中途半端な仕事しかできない。熟練者は精密なシリンダーであり、最小限のエネルギー量で望んだ結果を得ることになる。後者は必要な箇所にだけエネルギーを注いでいるが、前者は必要ない場所にもエネルギーを注いでおり、結果エントロピーが増大し無秩序状態へと近づく。
(『Teardown』から話が逸れているようで、全く逸れていない。このゲームをプレイしていると、エネルギーのコントロールの重要性を痛感させられる。爆弾は適切な場所におけば望んだ仕事を成し遂げるが、誤爆すれば単なるリソースの無駄遣いになり、無意味にエントロピーを増大させる。重機は適切に操作すれば有用な味方だが、整地作業中に壊れしまえば逃走を妨害する障害物にもなる)。
さて、エネルギーコントロールの習熟プロセスは、実を言うと赤ちゃんの時点から始まっている。子育てをしたことがある人なら赤ちゃんは意外と力が強いことに気づいたことだろう。赤ちゃんが誤って握ったものを取り返すのには結構強い力がいるし、赤ちゃんに殴られたり蹴られたりしたらそこそこ痛い。つまり、大人と赤ちゃんのエネルギーの総量自体は、おそらくそこまで大差はない。両者を決定づける差はエネルギーコントロール能力の差ではないだろうか。
赤ちゃんは目の前にある物を掴むという仕事すら満足に成し遂げられない。手指のコントロールに慣れていないからだ。しかし、何度もトライ&エラーを繰り返した挙句、ようやく物を掴めるようになる。次はそれを口に入れようとする。が、うまく口に運べない。そしてトライ&エラー、といった具合だ。
大人になるということは、このプロセスの繰り返しである。そのうち赤ちゃんはドアを開けられるようになり、箸を掴めるようになり、うどんをこぼさずにすすれるようになり、みかんの皮を剥けるようになり、大根おろしを作れるようになる。
注目したいのは、赤ちゃんはこのプロセスを誰に命令されるでもなく繰り返していることである。ものを食べることや睡眠をとることといった生理的欲求ですら、赤ちゃんは適切にサポートしなければ満足させようとしない(こともある)。しかし、トライ&エラーのプロセスに関しては、なにをせずとも勝手に始めるのである。そして、コントロール能力が増大したとき、つまり望んだ結果を得られるようなエネルギーコントロールを覚えたとき、赤ちゃんはキャッキャと笑ってこの上ない喜びを表現する。おそらくエネルギーコントロール能力の増大への欲求は、食欲や睡眠欲といった欲求を凌駕するほどの自然な欲求なのだろう。ペン回しの練習に夢中になる子どもも、おそらくエネルギーコントロール能力の増大を欲求しているわけだ。
ここまで僕は重機で整地作業するような行為と、うどんを啜ったりみかんの皮を剥いたりするような行為を一緒くたにして語ってきた。このことに違和感を覚えた人もいるかもしれない。だが、実質的に同じである。どちらも望んだ結果を得るために、エネルギーを適切に投入している。僕から言わせれば、うどんをすするのも一種の仕事なのだ。
となってくると、次なる疑問が生じる。人はエネルギーコントロール能力の行使や増大を本能レベルで欲求するのであれば、なぜ一般的に仕事は苦痛であると考えられているのか?
理由はいくつかある。まず「望んだ結果」を得るための行為なら人は欲求するが、労働の場合、労働者はその結果を望んでいない場合があるからだ。朝から晩までネジを止め続ける行為を命令されたとして、誰がそれを好き好んでやるだろうか。誰がネジを止める能力を増大させたいと願うだろうか。いや、やる人はやるし、能力の増大を楽しむ人はいる。しかし、強制されない方がより人が楽しむことは明らかである。
また、ネジを止め続けるスピードや精度もどこかで頭打ちすることになる。赤ちゃんは初めはボールを転がすだけで喜んでいるが、次第にそれに飽きてボールを投げるようになる。少年になればリフティングを練習する。ボールを転がして喜ぶような少年など存在しない。つまり人は能力を増大させ続けることを望むのだ。
一方、労働においては、かならずしも能力の増大が求められるとは限らない。全く同じ行為を全く同じように成し遂げることが求められるケースも多い。これは明らかに退屈なのである。
(とはいえ、人は四六時中能力の増大を求めているわけではない。大人は歯磨き能力が頭打ちしてから久しいが、それでも歯磨きを続けている。これは「習慣」という脳のリソースを節約する自動プロセスの働きが大きいだろう。余談だが、僕は歳をとるほど睡眠時間が少なくなる原因は、1日のうちに脳が自動運転できる時間が伸びていくからではないかと考えている。赤ちゃんは朝から晩まで未体験のことの学習で埋め尽くされていて、脳をフル稼働させているからこそ、たくさん寝なければならない。逆に老人はもうほとんど学ぶことはなく、3時間かそこらの睡眠で満足してしまう。)
脱線したが、元に戻ろう。
仕事が辛いものだとされているのには、他にも理由はある。物質にエネルギーを注ぎ、変化を起こすという意味の仕事がそもそも少なくなっているという理由だ。雑に言えばブルシット・ジョブである。何もしないことが求められるような仕事。あるいは、何の変化も起こさない仕事。本人が全く意味を感じられない仕事は、この世界に無数に存在する。これは明らかに人間の欲求に反することとなり、人々に苦痛を与える。
「意味」というのは重要な要素である。なぜならエネルギーコントロールという意味での仕事には「意味」という方向づけが欠かせないからだ。「意味」に同意していない、あるいは「意味」が存在しないように見える場合、人はその行為を欲求することができず苦痛を感じることとなる(意味という観点を導入しなければ、エントロピーの増大すらボルツマンいわく単なる「視界のぼやけ」に過ぎなくなり、区別することはできなくなる)。
ここまでの議論をまとめよう。
自らが同意できる仕事、すなわち「意味」に向かってエネルギーをコントロールする行為や、その行為能力を増大させることを、人は本能レベルで欲求する。一方で、人は意味に同意していない仕事や意味を感じない仕事、すなわち「労働」には苦痛し、嫌悪する。
必然的に導き出される結論は次のようなものではないだろうか?
人は強制から解放されれば、自ら意味を感じる仕事に取り組み、能力を増大させるようになる。なぜならそのことを本能レベルで欲求しているから。
ゲームの話をしていたつもりが、気づいたら我田引水していた。ここまでの議論はアンチワーク哲学そのものである。
さて、このゲームから学べる教訓はまだまだあった。
このゲームの主人公が強盗を行う理由は負債の返済である。主人公は莫大な報酬を目当てに、金持ち同士の嫌がらせの応酬に参加して強盗を行っている。設定はかなりイカれているものの、「負債の返済なのだから仕方ないよな」と一応納得はできる。
が、一応納得できるあたりが、デヴィッド・グレーバーも驚嘆した負債の強力さだろうか。グレーバーは著書『負債論』の中で、負債の返済のために、マダガスカル政府がマラリア対策の費用をケチった結果、一万人を見殺しにした事例を挙げて、それを「でも負債だから仕方がない」と感じてしまう女性の倫理観を話題にしていた。
先ほど、仕事には「意味」が必要であると書いた。ゲームの主人公にとっての「意味」は建物の破壊であり、強盗でもあるが、究極の意味は負債の返済である。
人間は何をするにしても、絶対的で、かつ無根拠の「意味」を必要とする。負債は「意味」として機能しがちであり、それは『カイジ』といった作品においても明らかにされてきた。
※ちなみに僕はデヴィッド・グレーバー解釈に則って負債と金を同じ意味で使用しているのでご注意を。
さて、現代では多くの人が金や負債のために労働をしている。ならば、結局のところ金や負債の返済といった「意味」に向かって努力するプロセスなのだから、それは人間にとって楽しいことなのじゃないの?という疑問も浮かんでくる。実際、金儲けそのものを楽しんでいる人は一定数存在する。しかし、多くの人は楽しんでいないことは明らかだろう。なぜなら強制が働いているからだ。多くの人は心の底から意味に同意できないが、金や負債によって強制されているから、止むを得ず労働する。
だからこそ、自分の意志で好きなだけ「意味」を追求できるゲームに人々は熱中する。それくらいしか自由に意味を追求できる機会がないからだろう。
皮肉にも、僕が『Teardown』で行っている行為は仕事そのものであった。人が本来の意味での「仕事」を欲していることはもはや明らかである。しかし、この世界では「労働」という強制プロセスを通じてしか、人の「仕事」を引き出すことができず、その結果、人々は自分たちが「仕事」を嫌悪しているかのように思い込んでいる。
そんなことを教えてくれた。『Teardown』とは、いいゲームだ(まだ5時間くらいしかプレイしていないけど)。
参考文献
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!