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なぜ、アンチワーク哲学は脱強制にこだわるのか?【アンチワーク哲学】

レイプされることを望む人間などいない。もし望んでいるのであれば、それはもはやレイプではないからだ。

だからと言って「人間は本質的にセックスが嫌いな生き物だ」と主張する人はいないだろう。好きな相手と自発的に行うなら、セックスは最高の体験になるのだから。

改めて考えれば不思議である。やっていることは同じなのに、かたや一生残るトラウマ体験となり、かたや人生における最高のひと時のうちの一つの数えられる。強制されるか、自らの意思で取り組むかによって、主観的な印象は天と地の差があるのだ。このことは誰しもが知っている。しかし、その意味を理解している人は少ない。

セックスのほかにも、人間は他者の役に立つ行為を欲望している。公園で子どもにボールを投げ返してやること。ライターを貸してやること。観光客のために写真を撮ってあげること。知らん顔を決め込むよりも、助けてあげた方が気持ちがいい。誰もが知る事実である。自分の意志で取り組まれたなら、誰かのニーズに応えて役に立つことは、生きる喜びになるのだ。

それが一定程度のコミットメントが必要とされる場面であろうが同様である。友達同士でバーベキューをするとして、食材を切ったり、火をおこしたりして参加するか、なにもせずに肉にだけありつくかという選択肢を提示されたなら、多くの人は前者を選択するだろう。後者を選択した人がいたとしても、彼は居心地の悪い思いを抱えながら、肉を食らうことになりかねない。

この社会では、誰かの役に立つ行為は主に賃労働として組織化されているとみなされている。そして、多くの人は賃労働を嫌っている。できることなら働きたくないと、誰もが口にする。その結果、貧者に施しをすれば彼は怠けてしまい、人の役に立つ子を一切やらなくなるだろうと思われている。これは真実だろうか? そうではないように思われる。人の役に立とうとせず、ただ孤独にネットフリックスを観て過ごすことがどれだけの苦痛であるかは、容易に想像がつくだろう。

人が賃労働を嫌う理由は、人がレイプを嫌う理由と同じである。人はレイプではない自発的なセックスが大好きだ(もちろん個人差はある)。同じように、人は労働ではない自発的な貢献が大好きなのだ(もちろんこれにも個人差はある)。

賃労働は、金を手に入れなければ路頭に迷う恐れを原動力に、半ば強制されている。逆らえば命を失う恐れを原動力に、拳銃で脅された人が強制に服するのと同じ理屈である。ならば、強制さえなくなったなら、人は自発的に貢献を始めるのではないか? レイプがなくなったとしても、相変わらず人々は自発的にセックスをするのと同じように。きっとそのときは、強制されるよりも、何倍もの満足感を味わうことになる。

だから強制をなくすべきだと主張しているのだ。強制をなくすためには、金の権力を骨抜きにする必要がある。金がないから、金を持つ人に強制されるのだ。金があれば、誰も強制されることはない。自由に、やりたいときだけ、人の役に立てばいいのだ。

それで本当にうまくいくのか? わからないが、うまくいくような気がしている。少なくとも、それが非現実的であるとして一蹴するのはむずかしいように思われる。人間は貢献欲をもつことを前提とすれば、仮にあらゆる強制が排除されることはないのだとしても、その方向へと向かうことができるはずだ。

ほかの条件が同じなら、誰も強制されない社会が理想的であることには異論はあるまい。誰もが自由に、自発的に行動することで、社会に必要な財やサービスが提供され続けるのであれば、その方がいいことには異論はあるまい。

いま、未来に希望を抱いている人は少ない。だったら、なにかを変えなければならない。僕は強制のない世界、言い換えれば労働のない世界へ向かうことこそが、未来への希望であると確信をしているのだ。


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