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権力論 ー なぜ改善する人は煙たがれるのか?

職場の生産性を向上するために問題点を指摘し、なんらかの改善案を提示する。こういう人が嫌われることはよくある。

が、よくよく考えると不思議な話である。「あなたは生産性の向上を望みますか?」と質問して「望みません」と答える人はほとんどいないはずだ。誰しも口先では生産性向上を望んでいる。

問題点を指摘し改善案を提示することは、明らかに生産性向上に資する行為だ。仮にその意見が的外れだったとしても、単に却下すればいいだけの話であり、何はともあれ意見が出ないよりは出る方がいいに決まっている。出ないということは、何も改善が行われないことを意味するのだから。

にもかかわらず、明らかに改善案を出すこと自体に嫌悪感を示されるような事態は珍しくない。僕もそのような経験が多少なりともある。その時、まるで僕は「頼むから一発ヤらせて」と頼み込んでいるかのような気分になった。つまり、僕が個人的な願望を満たすために強引に頼み込んでいるような気分だ。僕はみんなの共通の目的である「生産性の向上」に貢献しようという善意のもと提案しているというのに、相手は僕のワガママであるかのように受け取るのだ。

このような事態が頻繁に観察されることから考えられる結論が1つある。もしかすると、生産性の向上など誰も望んではないのではないか?

恐らく人が組織の中で望んでいるのは、自己決定能力の増大。すなわち権力の増大である。

彼が気に入っているやり方で組織を運営している状況は、彼の自己決定能力が存分に発揮され、彼の決定は自分自身だけではなく他者にまで影響を与える。しかし、他人が思いついたアイデアによって組織を運営するとなれば彼の自己決定能力が及んでいたテリトリーはオセロをひっくり返すように奪われてしまい、彼自身もそのアイデアに沿って行動しなければならなくなる。

これは権力の喪失である。なぜなら権力とは、自己決定によって自己や他者をコントロールする能力を意味するのだから。

もちろん僕はここで「人間は権力闘争にしか興味がない愚かな生き物だ」なんて言ってシニシズムに浸るつもりはない。権力闘争に走らない組織も明らかに存在しているからである。良いアイデアがあれば誰も眉を顰めることなくすぐさま取り入れられ、改善されていくような組織だ。

では権力闘争組織と、そうでない組織の違いはなんなのか?

それは前者が権力をゼロサムゲームとして扱っていて、後者はそうではないという違いだろう。

権力そのものが目的となっている組織では、権力はゼロサムゲームになる。権力を握った者は自分自身がマイルールで行動できるだけではなく、周囲の人々の行動もコントロール可能できる。仮に10人の組織のうち1人が絶対的なボスであったとすればボスは10の権力を持ち、9人の部下の権力は0という具合だ。9人は自己決定能力を奪われ、命令に不満を感じながら渋々従う

一方で後者の場合は、権力とは別の何か共通の目的があると考えられる。例えば「世界中の情報を整理する」とか「世界から貧困をなくす」みたいなやつだ。少し前に流行った言葉で言えばパーパスというやつだろう。

全員がパーパスに同意している場合、自らのお気に入りの方法で組織が運営されることは重要ではない。より自分が同意したパーパスの追求に資するやり方であるなら、誰の発案であろうが、それは自分の意志に合致する。仮に他人の提案に乗ったとしても、自己決定能力は損なわれない。

アイデアを出した側は自己決定の上で周囲を動かす。周囲は事実上アイデアを出して人に動かされていながらも自己決定能力を損なわれない。つまり権力がゼロサムゲームではなく、権力のパイが増えている。そして、全員の権力が増大していく。全員が、自己決定により自分自身や他者を動かしながら、より大きな目的を実現していくのだから。

ここまでをまとめよう。パーパス型組織においても、権力闘争型組織においても、人は権力の増大を望む(くどいようだがここでいう権力とは自己決定により自己や他者を動かす能力である。権力が増大すればできることが増えていく)。2つの組織の違いは、それがゼロサムゲーム的かそうでないかの違いだ。

では「パーパスって大事だよね」というありきたりな結論で満足すればいいのだろうか?

この手のパーパスは利益の前ではあっさりかなぐり捨てられることや、単なる株主へのアピールにすぎないことは一旦置いたとしても、その結論には一理ある。

しかし僕は逆のアングルからこの問題を考えてみたい。なぜ、多くの組織では権力がゼロサムゲームのように扱われる傾向にあるのか?というアングルからである。

権力がゼロサムゲームのように扱われる組織には、「同意できない場合であっても権力を有するものの命令には従うべきである」という前提がある。なぜなら、同意できない命令を拒否できるならば、権力の値が1を下回ることはないからである。

(自分のことは自分で決め、他人には全く口を出さない。これは権力値1の状態である。他人の命令に完全に服している状態は権力値0。自分を含めた100人を意のままに操れる権力者は権力値100だ。)

命令を拒否できない状況で生きている人は、その状況を渋々ながら受け入れるか、あるいは命令する側に回るかの2択を突きつけられているように感じる。野心あふれる人ならば後者を選択することとなる。

まず奪われているところからスタートするのだ。ならばまずは自分の分の権力を奪い返し、その後に人の権力を奪いにかかるという発想に閉じ込められるのは当然のことだろう。

しかし、そもそも誰も権力を奪われることがない状況からスタートしたならどうなるだろう? 当たり前だが人間1人にできることなど高が知れている。大きな仕事を成し遂げるためには他人の協力が不可欠だ。命令によって服従させるのでなければ、自分が思い描くビジョンに共感してもらわなければならない。それはすなわちパーパスである。

つまり、自分で自分のことを決めるという最低限の権力が奪われない組織で、何か共通のプロジェクトに取り組むならば、パーパスはほぼ必然的に現れることになる。

ならば僕たちが導き出す結論は「パーパスって大事だよね」ではなく「他人に命令するのって良くないよね」だろう。

もっと言えば他人に命令できる状況が良くないのである。

ではなぜ命令が生じるのか? ここでは命令が可能な人物が誰なのかを想定すべきだろう。百獣のカイドウに命令できる人物などいないが、カイドウは周りに命令できる。あるいは、絶海の孤島に遭難した共同体の中に、右手から唐揚げを出せる特殊能力者(仮に「からあげクン」と呼ぶ)がいたなら、彼は間違いなく権力者になることが可能だ。

カイドウとからあげクンは共通して周りの生殺与奪を握っている。命令は、多かれ少なかれ生殺与奪を握ることでしか実現できない。ならば必要なのは誰も生殺与奪を握られない状況だろう。

(僕の記事を普段から読んでくれている人なら、そろそろ僕が何を言いたいのかが分かってきたと思うので、もうここら辺にしておく)

何はともあれ、権力という概念を導入すれば、世の中の組織をある程度までは明晰に分析できるし、人の動機の大半も理解できると思われる。

自己決定能力の増大。人はどうやらこれを望むらしい。なぜ望むのかは、よくわからない。考え中である(誰かアイデアをくれー)。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!