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自己決定とは幸福なのか?

アンチワーク哲学は自己決定をとことん重視するどころか、それを至上目的とする。つまり「やりたい」と思ったことをやれば全員ハッピーという主張だ。

それを前提として書いたのが以下の記事。人は「やりたいことをやる能力」つまり、自己決定能力の増大を望んでいて、増大こそが幸福であるという旨の主張だ。

この記事に対し、世界さんが相変わらず鋭いコメントをくれた。

世界さんのコメントは鋭いので、僕はいつもしどろもどろになって返信している。

ここではどのような議論が展開されているのかと言えば、僕の見解は「自己決定すればするほど幸福」であり、世界さんの見解は「自己決定は幸福とは関係がない。自己決定=幸福というのは後天的に刷り込まれた思い込み」というものだろう。

これに対して、僕は返信を試みる。

要するに、「自己決定=幸福は後天的な刷り込み」という反論に対して僕は「(比較的)思い込みを刷り込まれる前の存在である赤ちゃんや子供が自己決定を欲していて、自己決定を阻害されることに不幸を感じているように見えること」を根拠に、「自己決定=幸福」という自説を強化しようとしたのだ。

そして、さらにいただいたのが次のコメントである。

これに関してはどう読み取るべきか迷ってしまったのだが、世界さんはおそらく次のようなことを指摘していると思われる。

そもそも、幸福感は生物学的に規定される部分もあれば、社会的に規定される部分もある。だが、人間は社会の中でしか生きられないのだから、社会が何を幸福と規定するかに多かれ少なかれ左右されざるを得ない。つまり生物学的に幸福だとしても、社会的に幸福とは限らない。

この辺りで僕は察する。これは議論が迷子になっている、と。

この状況から脱するには、note社が提供した四畳半コメント機能では収まりがつかない。

改めて記事にすることにしたというわけだ。

おそらく迷子の原因は、「自己決定」という用語の定義問題に遡るような気がしている。ここではややこしい議論をすっ飛ばして、まず僕が何をもって「自己決定」と定義しているかを明らかにしていこう。そうすれば自然と、袋小路から脱することができるはずだ。


■自己決定とはなにか?

まず、極論すれば人間の行動は全て遺伝子や環境や社会に影響されている。どれだけ僕が自由な主体であると思い込んでいても定期的にうんこをしなければならない運命からは逃れられないし、どれだけ自由に思考をしようとしても母語とする日本語の束縛からは逃れられない。それに親の躾や先生に教えてもらった考え方、友達との会話に植え付けられた価値観に常に左右されていることは間違いない。

当たり前だが、完全な自己決定というのはあり得ない。もしそんなものが存在するとすれば、神か何かの所業だろう。

いちいち説明するまでもないのだが、僕は「人間は神にならなければ不幸である」と主張しているわけではない。多かれ少なかれ人は周囲の影響を受けて生きている。僕はそのことに対しては全く問題だとは思っていない(もちろん僕は完全な決定論を唱えているわけでもない。影響を受けることと、完全に全てが決定されることは異なる。当たり前だが)。

では、僕は何を問題視しているのか? 100%誰かの命令に従って生きることを問題視しているのかと言えば、そうではない。なぜなら、そんなことは不可能だからだ。

銃口を突きつけられて「100円をよこせ」と命令されたなら、多くの人は強制されたと感じ、100円を渡すだろう。だが、完全な意味で強制されたわけではない。銃口を突きつけられようが拒否することは可能だからだ。単にその後、死ぬ可能性が高いというだけであって。

このように、極論すれば人間の行動は全て自己決定である。催眠術をかけられるのでもない限り、完全に操られたマリオネットになることは不可能だ。

つまり、すべての人はマリオネットと神の間のどこかにいる

では、僕が「自己決定」という言葉を使用するとき、それは何を意味しているのか? それは本人の主観である。「私は自己決定している」と感じているなら、彼は自己決定していると僕は結論づける。「いやいや、それは社会に植え付けられた思い込みに従っているだけであって、自己決定ではありませんよ?」だなんて言うつもりはないのである。

極端な話、彼が銃を突きつけられながら100円を寄越せと言われたとしても、彼が自発的に選択したと感じているのであれば、それは自己決定であると僕は考える。

同様に、上司に「休日にパレードの誘導ボランティアをやって」とお願いをされたときに「よっしゃぁ、これぞ公務員の責務! やったろか」と腕捲りをして手伝ったのであれば、それは自己決定である。「いやぁマジでやりたくないわ。でも上司の昇進に響くしなぁ…」と思いながらやったのなら、それは自己決定ではない。

つまり「自己決定=幸福」という僕の主張を言い換えれば、「私は自己決定している」と感じる度合いが高ければ高いほど、彼は幸福であるという主張だ。そして「私は自己決定している」と感じる度合いが高い状態こそ、理想的な社会であると感じている。


■では、人はいつ自己決定していると感じるのか?

まず、文句なしの自己決定についてはいちいち議論する必要はないだろう。何の予定もない休日にふらっと海に出かけて釣りをしたとき、彼は自己決定したと感じている。

ところが人間は1人では生きていけない。誰かとの関係の中で生きている。その中ではどんな風に自己決定できるだろうか?

例えば「ちょっと引っ越し手伝ってくれん?」と友達にお願いされたときを想像してみよう。ここで「よっしゃいっちょやったろか」と感じたとしよう。そのときの自己決定感はどうだろうか? お願いされたとは言え、自己決定していると感じるはずだ。なぜ自己決定感が強いのかと言えば、おそらく引っ越しを手伝う行為に価値を感じているからだろう。

つまり「価値」というのは1つのキーワードになりそうだ。価値を追求する行為であれば、誰かからのお願いがきっかけであろうが、自己決定感を損なうことはないと思われる。

トイレに行くことや歯を磨くことも、「自己決定です!」と胸を春ような人はいないだろうが、「いや、まぁ自己決定っちゃあ自己決定ですかね…」と反応する人がほとんどだろう。これは半ば義務のようになっているわけだが、うんこを漏らさないことや虫歯にならないことに「価値」を感じているからこそ、「強制された!」などとは感じない。

ここから暫定的な定義を導き出すと、次のようになるだろう。

自己決定=価値のある行為を追求していると感じること

では、逆のパターンを考えてみよう。「めんどくさ!」と彼が感じた場合。つまり、彼がその行為に価値を感じていない場合はどうだろうか?

彼の性格にもよるが、断固拒否することもできれば、渋々引き受けることもできる。渋々引き受けた場合、やっているうちに楽しくなってきてくるケースもあるはずだ。そのとき彼に自己決定感を抱くだろうか? おそらく抱く。自分の決定が正しかったと感じるだろう。

では、渋々引き受けて、やり終えてもなお、「やっぱりやらなければよかった」と感じた場合はどうだろう? そのとき彼は自己決定したと感じるだろうか? 友達との関係であるなら、断る選択肢もあるのだから、恐らく自己決定したと感じるはずだ。だが1日や2日の後悔であれば、取り立てて問題視する必要はない。「あぁそんなこともあったよね」で済む話だ。

だが、これが毎日連続で引っ越しを手伝うことをお願いされたならどうだろう? 流石に断るだろう。多少乗り気でなかったとしても、1回や2回であれば、試しにやってみる。それで楽しくなかったとしても大した問題ではなく、自己決定感も大きくは喪失しない。

しかし、もし断れなかったのなら、彼は自己決定感を喪失するはずだ。

つまり、もう一歩踏み込んだ定義は次のようなものになる。

自己決定=価値のある行為を追求していると感じること。または、価値があるかどうかわからない行為を追求する場合であっても、その行為の中止を希望したときに中止する選択肢があると感じられること。


■自己決定感がない方が好ましいケースはあるか?

先ほどの例え話で抜け漏れているケースがある。それは「おい、引っ越しを手伝え!」と上司が命令してきた場合だ。その上司は命令を無視した部下を即座にクビにすることで有名であり、その部下は多額の住宅ローンと大学進学を控えた子供たちを抱えているとしよう。

彼にはそもそも断る選択肢はない。しかし、彼はその上司に心酔しており、彼の役に立つことが世界で最も重要な行為であると考えているとしよう。ならば彼は上司に貢献できて幸福であると感じるはずだ。

さて、それでは彼は自己決定していると感じているのだろうか?

わからない。もしかすると感じているかもしれないし、感じていないかもしれないが、価値ある行為を追求しているという感覚は抱いているはずだ。

ならば、先ほどの定義には修正が必要だろう。

自己決定=自らの選択により価値のある行為を追求していると感じること。または、価値があるかどうかわからない行為を追求する場合であっても、その行為の中止を希望したときに中止する選択肢があると感じられること。

このように考えれば「自己決定していないが、幸福」というケースもあり得ることがわかる。

しかし、それでもなお、彼には自己決定の余地が与えられる方が望ましいことに疑いの余地はない。彼に上司に従わない選択肢が与えられたとしても、彼は変わらず上司に従うだろう。別に選択肢があることによって彼が不幸になることはない。

だが、もしその上司のことが嫌いになったとき、従わない選択肢が用意されていないなら、彼は不幸になる。しかし、拒否が可能ならその選択肢を採用し、彼は不幸から抜け出すことができる。

別の角度からも考えてみよう。

奴隷にベーシック・インカムを支給して、奴隷状態からいつでも逃れられるように取り計らったとしよう。そのとき「私は人に従うことが幸福なのであり、余計なことはしないでください!」などと奴隷が憤る事態があり得るだろうか?

どう考えても憤る必要は無い。それに「いやいや自己決定こそが幸福なのだから、奴隷をやめるべきだ!」などと言う必要もない。もし仮にそう思うのであれば、ベーシック・インカムを辞退し、奴隷を続ければ済むのである。それに、未来永劫、奴隷が奴隷主に不満を感じないとも限らない。もしそうなったときに逃げる選択肢があることが望ましいのは明らかだろう。

また、従属が幸福だという彼の主張をまじめに受け取るのであれば、奴隷主の元で働く彼の元に僕がふらっと訪れて「おい、俺のケツをなめろ」と命令したとき、それに従う方が彼は幸福であるということになってしまう。当然、彼は僕のケツを舐めない方が幸福であると判断し、僕の命令を拒否する決定を下すだろう。これは自己決定が彼の幸福に貢献していることの証拠であるように思える。

そして、当然のことながら、不満を感じながら隷属している人に対しては、自己決定の余地が与えられることが望ましい。柵の外側に人を喰う巨人が跋扈していたとしても、である。なぜなら、巨人を見て恐れをなしたのなら、柵の中に帰ってくれば済むのだから。それに彼には巨人を駆逐するという選択肢もあるのだ。いずれにせよ選択肢は多い方がいい。

なるほど、選択肢が多すぎるという不幸は常に存在している。「本当にこれでいいのだろうか?」と悩みながら生きていくよりは、「これしかない」と覚悟して生きる方が幸せである可能性もあるだろう。

繰り返すが、もしそう思うなら誰かに従属して生き方を決めて貰えばいい。それでも、彼のコンサルティングに満足いかなかった場合は、やはり逃げ出せる方がいい。逆説的だが、自己決定の余地が大きければ大きいほど、従属することも自己決定となる。

もちろん自己決定した結果、巨人に喰われて死ぬという可能性もある。彼は巨人に喰われながら「何で俺に自己決定なんてさせたんだ」と周囲を責めるだろうか?

わからない。もしかしたらそうなるかもしれない。だが、この世界に巨人はいない。

巨人がいたなら、選ぶことは苦痛かもしれないが、巨人はいないのだ。


■結局、ベーシック・インカム

僕が自己決定感を高めると言うとき、何を意図しているのかといえばベーシック・インカムである。人々は従属しなければ路頭に迷う恐れから、上司に従属することになる。ベーシック・インカムは、その状況から人々を解放し、上司の命令を断る選択肢や、その職場から逃げ出す選択肢を得る。

「俺の言うことを聞いていないと巨人に喰われて死ぬ」あるいは「俺の言うことを聞かないと飯を食っていけないぞ」というパターナリズムがもし本当なら、自己決定が不幸をもたらすこともあるだろう。

しかし、ベーシック・インカムはそのパターナリズムを無効化する。なぜなら、誰の言うことを聞かないとしても、食うに困ることはないし、巨人に喰われることもないからだ。


まとめ

正直うまく説明できた自信はないので、ここまでの僕の主張をまとめよう。

  • 自己決定とは、社会に刷り込まれた価値観をもとに行動しないことを意味しない。多かれ少なかれ、人は何かを刷り込まれて、他人と関わりながら生きざるを得ない。

  • 刷り込まれているかどうかは重要ではなく、本人が「自己決定していると感じているかどうか」が、幸福にとって重要である。

  • 自己決定をしていると感んじていようが、いまいが、価値があると本人が感じている行為に取り組んでいれば人は幸福である。

  • 自己決定をすることなく価値を感じる行為に取り組んでいる人に、自己決定権が与えられても、彼が不幸になることはない。なぜなら、その場合は彼は従属を自己決定すれば済むからである。

  • 自己決定により価値のある行為に取り組む人は、文句なしに幸福である。

  • 自己決定ができず、価値を感じない行為を継続し続けなければならない状況は不幸であり、彼がその行為をやめると言う自己決定できるようになった方が望ましいことは明らかである。

  • 従属した方が幸福であるケースは、自己決定の結果死ぬ可能性が高いケースであるが、その場合も自己決定の末に従属を選択する方が幸福であると考えられる。

  • ゆえに自己決定は人間の幸福にプラスの影響を与える。

これでも、うまく説明できた気はしないが、どうだろうか?

一応、僕が言っていることをやんわりと補強してくれるような研究もあるようだ。

改めて振り返ってみると、僕が書いていることはトートロジーのような気もする。だがまぁいいか、別に。

考えすぎて頭が爆発しそうになってきた。もうこれくらいにしておこう。ではまた。

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