日本が100人の村だったなら
あれこれと統計をあたってみたが、途中でめんどくさくなったので比率は適当である。だが、さほど的外れではないと思われる。だいたいこんなものだろう。
これをみて「いや、30人の仕事いらんやろwww」という印象を抱かずにいることは難しい。しかし、現実社会においてこの30人に相当する人に向かって「いや、お前らいらんやろwww」とツッコミを入れる人はいない。100人と考えれば僕たちが生きる社会の異常性がよくわかるが、1億人の社会となれば全体像が見えづらくツッコミを入れる人も少ないのだろう。
だが、『ブルシット・ジョブ』という本は、そこにツッコミを入れた。僕はこの本を読んだとき、衝撃を受けた。
もちろん、自分の身の回りに無駄な仕事が存在していることは知っていた。しかしそれは社会というスケールでみたときにはちょっとした誤作動のようなものであって、社会全体としては人々の幸福のために効率的に歯車が回っているはずであるという暗黙の前提を疑っていなかったのだ。『ブルシット・ジョブ』を読むまでは。
しかし、この本を読んで確信した。この社会は全体として非行率で馬鹿馬鹿しいことにまじめな顔で取り組んでいると。正直「嘘だ」と言って欲しかった。あまりにも不条理だと思った。労働で苦しんでいる人たちが苦しむべき理由は全くないのだ。ただ単に「社会全体でクソくだらないことに取り組むべき」というプレッシャーに押しつぶされそうになっているだけなのだ。
僕たちの社会は、科学的で、合理的で、効率的なのではなかったのか? 宗教的な盲信を捨て去った、神が死んだ時代ではなかったのか? そんな疑問が渦を巻いた。
とは言え、僕のようにナイーブになる人はおそらく少ない。「まぁ社会ってそういうもんやろ」とスルーするのが一般的な感覚だろう。しかし僕はその感覚を全く理解できなかった。彼らは子々孫々までこの無益な営みを繰り返す愚かな社会を残すいくつもりなのだろうか? それを肯定しているのだろうか?
おそらくそうだ。人は途方もなく巨大なシステムには疑いを向けることはない。だからこそ、100人の村だと考えれば、その愚かさに気づけるはずだ。そして人々は100人の村だと明らかに愚かであることを認めざるを得ず、一方で1億人なら愚かではない理由を探そうとして、失敗するだろう。その後、その話をなかったものとして忘れ去るのだ。
それでも、100人の村に例える方法はショッキングだと思われる。僕は統計音痴でできなかったので誰かやってくれないだろうか。統計大好きの誰かさん、どこかにいませんかね?
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!