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そっと離れる【アンチワーク哲学】

ベーシックインカムが実現した社会はあらゆる問題が解決するなんてことを言う僕だが、もちろんなんのトラブルも軋轢も起きないだなんて言うつもりはない。

それはもう、様々な人間関係のぶつかり合いが生じるだろう。なんか好きになれない人。言いがかりをつけてくる人。自分の都合ばかりを押し付けてくる人。上から目線の人。

僕は前の前の職場で働いていたとき、死ぬほど嫌いな人(仮にTさんとする)が取引先に1人だけいた。年齢も立場も上の人物なので、たいていのことは僕は見過ごしていたのだけれど、我慢ならないときはバチバチに喧嘩した。そして、我慢ならないことは少なくなかった

とはいえ立場上、最後には僕が謝る羽目になる。そして、「まぁ次から気をつけろよ」的に一方的に説教されて、「一件落着」的な雰囲気になる。あたかも僕が一方的に悪くて、許される側の立場であるかのような状況には釈然としないながらも、収束に向かう事態をいまさら荒立てることはしたくないので、僕は結局我慢をする(そして「お前は俺を許したかもしれないが、俺はお前を許していないぞ」と心の中で反芻するのだ)。

とはいえ、あまりにも僕とTさんの相性が悪いのを見かねて、僕の上司は僕とTさんが極力一緒に仕事をしないように取り計らってくれていた。そして僕は結局、転職をして、Tさんと会うことは一切なくなった(いまやその人のことを思い出すのは、同じくTさんが嫌いな共通の知り合いと酒を飲んで、おもしろおかしく悪口を言うときくらいである)。

合わないものは合わない。喧嘩して分かり合えることもあるけれど、そうならないことの方が多い。解決策は離れることしかないのだ。

グレーバー『万物の黎明』には、国家成立前の人々が現代人よりもコスモポリタン的で、生まれ育った家族のもとを離れてもほかのコミュニティに受け入れてもらえたという話が書かれている。過去の人々は、離れることをいつでも選択できた。だから国家という支配形態は比較的少なかったのだろう。

しかし現代人は違う。環境を変えることは、できなくはないけれど、大きなリスクや制約がある。夫に暴力を振るわれる女性もシングルマザーとして生きていく道の険しさを考えて我慢する。高圧的な親の態度に腹が立っても高校生が一人で生きていくことはむずかしい。住宅ローンを抱えたサラリーマンが上司が嫌いという理由で転職することは簡単ではない。

僕もTさんから離れることができたからいいものの、Tさんに生殺与奪を握られる部下だったなら、きっと支配・被支配の関係になっていた。それはもう僕にとってこの上なく屈辱的な労働に耐え忍ぶ日々だったはずだ。

支配とは、離れられない状況でしか発生しない。万里の長城とは、外敵を侵入させないことよりも、住民を逃さないためにつくられたという説もあるが、支配者にとって人を逃がさないことはそれだけ重要なのだ。

ベーシックインカムとは「離れる」という選択肢を人々に与えるシステムだ。高校生が一人で生きていくのは依然難しいとはいえ、最低限の収入を保証されているなら、まだなんとかなるだろう。シングルマザーにも苦労はあるだろうが、なんの支えもないよりはマシなはずだ。サラリーマンも、一念発起してラーメン屋を開業するリスクは多少なりとも軽減される。

では、そんな社会においては組織への忠誠心や家族の絆は損なわれるのだろうか? そんなことはないと思う。いつでも離れることができる人に、高圧的に接し続けることはむずかしい。なぜなら、そんなことを続けていればその人の周りから誰もいなくなるからだ。なら、人との接し方を見直さなければならなくなる。一方的に従わせるようなことはできなくなり、相手の意見にも耳を傾ける必要を感じるだろう。はじめはぎこちないものになるかもしれないが、多少はトラブルは減っていくはずだ。

支配と道徳はセットだ。道徳とは「こうすべき」というルールの集合体であり、多くの場合は支配者の方から被支配者に押し付けられる。道徳の押しつけがむずかしくなったとき、支配者だった人物は、相手のニーズに耳を傾けざるを得なくなる。相手が何を望んでいるのか? 何を嫌がっているのか? 道徳という杓子定規を捨て、相手の感情を事実として受け止めなければならない。そしてニーズに応えて解決策を見出すことは、僕が貢献欲と呼ぶ欲望を刺激し、満たす。いつしか、道徳ではなくニーズに基づいたコミュニケーションと貢献の応酬が社会を満たしていくと、僕は考えている。

※ただしそれはすべての道徳がなくなることを意味しない。相互に合意の上で結ばれた「こうすべき」というルールが存在することはあり得る。とはいえ少なくとも「べき」を一方的に押し付けられることや、「べき」と「べき」が平行線上でぶつかり合うような事態は減っていくはずだ。そして往々にしてトラブルとは、そういう状況下に起きるものであることが明らかになっていくだろう。

もちろん、やってみなければどうなるかはわからない。それでも、支配や(一方的に押し付けられた)道徳が消えた社会は、いい社会になるような気がする。気がするんだよなぁ。


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