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ブルシットジョブ撲滅から労働撲滅へ【アンチワーク哲学】

アンチワーク哲学って、「ブルシット・ジョブをやめて最低限のエッセンシャルワークだけやって労働時間減らそう」ってことですよね?

これは、アンチワーク哲学に対するよくある勘違いである。僕はブルシットジョブだけではなく労働を撲滅したいのである。厳密に言えば、ブルシットジョブは撲滅しなくても構わないと思っている。

どういうことか? 詳しく見ていこう。

ブルシットジョブとは「本人が無意味であると感じている仕事」を意味する。料理人や、ごみ収集人、SF作家が、自分の仕事がまったく無意味であると考えているとは思えない。人々の腹を満たしたり、街を清潔に保ったり、エンタメで人々を喜ばせたりする意味があるからだ。だが、書類を埋めるだけの仕事や、誰も聴いていないセミナーを開催する仕事は、本人が無意味だと感じている可能性が高い。無意味と感じているならブルシットジョブである。

ここでいう意味とは「社会への貢献度」を指す傾向にある。つまり、誰か自分以外の人間の生命を維持したり、楽しませたり、街のインフラを守ったりすることには意味があり、そうした結果を得られない仕事には意味がなくブルシット・・・という判断をくだされる。

逆に言えば、本人がそれをやって楽しいかどうかは度外視される傾向にある。たとえば、朝から晩までペン回ししたいくらいにペン回しがとんでもなく好きな人に対して「部屋のなかで一日中ペン回ししていろ」という仕事が与えられたとして、彼はペン回しを楽しむ。そして同時に「この仕事には意味がない」と感じているわけだ。つまり、楽しいがブルシットジョブであるという可能性は十分に存在する。あるいは、クソ広告であると理解しながらクソ広告作りに夢中になる人もいるだろうし、書類穴埋めがだんだん快感になってくる人もいる。ブルシットジョブの提唱者であるグレーバーの論のなかでは登場することはなかったが、ブルシットジョブエンジョイ勢は一定数存在するのである。

僕はエンジョイ勢がやるブルシットジョブに目くじらを立てる必要がないと思っている。では、僕が撲滅したい労働とはなんなのか?

僕は労働を「他者から強制される不愉快な営み」であると定義した。つまりそれがどんな行為であろうが、強制されていてなおかつ不愉快であれば労働である。逆に、強制されていても楽しければ労働ではなく、不愉快であっても強制されていなくても労働ではない。

※労働の定義については以下を参照のこと。

この定義では社会への貢献は完全に度外視している。老人のオムツを替えるような行為であろうが強制されていて不愉快なら労働だし、自発的に楽しくやっているなら労働ではないのである。

さて、ここで2つの軸を使って仕事全般(賃金労働全般)を分類してみよう。その2つの軸とは「社会への貢献をしているかどうか」と「楽しいかどうか」である(強制は一旦脇に置く)。すると、次の4つに分類することができるだろう。


A.社会に貢献せず、楽しくない仕事

→退屈なブルシットジョブ(=労働)


B.社会に貢献せず、楽しい仕事

→楽しいブルシットジョブ(=非労働)


C.社会に貢献し、楽しくない仕事

→シットジョブ?(=労働)


D.社会に貢献し、楽しい仕事


→???(=非労働)


※シットジョブとは主に低賃金で搾取されるエッセンシャルワークを意味する。厳密に言えばCには「社会に貢献し、楽しくないが、高収入」という仕事も含まれるため、Cをシットジョブと括るのは適切ではない。ただし、「社会に貢献し、楽しくないが、高収入」という仕事はあまり多くは存在しないように思われるので、一旦「シットジョブ」とひとくくりにする。

ブルシット・ジョブの撲滅とはAとBの撲滅である。一方で、僕が考える労働の撲滅とはAとCの撲滅なのである。つまり、労働なき世界とは、万人が社会に貢献しようがしまいがそんなことは気にせず楽しいことだけをやる世界である。

もちろん多くの人はCなくしては社会が成り立たないと考えるため、労働なき世界というテーゼが広く受け入れられることは稀である。しかし、なぜCなくして社会が成り立たないのか? それは老人のオムツを替えたり、電気工事をしたりするようなエッセンシャルワークが多くの場面で苦痛であると想像されているからである。

AIやロボットに任せればCが撲滅可能であると主張するテクノロジー楽観論ですら、エッセンシャルワークが常に苦痛であるという前提から抜け出せていない。苦痛だと考えているからこそすべてが機械化できるという非現実的な考えに夢中になっているのである。当たり前だが苦痛でないのなら機械化する必要はない。僕たちは1秒でラーメンを食べるスーツを発明したいとは思わないし、登山道に動く歩道をつけようとは思わない。

これに反論することが、アンチワーク哲学の一丁目一番地である。他者へ貢献することはもともと苦痛でもなんでもない。ただの楽しい遊びなのである。他者の期待やニーズに応える場合だってそうだ。自発的に取り組まれているならテレビゲームをやったり、楽しく飲み食いしたりするのと変わらない遊びなのである。

もしそれが遊びなのであれば、「誰がどれだけ社会に貢献したか?」といった点は気にする必要がないし、わざわざ貢献度を測る必要もない。たまたま社会に貢献する人と、しない人がいるだけである。

小さい子どもを見ていればそのことを痛感する。子どもは料理をつくったり、ごみを出したり、トイレを掃除したりするような行為をやりたがる。その一方で、「ご飯食べなさい」と言われても食べないし、レジャーランドに行って「ほらせかっく来たんだから楽しみなさい」と言っても楽しまない。これは「食事や娯楽=楽しい、お金を払ってでもやりたいこと」「掃除やゴミ出し=楽しくない、お金を受け取らなければやりたくないこと」という分類が人間にとって本質的でないことを意味しているのではないか? 子どもにとっては「やりたいと思うかどうか」あるいは「強制されているかどうか」の方が重要なのだ。

また、子どもとお店屋さんごっこをしてみれば、どっちがお金を払う側で、どっちがお金を受け取る側かを子どもはなかなか理解できない。そもそも貢献し、対価を受け取るという発想が、子どもにとっては不自然なのだ。やりたいことをやっているだけなのだから、それによって対価を受け取る必要を彼は感じない。すべてが遊びであるならば、対価という発想がそもそも必要ないのだ。

子どもだけではなく本当は大人にとってもそうなのである。労働という不愉快な強制が存在するときだけ、金という対価が必要とされる。裏を返せば、あらゆる強制がなくなれば、金が必要なくなる。

すべてが無料で、誰にもなにも強制されることなく、クレジットカードの支払いや住宅ローン、確定申告に悩まされることもなく、レジ打ちも月次決算もレシートもなにも必要ない世界である。好きなように他者に貢献し、好きなように貢献を受け取る。

最高の世界ではないか? そんな世界が実現したなら、あなたはなにをするだろうか?

念押ししておくが、僕は利己的な人間やサイコパス、詐欺師に出会ったことのない世間知らずではない。世界には犯罪や戦争があふれかえっているし、他人に無関心な都会の人々を知らないではない。それでもなお、僕は労働なき世界が可能であり、金のない世界が可能であると主張しているのである。

僕はこれを非現実的な理想論として掲げているのではない。現実的に十分実現可能であると考えている。なるほどそれは10年や20年では達成できないだろう。だが、100年単位の時間があれば十分に成し遂げられるはずだ。

それが可能である根拠は、『14歳からのアンチワーク哲学』という本の中に書いた。


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これを読んでも労働なき世界と言うビジョンはなかなか信じられるようなものではあるまい。しかし、ここに書いていることを丸っきり誤りであると断言することはおそらく不可能である。労働なき世界には同意できなくても、この社会があまりにもイカれていることは、この本を読めば同意してくれるはずだ。

そこを理解してもらえさえすれば、労働の撲滅へとまた近づいていくのである。ブルシットジョブもいいけれど、やっぱり僕は労働を撲滅したいのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!