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「働く=傍を楽にする」への批判 − あるいは、日本における技術への問い

初めに断っておく。僕は「傍を楽にする」という言葉遊びを批判するが、語源として間違っていることを指摘したいわけではない。そうではなくこの言葉が持つ「周りの人々を楽にすること」が無条件で素晴らしいという前提を批判したいのである。

「楽にする」とはベッドに転がっているだけで、勝手に食事が口の中に運ばれてくるような事態を意味しているように思われる。そこまで極端な「楽」は誰も想定していないとは言え、そこに近づけば近づくほど「楽」であり「望ましい」という前提は誰しもが抱いているのではないだろうか。その発想に基づいているのが洗濯機であり、ウーバーイーツであり、自家用車であり、手ぶらバーベキューである。

しかし、介護や看護の現場では常識となっているが、衰弱した老人に元気になってもらう最良の方法は、1から10まで周りが世話をすることではない。自立できる環境を整えることである。子育てにおいても同様だ。子どもは黙って食事が出てくるのを待っているよりも、キッチンに入ってバタバタと手伝いたがる。ソファで黙ってYouTubeをみている子どもはつまらなそうだ。

このことからなにがわかるだろうか? 明らかに導き出されるのは、人は全てを世話をされるよりも、自分の手で生活を紡いでいる実感の方を欲望するという結論だろう。

僕は常々、「欲望」という言葉の使用方法が誤っていることを指摘してきた。人は「楽をすること」も欲するが、「楽をしないこと」も欲する(そして「傍を楽にすること」も欲する)。あまりにも傍を楽にしすぎると「楽をしたくない」という欲望を阻害することになるのだ。

もちろん、だからといって僕は日本中の米を野球のボールで脱穀するべきだとか、スプーンで土木工事をするべきだとか、そういうことを言っているのではない。取り除かれて然るべき苦労だってあるのだ。

ただし、それがどんな種類の作業かによって決定されるわけではない。例えば、孤独に子育てをしているシングルマザーを無償でサポートするベビーシッターは彼女にとって救いになるだろう。しかし、引退したお年寄りが孫のおむつを替えようとしているところにベビーシッターがやってきたとしてお年寄りは喜ぶとは思えない。

これはシングルマザーが愛情や思いやりを持たない怠惰な人物であることを意味しない。彼女は忙しいにもかかわらず、自分が一人きりで子育てをすることを半ば強制されているのだ。余裕がなくなって当然だろう(子どもを産んだのは自分の選択なのだからそれも自発的だという反論もありうるだろうが、実際に産んでみなければ子育ての大変さはわからないのが普通だ)。

その苦労を人が嫌悪するかどうかは、強制的かどうかや、あまりにも長時間かどうか、といった点で決定されると思われる。確かに誰もが嫌悪しがちな作業もあるし、その人物の性格にも左右される。それでも、強制の度合いや長時間かどうかの方が、より大きな要因のように思われる(誰か統計取ってくれないだろうか)。

このように考えると、テクノロジーのあり方も変化を迫られる必要がある。テクノロジーを通じて人を楽にすることは良いこととは限らないのだから。

人が自分の手で生活を紡いでいる実感を欲望するのなら、理想的なテクノロジーは生活行為の代替ではなく、行為能力の拡張を指向しなければならない。

これはE・F・シューマッハーが「中間技術」と呼んだような、あるいはイヴァン・イリイチが「コンビヴィアリティのための道具」と呼んだようなものを意味することになる気がしている。

とはいえ、僕はこの2人の説明は極めて歯切れが悪いと感じずにはいられなかった。要するに工場で大量生産するような道具はダメで、溶接機とかインパクトドライバーはいいよね、みたいな話なのだが、どうにも腑に落ちない。

そもそも代替と拡張の2つの技術は境界線が曖昧だ。ブンブンチョッパーは行為能力の拡張でもありつつ、微塵切りという行為を代替している。自家用車は移動能力の拡張でもありつつ、歩くという行為を代替している。

ならば技術そのものの性質に問題があると考えて、良い技術と悪い技術を分類するのではなくて、技術への向き合い方にフォーカスすべきではないだろうか?

具体的には「楽であればあるほどいい」というクレイジーな発想を捨て去ることである。「楽であればあるほどいい」という発想にのっとれば、ありとあらゆるものは自動的に、効率的に、大量に生産される方が良いということになる。

この価値観があまりにも常識化しているため、ブンブンチョッパーを使わずに微塵切りをしようとする人は、「ブンブンチョッパーは逆に細かくなりすぎてモサつく」といった理由を用意しなければならなくなる。「ブンブンチョッパーは楽しくないからみじん切りするわ」と発言する人がいたとすれば、彼は奇人か狂人の類だとみなされるだろう。効率至上主義に全員が同意していると前提されているからだ。

しかし、彼が奇人か狂人とみなされない価値観が前提されていたなら? 生活そのものの喜びが目的となっている社会であったなら? 効率が口実にすぎない社会であったなら? 人々は自分を従属させるようなテクノロジーと手を切ることが容易になる。

そもそも効率至上主義とはカルト宗教のようなものである。効率的に生産すべき客観的な理由などどこにもないのだから。一方で、生活の喜びを追求するべきことには明確な根拠がある。「嬉しい」とか「楽しい」という根拠だ。生活に喜びがあることが望ましいことを否定することは誰にもできない。それは「人間は無意味に苦しんだ方がいい」と言っているのに等しいのだから。

さて、ずいぶん遠回りしてきたが、「傍を楽にする」という言葉を批判する理由はこれにて説明ができたと思われる。こんな文章を書くのはまっこと効率が悪いのだけれど、僕にとっての喜びなのだ。

喜びを追求すること。それだけが人生であったなら、どれだけ社会は素晴らしかったか。反出生主義なんて現れるはずはなかったろうに。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!