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なぜアンチワーク哲学は、道徳的なお説教をしないのか?【アンチワーク哲学】

世間一般で考えられているように、人間の行動原理は金銭欲や権力欲、支配欲、そのほかの三大欲求にだけ突き動かされているわけではないとアンチワーク哲学は考える。むしろすべての行動をこれらの数少ない欲求・欲望(アンチワーク哲学では両者を区別せずまとめて「欲望」と呼ぶ)に還元しようとする考え方は「すべては神の御業みわざ」と言い切るに等しい宗教的な態度であるとして批判している。

そうではなくアンチワーク哲学では、あらゆる行動は、それぞれに対応した欲望が引き起こしていると解釈する。人にティッシュを渡すのは、ティッシュを渡したいという欲望があったから。ペン回しを練習するのは、ペン回しを練習したいという欲望があったから。人に貢献するのは、貢献欲があったから。

ただし、ここで注意したいのは、あくまで人間の動機は複合的であるということだ。人に貢献するとき、相手に喜んでもらいたいという感情も含まれているだろうし、うっすらと見返りを期待しているかもしれない。あるいは、自分の印象を高めてドヤりたいという感情もまったくゼロとは言えないだろう。しかし、入り混じった感情を踏まえて実際に行動した内容が「貢献」であったなら、その感情の集合体は「貢献欲」であった。そうした解釈をするのが、アンチワーク哲学である。

アンチワーク哲学は「見返りを求めてはならない」とか「承認欲求を抱いていはならない」といった禁止命令をくだすことはない。アンチワーク哲学の骨子は欲望の徹底的な追及であり、欲望の構成要素となるあらゆる感情は尊重される。

むしろ「こういう感情を抱くのは良くないことだ」といった従来の価値観の方を批判している。それはアンチワーク哲学が批判する「強制」なのである。どのような感情を抱いて、どのように感情を追求しようが構わないし、それを止める権利は本来誰にもない。

金銭欲や承認欲求はもちろん、支配欲すらそうなのだ。

アンチワーク哲学は、支配したいと感じた人が誰かを支配しようと働きかける行為を禁止するつもりはない。ただし、それが不可能であるような社会システムをつくろう呼びかけているのである。そのために必要なのがベーシックインカムなのだ。BIがあるなら、強制という意味での労働からはいつでも逃れることが可能になる。そのとき誰かを支配するのはむずかしい。そうなってしまえば、強権的な人物の支配欲はくじかれてしまうだろう。いつしか彼にとって支配とは、「火星に行きたい」というレベルの夢物語へと変わり、一晩寝たら忘れて、別の遊びを追求し始めるに違いない。あるいは、気まぐれに誰かの命令系統に服従することがあってもいい。それはいつでも辞められるのだから。

ただし、アンチワーク哲学は誰も他人に興味を持たない行き過ぎた個人主義とは区別されることを、強調しなければならない。アンチワーク哲学は道徳的なマナーやモラル(それは道徳の仮面をかぶった強制である)を押し付けるのではなく、「お願い」をベースにしたコミュニケーションを重視する。

これは言葉遊びではない。道徳とお願いは似て非なるものなのだ。上司と食事をしていて「お箸取ってくれる?」と言われるのと、「こういうときは自分から気づいてお箸を取るもんでしょ? 常識的に考えてさぁ」と言われるのとまったく同じ体験であると言えるだろうか? そんなはずがない。前者であれば何の気兼ねもなくお箸を渡すだろうが、後者ならお箸を投げつけたいという感情を押さえつけながら震える手でお箸を渡すことになるだろう。

道徳を押し付けられると人は強制であると感じ不愉快だと感じる傾向にある。また、それが権力者による押し付けであった場合、それは間違いなく強制として働き、さらなる不愉快と化す。一方でお願いはそうではない。お願いに応答するとき人は自発的であると感じられるし、人の助けになることは快楽をもたらす体験ですらある。

しかしこのような観点が取り沙汰されることは少なく、お願いと命令や道徳は常に混同される。それだけ僕たちの社会は道徳的な命令に従うことを当たり前のものとしてみなしているのである(デートをマニュアル化している現代社会は、相手を喜ばせたいという欲望を封じ込め、自分は相手を喜ばせたいわけではなく単にセックスしたいだけであるという感覚を抱かせてしまう)。あるいは、命令や強制、道徳がなければ大混乱に陥ると考えるのである。

アンチワーク哲学はむしろ命令や強制、道徳の方が混乱をもたらしていると主張しているのである。

欲望のままに生きると言ったときに大混乱をイメージするのは、人間の欲望を見誤っているせいだと僕は考える。

相手が嫌な思いをするならそれをやめたいと思うのも欲望である。誰かが食べ物を独占しようとするなら、それをみんなに分配するように働きかけようとするのも欲望である。誰かが誰かに暴力を振るうならそれを仲裁したいと思うのも欲望である。自分の貢献がありがた迷惑であると感じたらそれをやめようと思うのも欲望である。誰も掃除しないトイレの黒ずみを落としたいと感じるのも欲望である。みんなが必要とする椅子やテーブルをつくりたいと思うのも欲望である。それでドヤりたいと思うのも欲望である。ドヤりすぎると印象が悪いのでドヤりすぎない謙虚な人物像を演出しようとするのも欲望である。そして、どうにも相手と上手くやれないと感じたなら、その場を離れようとするのも欲望である。

こうした行為はわざわざ道徳やルールによって命令される必要はないと僕は考える。むしろ道徳やルールは現実をうまく捉えきれずぎこちなく作動することは誰しもが知る通りである。なら、欲望のままに生きる方が全体的な効率がいいはずだ。

要するに最終的に大混乱に陥る前に、人間はなんとか帳尻を合わせることを欲望するはずだと考える。現に、この歪に設計された資本主義社会においても、なんとかなっているではないか? 本当に人間が利己的であったなら、子どもの世話や老人の介護をほっぽり出す人がもっと多いはずだし、エッセンシャルワークの大半は崩壊しているはずだ。

僕たちは、河川敷をきれいにしたいとか、ホームレスに住まいを与えたいとか、飢えた子どもの面倒をみたいといった欲望を追求することをほとんど禁止されている。労働でそれどころではないし、それを生業にするためにはマネタイズという不愉快な曲芸をするか、助成金獲得のために書類の上でサーカスを演じなければならない。

こういう非効率な社会に僕はむしゃくしゃしているのである。欲望と感情を受け入れて、ありのままに行動すること。それを可能な社会に変えていくこと。それがアンチワーク哲学のやりたいことなのだ。これは人間観の更新であり、認知上の革命である。労働の撲滅可能性は、この人間観から必然的に演繹されているだけにすぎないのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!