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結局は「親切」だけなのかもしれない、と思った話


Noteで有料日記を追ってるある小説家の人が、プロジェクト・ヘイル・メアリーを読んでいる感想でこんなことを言っていたんです。

ありえないような展開や人類愛や使命感といった要素もたしかにすごいけど、結局、この話に感じる「良さ」って、親切にされるとうれしいとかそういう話じゃないか、というようなこと。これは私の要約。

確かにそうなのかもって思ったんですよね。
プロジェクト・ヘイル・メアリーは本当にすごくて楽しくておもしろくてすばらしくて、でもネタバレしたくないので「私を……私を信じて読んでくれ……!」としか言えなかったんですけども。

でもSFに親しんでるわけでもなさそうな人たちにもウケてる気配なのは、そこなのかもって。親切にされると嬉しい。誰かに親切にしてもうれしい。誰かが誰かに親切にされているのを見るだけでも嬉しい。人間どうしの関わりの「よさみ」って、親切っていうことばに全て集約できるんじゃないか?

友情だって、「親切にしたら感謝と親切が返ってくる関係性」ってことだし。それは恋愛でもそうだし、なんならブロマンスっていうのは「ただそこに親切を無限やりとりできる関係性が横たわっている」っていう理想の関係のことなのかもしれないとすら思ったんです。

親切って「この人になら親切にしても大丈夫」っていう人にしかできないじゃないですか。電車の中で初老のかたに席をゆずる、とか。
かと思えば「この人に親切にしたつもりなのに悪意にとられた」とか「親切だったのに相手がつけあがった」とかいうことも全然ある。親切って、双方に一定以上のなんらかのレベルがないと成立しない行為です。

「相手に強めの親切を差し出せるし、相手からの強めの親切も受け取ることができる」という理想の関係性、それをブロマンスとかバディとかBLとかに、見出す、だからそういう物語が好きなんじゃないかな。少なくとも私はそうかもしれない。親切が可能な信頼関係。

他者だけじゃなく、自分自身ですらそう。
自分をいたわるとかご自愛とかって「自分自身に親切にする」っていうことで、自宅の動線をちょっと整えるとか明日着る服を用意しておくとかちょっといいケーキを買うとかも「自分自身へ親切にする」ってことのはず。
そして自分自身にたいして親切にならずに雑に扱うのがセルフネグレクト……

つまり人間の、というまで広くなくても、とりあえず私が認識できる人間関係(自分自身も含む)って、「親切度」ですべて測れるのでは、と、昨日の夜からぼんやり考えています。

一緒に食事をした時に水をとりにいくくらいなんでもないくらいの親切度は持ってるけどお金貸してって言われたら絶対断るくらいの親切度とか……いやなんかこれはちょっと違う気がしてきたな……

「この人には親切にしたい」って思える気持ちを強く抱ける人のことを、好きな人とか愛情を持ってるとか、そういうふうに呼ぶんじゃないか? 全部「親切であるかどうか」で考えられるんじゃないか?

たとえば自宅の動線やあれこれを合理的とかでなく「親切かどうか」で考えるとか……少なくとも仕事の資料は「親切」指針でけっこうよくなりそうな気がする……いや合理性に持ち込むんでなく、人との付き合い方も、好き嫌いではなくて「私はどのくらいこの人に親切にしてもいいと思っているのか」で捉え直すとか。という、なんかそういう中学生みたいなことを考えています。


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