決意の苦さ

ここではオシャレにならなければいけない気がする。
控えめに流れるジャズ。皿にカップを置く音。新聞をめくる音。
すべてに脅迫されているみたいだ。


立花宏輝は木でできたカウンターに座っている。
他には、いかにも常連という客が数人いる。
今までの自分を変えるため、大人になれそうな気がしたカフェにやってきた。

僕はここにいていいんだろうか……。とても場違いな気がする……。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです。」
白髪まじりの長髪を後ろで束ねたマスターが、他の客にコーヒーを出す。とても爽やかな笑顔をしている。

………あの笑顔は……先生に似ている………。


高校の新体操部の顧問の前田先生。練習は厳しいが、笑顔を絶やすことのない先生だった。
僕は先生を心から信頼していた。そして、密かに憧れていた。
しかし、僕の記憶の中での先生の最後の顔は、悔しさで歪んでいた。


新体操は小学生からはじめた。最初は、親に連れてこられたのだが、はじめて出た大会がとても楽しかった。それから続けている。
新体操の人間の身体の美を追求していくところがとても好きだ。そして、演技が終わったあと、観客の笑顔を見れると、この上なくうれしい。
中学でもやっていたが、高校でも続けるかは悩んでいた。高校でやるとなったら中途半端な気持ちではダメだと思ったからだ。

そんなときに前田先生と出会った。

僕の住んでいる地域では、新体操部のある高校は先生のいるところだけだった。なので、続けるとなったらそこに行くことになる。そして、中学最後の大会のあと、前田先生にうちに来ないかと誘われた。
誘われたこともあり、僕はさらに悩んだ。

そんな僕を変えたのは先生の演技だった。

たまたま、先生の演技を見る機会があった。そこで見た演技に心を奪われた。人間の身体をここまで美しく見せられるのかと驚嘆した。さらに、堂々とした演技に、その時間だけ世界の中心は先生だと感じた。終わったあと、観客の歓声を聞きながら、僕は泣いていることに気づいた。

僕はこの先生のもとで新体操をやろうと決意した。
先生のように感動を与えられる人間になりたいと思った。


前田先生は練習中によく、
「努力したつもりになるな。」
と言っていた。
練習は厳しかったが、憧れの先生のもとということもあり、努力を続けることができていた。


高校二年。
僕はインターハイの代表の補欠に選ばれた。代表は新体操部の先輩である。

ある日、その先輩が骨折し出られなくなった。なので、繰り上がりで僕が代表に選ばれた。
みんなから、
「宏輝って運いいな。」
散々、そう言われた。でも、正直、自分の中には、選ばれてしまった、というモヤモヤした気持ちが残っていた。僕はそれを振り払うように練習した。
先生からは、
「努力したつもりになるなよ」
と、いつもの言葉が送られた。

しかし、結果は、思うような演技をすることができなかった。
前田先生からは
「お疲れさま。」
と一言だけ送られた。


高校三年。
僕は再び、インターハイの代表の座を掴むことができた。
今年はとても上手な一年生が入ってきて、もしかしたらダメかもしれないと思っていた。しかし、彼は試合の緊張感に呑まれ、いつも通りの演技ができていなかった。
……やっぱり、僕は運がいい………。
言葉にはしないが、そう思わずにはいられなかった。

僕は本番に向けて練習を重ねた。
「努力したつもりになるなよ。」
何度聞いたか分からない言葉をかけられる。
そんなこと、もう分かってる。最後の大会なんだ。ちゃんと努力してる。

結果は、また思うような演技できなかった。
「お疲れさま。」
先生は、何かをのみ込むようにして、一言だけ言った。


衣替えも終わり、厳しい冬の足音が聞こえてくる。
受験に向けて教室の空気が重くなる中、僕は推薦で大学が決まっていた。

そんな中迎えた定期テストで、僕は数学で赤点を取ってしまった。
気を抜いていた。


数日後。

ガラガラッ!!

教室のドアを開け、前田先生が立っていた。
「立花。職員室に来なさい。」
先生に呼ばれた。
これは、絶対に説教だな……。
定期テストで赤点を取ったのだから仕方ないと思い、職員室に行った。

先生が座っている前に立つ。
怒号を覚悟する。

しかし、

「……お前は何をやっているんだ………。」

先生の声は涙でにじんでいた。

「立花はいつも最後まで努力しきれないでいた。才能はあるのに、最後の最後で詰めきれないから結果に繋がっていなかった。……努力したつもりになるなと言っていただろう………。三年間、新体操をして、何を学んでいたんだ………。」

先生が弱々しく話す言葉の一つ一つが、僕の心を貫いていく。

先生は……いつも僕を見てくれていた………。そして、ちゃんと助言をしてくれていたのに……僕は聞く耳を持っていなかった………。

先生の悔しさで歪んだ顔は、にじんで見えなくなった。


「お待たせいたしました。アイスコーヒーです。」
目の前に水滴のついたグラスが置かれる。

大学生になった僕は、同じことを繰り返してしまいそうで、新体操は続けられなかった。
代わりに、何かをはじめたかった。そして、自分を変えたかった。

アイスコーヒーを一口飲んだ。

!!!

自分の身体に衝撃が走るのを感じた。

苦味、酸味、甘みがバランスよくマッチしていて、鼻に抜ける香りまでおいしい。
僕は頬が緩み、
「おいしい。」
と、口から滴り落ちた。

「ありがとうございます。」
マスターがキラリとした笑顔を向けてくる。

僕はなんだかホッとした。

もう一度、店内を見渡してみる。
周りにいる客は、みんなリラックスした表情をしている。
ひかえめに流れるジャズ。皿にカップを置く音。新聞をめくる音。
すべてが心を解きほぐすためにある。
そんな空間である、カフェをつくり出すためにある。


僕もみんなを感動させるコーヒーを淹れたい。
みんなが笑顔になれるカフェをつくりたい。

「努力したつもりになるなよ。」

僕は、今度こそ、しっかりとその言葉を聴いた。

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