紫雨花(あじさい)
紫雨花(あじさい)が泣いている。
雨にうたれて、大粒の涙を流している。
時折、嗚咽が漏れるように肩を揺らす。
庭に咲いた、たった一輪の紫雨花が泣いている。
弥彦は紫雨花が嫌いだった。
雨を告げているようで嫌いだった。
弥彦はお通を愛している。
お通は紫雨花が好きだった。
庭で咲いた何輪もの紫雨花の前に、雨の中で、赤い傘を差したお通がかがんでいる。
お通はいつまででも紫雨花を見ている。
「もう、中に入りなさい。」
お通に呼びかける。
「もう少しだけ見ています。」
お通は少しだけ振り向き、応える。
「よく、そんなに見ていられるな。」
弥彦は枯草色の傘を差し、お通の隣に立った。
「こんなにうつくしい花は他にありませんよ。」
「うつくしい?私には、雨に濡れて泣いている、とても悲しい花に見える。」
「違いますよ。紫雨花は悲しい花ではありません。確かに、雨の中で見ることが多いので、泣いているように見えるかもしれません。でも、わたくしは、紫雨花は太陽を待ちつづける、希望の花だと思います。」
弥彦はお通の言っていることが理解できなかった。
しかし、このときのお通のやさしい横顔を忘れることができなかった。
弥彦は紫雨花が嫌いだった。
お通の最期に、姿を見せなかった紫雨花が嫌いだった。
お通は、寒くなるにつれて弱っていった。
次第に、起き上がれる回数が減っていき、桜が咲く頃には寝たきりになっていた。
「……紫雨花を見たい………。」
お通は、しきりに言っていた。
今年も、雨の降る薄暗い季節がやってきた。
庭の紫雨花は咲かなかった。
紫雨花を見ることなくお通は旅立った。
次の日、たった一輪だけ、庭の紫雨花が咲いた。
……今更、咲いても………遅いんだよ……。
向かい合う紫雨花も泣いている。
屋根を叩く雨音が消える。
雲が流れる。
陽が差す。
紫雨花の流した涙が光を放つ。
“でも、わたくしは、紫雨花は太陽を待ちつづける、希望の花だと思います。“
弥彦は、目を見張った。
目の前には、どれほど辛くて涙を流しても、太陽を待ち続けた花がある。
流した涙で、うつくしくかざる花がある。
そうだ。これから紫雨花を紫陽花と呼ぶことにしよう。