【大河ドラマを100倍楽しむ 王朝辞典】第十四回 藤原惟規(紫式部の弟)
川村裕子先生による、大河ドラマを100倍楽しむための関連人物解説!
第十四回 藤原惟規(紫式部の弟)
惟規というと必ず出てくるエピソードは残念なお話。父の為時から漢文を習っている時、そばで聞いていた紫式部の方が理解が早かった。それで「この子が男の子だったらな」と為時が残念がった話なんです。でも、惟規は本当にダメンズだったのでしょうか。
いえいえ、違います。惟規は父親の為時とそれほど立場が違うわけではなかったのね。正一位、従一位……。と続く官位のなかで、惟規は最終官位(最後の位)が従五位下。父親の為時は正五位下。だから、あんまり違わないですよね。
それに惟規はね、勅撰集(天皇が選んだ歌集)に十首も入っているんです。父親は有名な漢詩人だけど、和歌は勅撰集に四首のみ。当時はこの勅撰集に歌が入る、というのは大変な大変な名誉だったのです。
さて、そんな惟規ですが、文章生出身。大学寮に入っていたものと思われます。大学寮は平安時代唯一の大学です。とても厳しい大学でした。大学寮で試験を受けると文章生になって役人になれたのですね、とあっさり書きましたが、文章生になるのは楽なことではありませんでした。
大学寮の定員は約四百名。そのなかで、テストを受けて文章生になるのが二十名。だから、この二十名に入るのはとてもとても大変なことでした。文章生になってから、ようやく役人になれるのです。
よく知られたストーリーとしては『源氏物語』の夕霧が挙げられますよね。父が光源氏だから、そんなことしなくても良かったのですけど、光源氏のスパルタ教育によって、夕霧は、大学寮に入りました。そして猛勉強してテストに受かったのですね。
……というくらい難しい道ではありましたが、惟規はそこをクリアしたのです。つまり本当に頭が悪かったら文章生にはなれませんでした。文章生になるのはかなりの能力が必要だったのですね。
それなのに、どうしてダメンズと思われるのか。それは最初に書いた紫式部比較説話の力も大きいのです。でも、それだけではないようです。
たとえば、蔵人になった時、その理由として、他の候補者が若い人だったから、ということが『御堂関白記』(=道長の書いた日記)には書いてあります。
また『紫式部日記』には一〇〇八年(寛弘五年)の大晦日に強盗が入ったことが書かれています。その時に紫式部は惟規を呼んだのですね。でも、惟規は宮中から退出していました。もう帰っていたんですね。だから駆けつけることができませんでした。ただこれは、単に「退出していた」ということで、それが失態とは思えません。
それでは、ここで少し目を転じて、惟規の仕事について見てみましょうか。惟規はさきほども言ったように文章生。仕事の中心は文書関係。
文書の取り扱いというのは、今でも気を遣いますね。なぜなら内密なことが書いてある「紙」を運ぶからです。今だとA4のコピー用紙ぐらいしか思いつかないかもしれません。でも、当時は繊細な和紙なんですよ。
公式文書用紙(紙屋紙、陸奥紙)はプライベートな手紙の和紙(薄様)よりも強いとはいえ、それなりの注意をしなければすぐに破けます。文書というと文字の扱いと思うかもしれません。がしかし、文字が書いてある「紙の扱い」も慎重にしなければなりません。
惟規はこういった文(文字+紙)に関して、かなり信頼感があったと思われます。
たとえば、こんな資料を見てみましょうか。
これは名筆家行成が天皇から書写を頼まれ提出した記事ですね。「継色紙」というのは正方形の紙で、白、紫、藍、黄などの色で染めた紙を二枚継いだものです。だいたい和歌では上句(五七五)、下句(七七)を一枚ずつ書きました。そうです。散らし書きですね。豪華で繊細な紙。紙は薄様と思われます。雁皮で作られた紙ですね。
公的な文書の紙よりはずっと薄く、それも継いである紙。これを運ぶのは大変気を遣ったと思われます。作品の量も多く、今だったら、取り扱い要注意ですね。
そして、これを運んだのが惟規だったのです。無能だったらこのような神経を使う仕事はできないでしょう。それにしても天皇の依頼は、すさまじい作品の量、書写の量ですね。
さて、それでは最後に惟規の歌について見ましょうね。最後に挙げるのは、惟規の絶唱。といいますのも、惟規は一〇一一年(寛弘八年)の春に、越後守(=新潟県の県知事)となった父の為時とともに、越後に下りました。老齢の父を心配しての同行でした。
ところが、彼は、そこで病気になって亡くなってしまうのです。臨終になった時に惟規は歌を都にいる恋人の斎院の中将に贈りました。
「いかむ」は「生かむ」と「行かむ」の掛詞。これで思い出すのは「今はお別れしなければならない死への道が悲しくてなりません。でも、私が行きたいのは生きる道の方……」(限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり)です。
これは『源氏物語』の桐壺更衣の亡くなる直前の絶唱ですね。「いく」が「行く」と「生く」の掛詞で「生く」のなかに悲しみが滲んでいてつらい歌として有名。ただ、これは紫式部の弟の絶唱に似ていますね。
紫式部比較説話を語ったとされる父親、その父親が心配で越後までいっしょに行って亡くなってしまった惟規。親思いのやさしい惟規を無能呼ばわりすることは、できませんよね。
だいたい紫式部比較説話によるダメンズ惟規は『紫式部日記』の記事なんです。それでね、女性の書いた日記文学って「自賛譚」というのがあるんです。これは一言で言うと自慢話。『枕草子』などは有名ですし『蜻蛉日記』にもあります。
それからもう一つ追加すると、日記文学は事実ではありません。限りなくフィクションに近いノンフィクションなんですね。
だから、この惟規ダメンズストーリーは、もしかすると紫式部の「創作自慢話」かもしれないんですよ。
プロフィール
川村裕子(かわむら・ゆうこ)
1956年東京都生まれ。新潟産業大学名誉教授。活水女子大学、新潟産業大学、武蔵野大学を経て現職。立教大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期課程修了。博士(文学)。著書に『装いの王朝文化』(角川選書)、『平安女子の楽しい!生活』『平安男子の元気な!生活』(ともに岩波ジュニア新書)、編著書に『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 更級日記』(角川ソフィア文庫)など多数。
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