【八王子の地名の由来】”8人の王子”とは!?
東京都八王子市は、人口約56万人。
東京都の市部では、人口・面積ともに最大の町で、地盤が安定していて地震に強い町です。
近年では在宅やリモートワークなど、新しい仕事のスタイルも増え、ベットタウンとして益々人気が上がっています。
都心からのアクセスもしやすく、電車では、中央線・京王線・横浜線・八高線が走っており、車なら八王子ICから約30分ほどで都心部に到着します。
そして学園都市でもあり、多くの学生が町を盛り上げてくれていて、その特徴を生かした企業との連携もとても盛んです。
さらに自然豊かな環境で、日本の四季を季節ごとに感じられ、
日本遺産に選ばれました”霊気満山 高尾山”のそびえ立つ町でもあります。
そんな魅力満載の八王子ですが、
地名に入っている「八」と「王子」。
この2文字…これには何か意味がありそうですね!!
実際に八王子在住の方々に地名の由来について尋ねてみると、
「8人の王子がいたからだよ!」と答える方が多数。
どんな王子たちで、どうして8人も王子がいたのか。
早速”八王子の地名の由来”について調べてみました。
【地名の由来は”八王子信仰”?】
”八王子”という地名は東京都以外にも、
埼玉県・新潟県・愛知県・三重県・京都府・岡山県・山口県など全国にあります。
なぜかというと、牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子(八王子)を祀る八王子信仰が広がり地域の信仰を集め、地名として各地に定着していったからです。
ですので、ここ八王子市の地名の由来も、
実は八王子信仰がもとになっていたのです。
【8人の王子の正体が判明!!】
地名の由来が”牛頭天王と8人の王子を祀る八王子信仰”だということは分かりましたが、では8人の王子とは??
仏教の守護神である牛頭天王は神仏習合の神で、祇園精舎の守護神とされています。
牛頭天皇を祀る信仰は、もともとインドから中国を経て伝わってきたものですが、日本では疫病や農作物の害虫、その他にも邪気を払い流し去る神として、古代より祀られていたそうです。
そして牛頭天皇と頗梨采女(はりさいじょ)との間に八人の子がいるとされており、その八人の子を主神に従属する神々眷属神(けんぞくしん)とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として祀られ、全国に広がっていきました。
実は”八人の王子”とは、この神々眷属神の事だったのです!!
そして神々眷属神を祀っているのが八王子神社で、
地名八王子の起源となった社です。
この八王子神社を中心とした地域から八王子信仰が広まっていき、”八王子”という地名で呼ばれるようになっていったのです。
【王子=神々眷属神だった!】
神々しい名前がズラッと並んでいますが、こちらが神々眷属神です。
別名八将神とも呼ばれています。
迫力のある名前ばかりですね。
・太歳神(木曜星・総光天王)
・大将軍(金曜星・魔王天王)
・太陰神(土曜星・倶魔羅天王)
・歳刑神(水曜星・得達神天王)
・歳破神(土曜星・良侍天王)
・歳殺神(火曜星・侍神相天王)
・黄幡神(羅睺星・宅神相天王)
・豹尾神(計都星・蛇毒気神天王)
ですが明治初期に入ってから、神仏分離(神道と仏教という日本に根付いた宗教を分離する目的で出されたお布令の総称。)の為、
牛頭天王と習合していたスサノオと天照大神との誓約で化生した五男三女神に変えられてしまいました。
・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
・天乃菩卑能名 (アマノホヒ)
・天津日子根命(アマツヒコネ)
・活津日子根命(イクツヒコネ)
・熊野久須毘命(クマノクスビ)
・多紀理毘売命(タキリビメ)
・市寸島比売命(イチキシマヒメ)
・多岐都比売命(タキツヒメ)
ただし、神社によっては異なる神を祭神としていることもある。例えば八坂神社における八王子は八島士奴美神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大歳神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須製理毘売命である。
特に「八柱神社」については、単に八柱の神を祀るという意味の場合もある。
【八王子信仰はどうして広まったの?】
地名の由来は八王子信仰からきていて、その八王子信仰は、八王子神社を中心とし各地に広まっていきました。
では、八王子信仰とはどんな信仰なのか?
その答えは、宗関寺に残されている古記録に記されています。
八王子神社の由緒とその神宮寺(神社に付属して建てられた寺院)となった牛頭山神護寺(後の宗関寺)の縁起として伝えられた”華厳菩薩伝説”です。
【華厳菩薩伝説】
平安時代・延喜13年の秋、京都から訪れた妙行という学僧が、後の八王子城である深沢山山頂の岩屋で修行を始めました。
夜が更けると、にわかに強風が吹き、雷鳴がひびき、色々な妖怪が群れを成して現れ始めました。妖怪たちは、妙行の回りに押し寄せてくると、たちまち姿を消してしまいます。
その後、月明かりの下でお経を唱えていると、今度は岩屋の上から大蛇が降りてきて、妙行の回りにとぐろを巻いて眠ってしまいました。
妙行が、手にした如意棒で頭を打ち「目を覚ませ」と言うと、大蛇はたちまち消えてしまったのです。
夜が明けると、8人の童子を伴った神が現れ、
「私に属する神々や弟子たちは、あなたの徳に感服しました。願わくば、この地にとどまってください。私は、あなたの神護の法にしたがいます」と告げたのです。
妙行が名前を問うと、
「私は牛頭天王で、伴っているのは八王子です」と答え、姿を消してしまいました。
妙行はさらに修行を積み、延喜16年、深沢山を天王峰とし、周囲の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祭祠を建て、牛頭天王と八王子を祀る八王子信仰が始まったのです。翌年、深沢山のふもとに一寺が建立されました。
天慶2年、妙行の功績が都の朱雀天皇の耳に届き、”華厳菩薩”の称号が贈られ、寺名も”牛頭山神護寺”(後の宗関寺)と改められたのです。
このように華厳菩薩伝説から八王子信仰が始まり、八王子神社や牛頭山神護寺が建立されました。そして各地に八王子信仰が広まっていったのです。
【北条氏照と八王子城】
八王子神社を中心とした地域がいつ頃から八王子と呼ばれるようになったのか、はっきりとは分りませんが、
北条氏三代目当主北条氏康の書状の中に「八王子方面」を意味する記述があり、武田信玄軍との戦の最中、富永孫四郎に「一刻も早く滝山城に移り、由井の八日市へ着陣するように。」と送ったものです。
この内容から16世紀の半ばには、八王子神社とその神宮寺である牛頭山神護寺から由井郷にいたる地域は”八王子”と呼ばれていたことがわかります。
その後、天正10年を過ぎた頃、北条氏照は、この八王子神社が建立されている深沢山に新しい城を築き始めました。
そして八王子権現をこの新しい城の守護神とし、”八王子城”と呼ばれるようになりました。
こちらも地名八王子の起源とされています。
天正14年頃には滝山城から八王子城に移転したといわれていて、
移転した背景には諸説ありますが、豊臣秀吉に備えるためだったようです。
秀吉と戦うことになれば、最終的には本城である小田原城でろう城戦になると考えて、各地におかれた支城はできるだけ少ない人数で守る必要があると考えていました。
そこで防御範囲の広い滝山城ではなく、山城の八王子城を防御拠点として築いたのです。
こうして戦いに備えた八王子城でしたが、天正18年(1590年)6月23日、豊臣軍の圧倒的攻勢のもとわずか1日で落城してしまいます。
城後、徳川家康の代官大久保長安によって、現在の八王子市街の地に新しい横山十五宿(八王子宿)が建造され発展していくにつれて、八王子の地域は”元八王子村”と呼ばれるようになり、地元では神護寺に由来する”じごじ”という通称地名も受け継がれてきました。
【まとめ】
地名の由来とは様々な事柄が時と共に移り変わりながら、その時代背景を映し出しています。
”8人の王子の正体とは、神々眷属神のことであり、
華厳菩薩伝説より神々眷属神を祀る八王子信仰が始まり、
八王子神社・牛頭山神護寺が建立され、
北条氏照が八王子権現を城の守護神と祀り八王子城を築城しました。
そして各地に八王子信仰が広まり、今の八王子という地名が作られていったのです。”
今回は花ごころのある八王子の地名の由来について書きましたが、
改めて自分の暮らしている町を知ることは、とても有意義でした。
知れば知るほど好きになる町、それが八王子です。
そして、その八王子に【八王子高尾 花ごころ】はあります。
八王子という立地の良さや、花ごころのある心源院の自然豊かな環境がとても素晴らしく、鳥のさえずりや風の通る音が聞こえる静かな場所で、のんびりとした時間の流れを感じることが出来る素敵な所です。
大切な方の周りにはたくさんの花が咲き誇り、いつも明るく見守ってくれています。
お参りに来てくださる方は、日本の四季を楽しみながら、大切な方との時間を楽しんでいただけます。
ぜひ八王子にお越しの際は、お立ち寄りください。
「明るい霊園 花ごころ」は、たくさんの季節のお花たちと共に、
皆さまにお会いできる日をお待ちしております。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
これからも引き続き記事を書いていきますので、ぜひ読んでみてくださいね。
【資料・ご見学はこちらから↓↓】
光とガラスの花壇墓地 花ごころ
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