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北大を卒業しました(1)

私は2020年3月25日をもって、北海道大学総合化学院修士課程を修了しました。この記事の投稿をもって、私の本アカウントによる最後の投稿にしたいと思います。

投稿内容は大きく2つ。1つは学習院大学の謝辞に対する批判と、もう1つはカコタムエルムに対する私の謝辞です。(内容が膨らんだので、2回に分けて投稿します)

学習院大学の謝辞に対する批判

私は、Controversialなモノは、自分が持ちえなかった考えを与えてくれる場合があるし、各々の考えていることが極端に露わになるので面白いと思っています。僕は尖ってる人間の方が、ふわふわと付和雷同している人間よりも好きです(仲良くなれるかは別として)。

ただこの謝辞に関しては、大いなる違和感を覚えたので、最後の投稿としてはふさわしくないかもしれませんが、この違和感を言葉にしておきたいと思いました。以下に謝辞全文を引用します。違和感を覚えた部分を太字にしておきます。

 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
 すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
 私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない

よくないものは良くないって言っていこう、ちゃんと自分で考えて精神的に自立していこう、頑張った自分をほめようと思う、っていう主張は個人的に完全に同意できます。

ただ、よく指摘されているように、"私たち"には言論の自由があると言っておきながら、素晴らしい学績を収めたので「おかしい」ことを口にする権利があるという、権利があたかも成果を収めた人間にしか付与されないかのような主張をしている点に、矛盾と問題があります。

加えて、新しいことやら、進化や発展などと書かれていますが、この謝辞において、本人の掲げているであろう「新しさ」がいまいち伝わってきません。美辞麗句を並べない謝辞を書くことが、その「新しさ」だとは到底考えられませんが、「新しいこと」という言葉に確たる定義や意味づけがなされていない以上、この言葉は、「自分は無能でなく革新的なのだ!」と誇示する以外の役割を果たすことができません。

美辞麗句を並べない謝辞は革新的で、自分に一番感謝するのは結構なことだと思うし、当人は相当の努力をなされたと思われます。しかしながら、この謝辞は、自分が優れた人間であり、無能たちとは違うんだ!という主張をするためだけに作られた薄っぺらいもののように個人的に思われます。もっときちんと言葉の意味付けをして、当人の考えをより鮮明に表し、よりロックでファンキーでContrnversialなカッコいい謝辞をつくって欲しかった…。これじゃあただの自己礼賛だよ。

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