東大現代文を読んで考えたこと

2020年の北大前期入試合格発表が終わりました。この場を借りて、合格したみなさんに祝意を表します。おめでとうございます!不合格だった方、これまでの間おつかれさまでした。合否問わず、みなさんが納得してこれから先、歩んで行かれることを一個人として祈念しております。

皆さんの中に、2020年東大現代文を読まれた方がどれだけいらっしゃるかはわかりませんが、今年の東大現代文の内容は自分に刺さりました。

ざっくりと内容を説明します。

教育を通じて階層が再生産されている。教育機会の均等が実現されたように見える近代以後の社会において、この格差は努力や才能を反映したものと考えられており、社会的な反発を招くことはない。だが実際には、努力や才能など存在せず、それらはすべて当人を取り巻く環境(両親のDNAや環境などの外来要素)に依存しているものに過ぎない。自由意志は幻想であって、我々は外来要素の沈殿物に過ぎないのである。

以上のように、攻めた内容になっています。これを日本の最大学府である東大が、入試問題として東大受験生に読ませるのか、と思いました。東大は伝統的に"死"についての文章が好きなはずだったんですが、今年に限って言えば、かなりメッセージ性に富んだ文章を選択してきたわけです。しかも、昨年度の東大入学式において、上野千鶴子さんが以下のような祝辞を行っているわけです。

"あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。"

つまりですね、東大は一貫して、周囲の環境があってこそ、いまのあなたが存在するのだ、(驕れるなよ)ということを伝えようとしているのです。

かく言う自分は、両親ともに大学を卒業しておらず(父:高卒、母:短大卒)、遺伝子レベルでは優れていないと考えられます。他方で、両親は一生懸命働き自分の勉学をサポートしてくれました。そのような両親が存在してはじめて今の自分が存在していると、強く確信しており、両親に対して感謝の念に堪えません。

水曜日のダウンタウンで、トンビがタカを生むにも限界ある説の検証をしていました。その中で、両親が中卒の東大生にインタビューをしていたのですが、親の育て方がよかったから今の自分があると言っていました。
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これらを踏まえると、両親の遺伝子の影響に関してはあまり同意できませんが、確かに周囲の環境が個人に与える影響というのは大きいように思われます。(実際、自分が駿台お茶の水3号館っていう東大専門予備校で浪人していた時、周りにいた人間たちは、外務省キャリアだったり宮内庁キャリアだったりのご子息たちで、彼らが環境的に恵まれているであろうことは容易に想像がつきます。)

すなわち、環境に恵まれない人間は相対的にHandicapを背負ってしまっている可能性は否定できないわけです。もっと言うと、個人的に、この状況を「教育の機会が均等である」なんて思うことはできないのです。

遺伝子うんぬんの話をしだすと、優生学とか、デザインベイビーとかの話が始まって、結局話が発散してしまって埒が明かないので、遺伝子の影響は存在しない、という仮定を置きます(個人的に遺伝子の影響は無視できると思っています)。そうすると、教育の機会を真に均等にするためには、親の所得や生まれた場所などに依存せず、かつ、子供が勉強をしたいと思ったら勉強できる環境(質的にも量的にも平等な)を提供できる教育が存在しないといけません。

こんな教育が存在しうるのかをまじめに考えたら、正直ほぼ100%不可能であり、上にあげた真の意味で機会均等な教育なんていうものは理想論に過ぎないと思います。だって現実には日本は社会主義の国じゃなくて、このような「教育」は、差異を媒介にして利益を追求する資本主義というシステム構造上あり得なくて、「教育」にはお金がかかってしまうし、生活という現実を目の前にしたら、「大学進学」<「就職」になってしまうことが多々あるのですから。

じゃあどうしたらいいの?どうしてこんな文章を東大は出したの?日本を社会主義の国にすればいいの?結局、僕はそう思ったわけです。

まず、社会主義国家になればいいの?っていうことを考えたんですが、それは自分が調べた以上は正しくないらしいです。というのも、社会主義というのは大きな政府なので、どうしても中央集権的になって官僚制が発達した社会が出来てしまうらしく、結局は、きっと良い教育へのアクセスのしやすさに差が出来てしまうはずです。

次に、俺が無料で塾をやろうかな、とか冗談半分で思ったんですが、自分のキャパには限界があるし、それ以上に、生きていくためにはお金が必要なので、諦めました。

で、まあ結局、どうしようもないなあ、と思って、上野千鶴子さんの祝辞に答えを求めてみたんですね。この祝辞のことは今年の文章を読む前から知っていて、一貫したメッセージを主張してくる東大には東大なりの落としどころがあるだろうと、そう考えたんです。そうしたら、この問いの一つの落としどころのような一文を見出すことが出来ました。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください

それは、あなたがたがこれまで獲得してきたものを、恵まれないひとびとを助けるために使ってください。ということです。

かなり宣伝めいてしまいますが、札幌には幸いにも教育支援を行っているKacotamというNPO法人が存在します。もし、僕と同様のことを考えている方がいらっしゃるなら、そこに、ないしはそのような活動に参加することは、以上の問いに対する一つの答えになり得るのではないかと思います。

僕は約3年間(ここ1年は修論に集中してしまい、なかなか活動できませんでしたが…)ここに参加していました。

その中で、受験生に勉強を教え、彼らのために、自分の得てきたものを還元しようと努めてきました。彼らの成長を見届けられたり、いろんなことを逆に教えられたりと、非常にやりがいのある、思い出深い経験をすることができました。きっと自分がボケてしまうか、死んでしまわない限り、生涯忘れない記憶になることでしょう。

もちろん、自分の稼ぎを得たいと塾講師のバイトをしよう思う方はいらっしゃるでしょうし、それはいたって普通のことです。ですが、もし、以上のメッセージに対する答えを見出したいんだ、と思えるならば、是非ともKacotamないし本サークルに参加していただけたら、これ以上、僕にとって幸いなことはありません。

最後に、僕と入れ替わりに北大に入学する新入生へ。やりたいことを思う存分やってください。みんなが充実した大学生活を送られることを心より願っております。



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