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みんなシューマイだ

生きている、ということがなんだか不思議に思える。どこから自分だったのか。覚えていないところから突然覚えているところが始まって、時々覚えていないところがポツポツと出てくるけれど、なんとか自分というものが続いてきた。そんな自分もいつかはぶっつりと途切れて永遠にそのまんまになるのだろうと思うと不思議で仕方がない。

暑いけれど、まだ蝉は鳴いていない。夏らしいけれど、まだ夏ではないのかもしれない。窓の外から小学生くらいの子供が自転車で走るのが見える。ほら見ろ夏じゃないか、と思う。けれども梅雨が明けたのかどうかさえ知らない。

東京は38度の暑さ。群馬では39度を超えたらしい。日本はどこまで熱くなるのか、わからない。外に出ようと思ったが、ソファで休んでいたらそのまま眠ってしまった。時計を見たら夕方。やろうと思っていたことが何もできないまま1日が終わろうとしていた。

スーパーに買い物に行こうと外に出たら、ムッとするような熱気でひるんでしまった。日本が巨大な蒸し器に入ってしまったかのようだった。自分が人間なのかシューマイなのかよくわからなくなった。大きな地球儀のようなものを渡された思ったら、それはひと粒のグリーンピースであって、自分はいつの間にかシューマイになってしまったのだ。そういう幻想をボーッとしたまま見ていたら、陽炎の中で横断歩道の信号が青になったのに気づいた。のろのろと渡った。

スーパーにはほとんど人がいなかった。夕食の買い物で賑わっているはずの時間帯なのにいったいどうしたのだろう。みんな暑さで死んでしまったのではないか。みんなシューマイになってしまったと思った。つまるところみんないつか、どこかでシューマイになるのだ。たまに餃子になる人もいるが、そんなのは僅かで、大体の人間は暑さに持っていかれてシューマイに仕上がってしまう。愛も喜びも恨みごとも憤りもみんなぎゅっと凝縮されて、何か熱いコアのようなものを抱えたまま、みんなそれぞれシューマイになるのだ。

何度も蝉の声を聞いてきた。今年も多分聞くのだろう。死ぬまで聞くのだ。

酒を飲んだ。そしてこれを書いた。だからなんなのだ。



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