憧憬
尊敬する人間がいる。
その人は人当たりが良く、それでいて頭も切れる人だ。
茶目っ気もあって、誰からもモテる。
無論、ぼくもその人が好きだ。
ぼくは、その人になりたかった。
その人の様子をひたすらに追いかけ、文に綴った。
その人になるために、ぼくはあらゆる振る舞いにおいてその人の真似をした。
ご飯を奢る、座席を譲る、落とし物を届ける。
例え顔を顰めたくなるような不運に見舞われても、粛々とアクシデントに対応していく。
『その人ならこうするだろう』。
ぼくの全ての行動にはこの思想が伴っていた。
そんなぼくを見て、その人が嫌な顔をすることもなかった。
なんて快いのだろう。好きな人間と同じ振る舞いをしても、誰も不愉快にはならなかった。
それどころか、みんなぼくを受け入れてくれている。
これほど満たされた気持ちなら、どんな辛い目に遭ってもかつてのような希死観念に囚われることはないだろう。
そうやって"その人"の猿真似でしかなかった振る舞いは習慣化し、ぼくのパーソナリティに深く溶け込んでいった。
そのうち、その人と話す機会はほとんどなくなった。仲違いをしたわけでもなく、ただただ時の流れに際して環境が変わったに過ぎないことだった。
当初は思考に常に隙間が空いたような不安感に苛まれていたが、すぐに些細なことだと気がついた。
なぜならば既に、ぼく自身がその人の役割を担っていたからだ。
全部、ぼく自身で代替できる。
模倣、あるいは被り物の人格でしかなかったその人の、ぼくのパーソナリティは独立を遂げた。
それに伴って、世界は以前より一層と淡白に見えた。
誰かに期待することも無くなった。
周囲に快く見えるよう振る舞うのは、ぼく自身が不愉快にならないための処世術でしかなかった。
それすらも、周りからすれば余裕があって寛大な様相にしか見えていなかった。
では、これはぼくに限った話ではないのではないか。
ぼくが憧れたその人は、楽しく生きていたのだろうか。
ぼくの目に気高く映った精神を、本当にその人は持っていたのだろうか。
ぼくは、あの憧憬の中心に立てているのだろうか。
……ぼくは近いうちに、その人の歳を越すことになる。
ぼくはその人に楽しく過ごしていてほしいと願っているけど、その人と話すことはもう叶わないのかもしれない。
でも、いつか覗いてみたい。
その人の考えを真に理解したぼくの眼で、その人の人生を再び見てみたい。
しかし、その人ならこう言うのだろう。
『君が見た景色、感じた気持ち、その全てと同じように、ぼくも生きてきたよ』と。
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