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愛とは結果

2023年も既に2ヶ月が過ぎようとしている。
わたしの住む山は、例年にない低温と連日の降雪に見舞われた。長くここに住んでいる方々も「10年振りの雪の量だ」と一様に驚いていらっしゃる。
寒冷地仕様ではないわたしの車はもう数日間動かせず、車の屋根の上の雪も溶けずに積もったまま。標高642mの山の中腹に引っ越してひと月半。よその地域の降雪ニュースを見ては雪降ってほしーい!などと無邪気に呟く温暖な静岡で育ったわたしが、この歳になって雪降る山に住むことになるなんて…。
人生何があるか本当にわからないなと思う。
真っ白な庭が眩しくて愉しくて雪が降るたび動画を撮ったり雪だるまを作って遊んでいたのだけど…「もういい」と思い始めている。雪の中の生活ってこんなにも不便で大変なのね…。
初めて実感として味わった。

そんな雪による自宅幽閉の中、師のオンライン講義に参加。(こんな幽閉状況下でも参加できる!ありがたい時代です。)
唐突に衝撃的なフレーズに出遭う。
『愛とは結果 それは物質的思考に過ぎない。』
んーこれか…。
何十年と探し求めた答えでありわたしの中のラスボス、それがハッキリと見えた。

愛を求め、愛を探し、愛を伝うとしてきた自らの使命(と思い込んでいた)が、師のこの言葉を耳にした瞬間、跡形も無く消えた。
もう、愛を声高に叫ぶのはよそう。
素直にまたキョーレツにそう思った。

わたしは5月生まれ、太陽星座牡牛座。
星座にはその星座の象意をワンフレーズで表すキーワードがある。
牡牛座のキーワードは「I  have」我所有す…
なんとも二次元的な、物質世界の原初的な表現である。そりゃあさぁ、結果である『愛』を求め続けるだろうなって感覚的に解るわ。
持つこと、所有することで満たされる牡牛座。
(与えられて受け取り、それを持ち続けるという意味で)愛を持っていると感じられれば安心できる、愛を持っていないと感じればたちまち不幸の想いに打ちのめされる。単純だけど牡牛座のわたしにとっては非常に重要なことだから…。

(この細かな内容は占星術を学ぶ人にとっては非常に重要なのだけど少々難しくなるのでここでは割愛。)

ヒトは物事の始まりにおいていずれくる終わりと結果を求める。
…のが通常の時間的経過であると考えられている。(ごく一般的にはね)
それは、時間の流れは今から未来へ向かっていると言う既成概念から来るものに依るだろう。
生物体は負のエントロピーを食べて生きている…負のエントロピーとは氣であると…んーまだよく落とし込めていないのだけど。

要するに加えると言うことに重きを置くとヒトは衰退してゆく。
引いてゆくことで力を漲らせてゆく。
愛とは加えてゆくこと(のようにされている)。それはただの思い込みなのだけどみんなそうしているだろうしわたしもそうしてきた。誰かの温もりを感じるときヒトは孤りじゃないと感じるから安心し強くなった気がするでしょう。だけど…実はこれが厄介で、お互いの体温を奪い合う行為だと気がつくには随分と長い学びの時を要したし幾つも(いや何十もの)事例を経験する以外に習得する術はなかったわけなのね。わたしは、学びに時間がかかるタイプの人間だから。
これが、愛とは結果であり物質的思考であることの由来ではないかと
思った次第。

奪い合う、それとも与え合う?と捉えるかによってその結果は大きく変わってくると言うことも事実。
この地球はなぜか奪い合いで成り立っている。
領域を確保することに誰もが注力するから。
国土を領土を、モノを、技術や思考を、我のものと定義づけたがり、そうしてきた。これが牡牛座乙女座山羊座の示す固定化の概念だ。

2020年12月22日、およそ20年ぶりのグレートコンジャンクション(木星と土星が同じ位置で重なり合う現象)とともにグレートミューテーション(およそ240年ごとにグレートコンジャンクションの起きる星座のカテゴリーが変わること。星座のカテゴリーは火地風水と4つに分けられており、今回は地のカテゴリーから風のカテゴリーへと移行した)が起きた。
「目に見える物質」が重視される地のカテゴリー(山羊座)の時代から、「目に見えない知性や情報」が重視される風のカテゴリーの時代(水瓶座)へと変化するタイミングが来たのだ。

私たちはここをもっとよく知り認識して生きる必要があると思う。なぜなら愛は物質であるから。そしてそれは結果であって、実は歓びや生きる力、支えは結果や物質からではなくもっと大きな存在、すなわちインスピレーションやバイブレーションからくるモノだと言うこと。これに尽きると思う。
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↑と、ここまでは今年の早春に書いたわたしの想い文。今は初冬です。2023年11月18日。
今のわたしの想いは、あれから少し熟成したようです。今までの自分の愛の表し方とこれからは変えていこうって思ってる。
かけがえのない時を共有したいと想える誰かにわたしのことを愛してもらいたいと。
わたしが守り癒し看るという謎の使命感からの恋愛をし続けてきた結果、今のわたしはご覧のとおり独りきり。
自由で軽やかだけど、時に誰かと静かに氣持ち重なり合う時を過ごしたいとも思うわけで…。
わたしのことを大好きになってくれるひとがいたら大好きになってもらいたいなと思ってる。
これまでこういうこと考えたことなかった。
大人になったのでしょうか。
それともこどもの頃に戻ったのかな…。

母に愛を乞うて、受け取れなかった幼い頃の記憶がわたしを臆病にさせているのかも。
何かを成すことで、その見返りとして褒められたり認められたり…その僅かな褒美としての愛のようなものを“愛”と勘違いしすり替えて来たこの人生の、折り返しにきてやっと知る自分の本当の姿。
強がりばかり言ってきたしそれでやってこられたけど、もうそういうのは終わりにしようと思います。
note、ありがたい。
commitmentしておく場として…。
追伸 今朝、今冬初の雪が降りました。


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