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絶対音感 最相葉月著 新潮文庫(2006年5月発行)

単行本が出たのが1998年です。所有している版は2006年に文庫化されたものの第四版で発行は2009年。自分が最初に読んだのはたぶん2015年頃だと思うんですが、再読した現在(2021年)の状況と比べても記述の中に「特に古い」と感じさせるものは少なかったです。

本書はプロローグとエピローグを除く全八章で構成されています。音楽的な知見はもちろん科学的な検証や現場で活躍する各種音楽家たちへのインタビューに加えて過去の名作曲家・名演奏家のエピソードを交えた良質なノンフィクションです。

それでは中身をご紹介しましょう。ちょっと長くなってしまいました。

第一章 人間音叉

絶対音感を持つ人々の状況・感覚・エピソードが中心。インタビューからは生の声が聞こえてきます。絶対音感と言えば、「CMで流れる曲もすぐにピアノで弾けるんでしょ。便利だなぁ」ぐらいの認識しかない自分にとって、絶対音感保有者の「苦しみ」はとても新鮮でした。絶対音感と調性の関連、日本における音楽教育の課題など、後の章につながる話題がさりげなく示されています。うまいねぇ。

第二章 形見の和音

戦前・戦中・戦後あたりの音楽教育を、演奏家でもあり、音楽教育者でもある「園田清秀(1903-1935)」による「絶対音早教育」とそれを引き継がれ体系化されたといわれる「絶対音感教育」について触れられています。そこから1995年時点でのヤマハ音楽教室でのプログラム実施状況について、極めて冷静に実情が語られています。

第三章 意志の刻印

第二章でも絶対音感が後天的なものか遺伝的なものかという話題に触れられていましたが、第三章では絶対音感もしくは音の記憶について脳科学的な観点からまとめられています。音の高低の判断、周波数の解析能力、音の記憶など、極めて興味深い内容が語られています。これも当然ながら20年以上前の話題なために最新の脳科学ではないんでしょうが、読んでいて違和感を感じるような点(自分の感覚と食い違う点)は見つけられませんでした。

特に興味深かったのは、音あるいは調性に伴う色の認識でした。音楽についてあるいは楽器について「その音色が素晴らしい」という表現は日常的に行われるのですが、絶対音感を持つ一部の人は本当に色が見えるんですね。ただ、個人的には「ハ長調は明るい」など調性とイメージを結び付けることには懐疑的で、「明るい曲にハ長調が多い」は言えても「ハ長調が明るい」とは言えないのと思っているのですが・・・。

それはさておき、研究結果やインタビューをうまく配置しながら、絶対音感の構造が少しずつ明らかになっていく様は快感でした。

第四章 幻想狂想曲

ここでは特に子供に対する音楽プログラム、いわゆるメソードについて、絶対音感を見につけるためのメソードと、絶対音感ではなく相対音感を重視するメソードとが同程度に語られています。どちらがいい、などの結論はまだ出さないんですね。そこには親が子供に対する教育として臨んでいることは?という観点が含まれていてとても考えさせられました。

その後、固定ド唱法と移動ド唱法に話が移っていきます。簡単に言うと固定ド唱法は「ドは何があってもド」であるのに対し、移動ド唱法は「ドがミになってもそれをドと呼ぶ」ものです。何が何だかわからないと思うけど。

実は私は30年以上吹奏楽をアマチュアながら続けています。部活の外部指導員も務めたこともあるのですが、吹奏楽経験者は固定ド唱法と移動ド唱法を(名称は知らないかもしれないが)普通に使いわける、というかそれが当たり前な状態です。読んでいておもわずにやけてしまいました。

にやけついでに、本書の紹介を少し外れて解説すると、カラオケで「かえるのうた」をうたう場面を想像してください(本当に歌っていたらある意味すごいけど)。「かえるのうた」をドレミで歌うと「ドレミファミレド ミファソラソファミ グワッグワッグワッグワッ・・・」となりますよね。ここに最新の機能を使って音程を三度あげるとします(音楽的に三度というのは1ド→2レ→3ミのこと)。結果として最初の出だしは「ミファソラソファミ」となりますが、たぶんルーム内にいる全員が、三度あげたメロディを「ドレミファミレド」と歌うはずです。それが移動ド唱法でこれが絶対音感保持者には混乱のもととなるらしいのです(ちなみに本書では「ちょうちょう」をつかって説明)。

ではなぜ吹奏楽経験者はこれを使いわけられるかというと、クラリネットやトランペット、フルートなどの楽器には基本となる調性があらかじめ決められています(移調楽器)。クラリネットやトランペットはB♭が基本(もちろん違う楽器もあるのですが)。フルートはC。サックスに至ってはアルトサックスとバリトンサックスがE♭、ソプラノサックスとテナーサックスがB♭という感じなのです。

そして楽譜はというと、それぞれの調に転調して書かれています。つまり、一般に「ド」と言われたときに思い浮かべる音符の形が、C調ではドの音、B♭調ではピアノで鳴らすと「シの♭」になります。でもクラリネット奏者(のほとんど)はこれを「ド」と呼ぶのです(知り合いは相手によって使い分けています)。

これにサックス達が加わるとさらに話がややこしくなるので、部活の指導をしているときはドレミをつかわず、CDE(チェー・デー・エー)というドイツ音名で音を表現するよう徹底していました。これは固定なので勘違いは起こらないのです。ちなみに中学の吹奏楽部にくる子たちはピアノを習っていることが多いので、特に要注意。

それはさておき、本書ではこの固定ド唱法と移動ド唱法の混乱を戦後からの学校教育に端を発するとしています。専門家を養成する際には固定を、そうではない初等教育では移動を使い分けていることが問題であり、その使い分けについての教育に欠けていると。

個人的には音楽教育というのが何を目的としているかを明確にしないまま、ドレミだの、リズムの取り方だのテクニカルな部分だけを教えようとしていることが一番の問題であると思うのですが・・・。

第五章 失われた音を求めて

ピアノの調律やオーケストラの演奏前に行われるチューニングなどで使用される「基準音」から話が始まります。この基準音は単純に「ラ(A音)」だけでなく、それが何ヘルツなのかということが問題となります。

本書が書かれた当時は日本では440ヘルツが主流だった(吹奏楽の世界では442ヘルツが使われていた)のですが、世界では442ヘルツが主流となってきていて、440ヘルツで絶対音感を身に着けた人には「気持ち悪くて音が取れない」という弊害が発生しているということが語られています。

あわせて平均律・純正律についても話が及び、簡単な解説と様々な楽器奏者の体験談がとても興味深いです。ちなみに自分がやっている楽器はトロンボーンで、好きなように音程を変えられるので、平均律だとか純正律だとかで悩んだことはないです(自分だけかな)。

第六章 絶対の崩壊と再生

ここでは指揮者に焦点があてられます。楽曲のイメージをつくり、演奏者に伝え、オーケストラが進むべく道筋を指し示す指揮者(指揮者はメトロノームではない)はこの絶対音感とどのように向かい合っているのか?交響曲で鳴っているすべての音を指揮者は把握できているのか?

答えは本書で確かめていただくとして、自分が師事している世界的なプロ指揮者が本書の内容とほぼ同じことを、何度も繰り返していたのを思い出しました。

本章で著者は一定の結論を述べています。ここまでの章をよむかぎり、違和感のない結論であり、自分もそれには深く同意しました。

第七章 涙は脳から出るのではない

2021年現在では当たり前となった、コンピュータによる作曲。作曲どころか歌うのもプログラムだったりしますが、そのコンピュータ音楽は人の感性を揺さぶれるのか、というあたりに焦点が当てられています。前章で一通りの結論が提示されているため、本章と次章は「おまけ」ととらえるべきでしょう。

ちなみに、自分は車の中で延々とボカロを流し続ける人間であると同時にクラシックの名演も流し続ける人間です。最近では1959年録音の「英雄」に感動したし、「新世界より」は三つの録音を連続して流し、どの録音のどこがいい、などと一人で批評家を気取っていたりします。

そんなわけで、再読したとき、本章は「古い」という印象しか持てませんでした。残念。

第八章 心の扉

バイオリニストである五嶋みどり氏を中心に、その一家についてまとめられた章です。いわゆる伝記(まだご活躍中なのでこの言い方は失礼に当たるのですが)スタイルとなっていてバイオリニスト一家の実情がしれてとても面白い章でした。


★★★★

以上のように、執筆から20年以上が経過しているにもかかわらず、また流行の変遷が大きな音楽を題材にしているにもかかわらず、ほとんど古さを感じさせない、ノンフィクションの名著だと思います。

特に「楽器をただ演奏できればいいんだ」という方をのぞく音楽関係者、生まれたばかりのお子さんに音楽の道を歩ませたいと考えているご両親にはぜひご一読いただきたいものです。

できれば学校で音楽を教えている(あるいはしようとしている)方にも読んでもらいたいのですが、「こんなこと知ってるよ」で済まされてしまうかもしれませんね(知っていると理解しているは違うのですが)。

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