言葉で追いつけるか
どうも。
Kabaddiです。
1ヶ月以上毎日note更新して言葉を好きなだけ紡いでいますが、今回はそんな言葉を使うことは、映像や風景に追いつけるかという話。
言葉で追いつけるか
先日購入した森見登美彦の新作文庫本「夜行」の中で、偽坊主がこんなことを言っていました。
このように車窓の景色を眺めるとき、自分の目に映る景色の一つ一つに言葉を投げかけてごらんなさい。常日頃はボンヤリと眺めているだけの景色を、ありったけの言葉を尽くして説明しようとしてみるんです。
(中略)
もはやなんの言葉も出てこなくなるまで、ひたすら風景のために言葉を尽くす。そんなことを続けていると、やがて頭の芯が疲れきって、ついにはなんの言葉も出てこなくなる。目の前を流れていく風景に言葉が追いつかない。そのとき、ふいに風景の側から、今まで気づきもしなかった何かがフッと心に飛びこんでくる。
こんな一節でした。
読んでみてハッとしました。
風景を言葉にすることは美しい行為だと思っていたけれど、
そのために言葉を尽くせば尽くすほど言葉は風景に置き去りにされて、
せっかく視覚から認識した風景が通り過ぎていってしまう。
たぶん森見登美彦氏が伝えたいことはそうではないのかもしれませんが、言葉にとらわれるべきでない、という文脈もたしかにあると見て、そのことに心を動かされました。
思考することや言語化することは良いことのように見えて、ものごとの全てを表現することの絶対にない、誤解の始まりのようなものかもしれない。
単純に目で見て耳で聴いて感動し、
それを言葉でなくその感動の熱量そのままに思い出として保存できれば、
それが一番いいのかもしれない。
言葉はふしぎなものです。
だからこそたくさん触れていたいし、たくさん生み出していきたいと感じます。
とにもかくにも、
森見登美彦「夜行」、おすすめです。
森見登美彦らしからぬ作風で大変良い。
今夜はこの辺で。
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